Keep On“Keeping On”

天野 景

 

 

 1.「Rainy Blue」

 村雨研の、いつもの椅子でふんぞり返りながら物思いにふけっていると、アイネがやってきた。

「やほー、塚本センセ」

 アイネは屈託なく笑うと、コーヒーポットから自分専用のマグに熱いコーヒーを注ぐ。

「センセもお代わりいります?」

「ああ」

 センセ、と呼ぶところは最初に会ったときとまったく変わりがない。進歩がない、ともいえる。

 アイネこと大川愛音と俺が出会ったのは、まだ彼女が我が母校北高の学生だったときだった。家庭教師のバイトでのこと。それがどうだ。今では彼女は 院生になってる。驚くべき、時間の流れよ。

 冷めたコーヒーを口に含み、俺は少し顔をしかめた。マグを差し出すと、アイネがコーヒーを足してくれた。

「センセ、論文進んでます?」

「そのセンセっちゅーのはやめい」

 俺は研究室でまで先生と呼ばれるような立場じゃない。現にまだK大文学研究科修士課程の三回生でしかない。文学研究科というご大層な名前だが、実 際のところは学部の上位に組み込まれている形でしかない。所属する研究室は相も変わらぬ村雨研だ。修士課程はストレートならば二年で卒業できる。ところが 俺は諸々の事情でまだ留まってる。修士論文を書かなかったせいもある。そんな理由で、現在では、すでに卒業してしまった先輩に代わって「三年友の会」の会 長をしている。

「何か考え事ですか。珍しい」

「珍しい、はよけいだ。が、ま、そういうこったな」

 俺はあっさりと答え、パイプ椅子を傾けて揺らしながら、天井を見上げる。

 昔、先輩たちが吊した天使やマンボウやらのぬいぐるみが、窓から吹き込む風にゆっくり動いていた。

 外は激しい雨が降っていて、流れ込む風にも湿り気が混じってる。

 K市の梅雨は激しい。他の土地からやってきた連中は、一様に驚く。雨が当たるとみみず腫れができそうなくらいの痛みがあるほどだ。しかも雨が降っ ても気温がなかなか落ちないから、不快度は半端ではない。

 以前、南米に留学していた地理学の教授がいっていたが、K市の蒸し暑さは赤道直下並みらしい。今も、雨が降っているにも関わらず、30度前後あ る。

 それでも閉め切って6月からクーラーをつけるよりはマシだ。俺は自然の風の方が好きだ。

 そんな涼しいのか蒸すのか分からない風に吹かれながら、俺は天井を見上げている。

「結婚、か……」

 呟きに、ルーズリーフを広げていたアイネが反応した。

「え、センセ結婚するんですか」

「阿呆」

 目が好奇心にきらきらしてやがる。そういうところも昔とちっとも変わってない。

「俺の友達が、だ」

 修士課程は三年目に突入した。ごく普通に考えりゃ、学部を卒業して三年目に入ったってことだ。そろそろ社会に出た連中が身を固めだしてもおかしく はない時期だ。

 ふ、と自分を顧みて、自嘲したくなることがある。

 椅子をガタリと鳴らして、コーヒーを口に運ぶ。注ぎ足した分は、完全に煮詰まっていた。俺は顔をしかめた。

「淹れなおすか」

「わ。センセ、ありがと」

 両手を挙げて感謝の意を表明するアイネ。

「こういうときは後輩が気を利かせるもんだがな」

「だって、センセの淹れるコーヒーおいしいんだもん」

 溜息混じりに俺は立ち上がり、コーヒーの新しいフィルターを箱から引っぱり出した。

 

 

 2.「すばらしい日々」

 仲の良かった友人たちは、それぞれの進路を歩んでいる。中には進路、というには疑問の残るやつもいるにはいるが、まあ、それはそれ。

 高校時代に仲のよかったやつは多いが、中でもいつもつるんでいた五人がいた。

 かつて放送部で暴れまくっていた茶園朋美は、K市内にあるラジオ局でレギュラーを持ってる。ノーテンキな放送は相変わらずだが、不思議と少ないな がらもファンがいるらしい。

 幼馴染みの島田京子は、南方の高校で国語の教師をやってる。意外にというべきか、生徒に人気があるらしい。

 他県の大学へ行った千堂司は、卒業後、海外へ放浪の旅に出たまま、時折手紙が来る程度だ。半年以上前に来た手紙はインドからだった。

 また、ザキこと板崎友紀は現在無職。K市内で高校教師を二年間した後、こないだ退任した。暇な時間に、文学部の授業を語学中心にこっそり受けに来 てる。俺の紹介でだが。

 新田慎一郎は、現在サンクトペテルブルグなんてとこにいやがる。一般的な連絡先はモスクワの日本大使館。大学を卒業後、外交官試験に合格し、東京 で語学研修を終了、ロシアでもうすぐ研修を終える予定だ。

 他の友人たちもそれぞれにやっているようだ。風の便りでもう結婚して子持ちになったやつもいると聞く。

 高校の友達だけじゃない。研究室の同期も、だ。

 テレビ局で働いているやつ、学校の先生になったのや公務員やってるやつ、広告代理店で腕を振るっているやつ、様々だ。同じ大学院に入ったのも、こ ないだ先に卒業してしまった。

 皆、それぞれの道を歩いてる。環境も立場も変わった。俺だけが、何も変わらず、いまだ学生なぞやって、研究室でふんぞりかえり、コーヒーを飲んで る。

 文藝部でもいまだ名簿に名前を連ねているわけだが、そのサークルもずいぶん変化してしまった。俺たちがいた頃には皆盛んに作品なぞ書いていたのだ が、最近では書き手より読み手の方が多く、メンバーの書いた作品が足りずに読書会ばかりやっている、らしい。らしい、というのは俺は学部をここしばらく部 会に顔すら出していないせいだ。

 俺ひとり時の流れに取り残されたような気がする。

 梅雨時にそんなことをじめじめ考えていると、壮絶な自己嫌悪に陥ってしまう。

 いったい俺は、何をやっているんだろう。

 

 

 3.「自分についた嘘」

 大学院に進んだのは、卒論程度では研究に満足できなかったからだ。院生と学部生では研究の内容や濃さ、質がまったく違う。

 俺が卒論でやったのは19世紀から20世紀にかけてのイギリス文学だった。この時代は、科学と迷信の混じり合った混沌の時期でもある。

 ブラム・ストーカーが『吸血鬼ドラキュラ』を書く一方、コナン・ドイルが「ホームズ」のシリーズを書いた。

 進化論が発達し、エントロピーの法則が唱えられ、人間がいつか滅びるものなんだってことを暗示した。また、H・G・ウェルズが進化と科学の行き着 く先をSFという形で表した。『宇宙戦争』で襲来するタコ型の火星人は、不必要な器官を進化によって失った姿だったし、『タイム・マシン』は人の科学を もってしても、滅びを止めることはできないことをいってる。

 切り裂きジャックがロンドンには出没し、スモッグが人を殺し、当時留学していた夏目漱石はノイローゼに陥っていた。

 侵略戦争を吹っかけると同時に、東欧等からの移民に頭を抱えてもいた。

 そんな時代に興味を覚え、いろいろな角度から研究を進めてった。当時のイギリスが置かれていた状況。経済、政治、外交、産業、文化、風俗。どんな 研究もそうなのだろうが、調べるほどに様々なファクターが絡み合い、面白くなっていく。

 卒論にと本気で考え出したのが大学三年の頃。K市内の本屋で洋書を取り寄せるのは時間も金もかかるんで、イギリスに留学した知り合いや、イギリス 人留学生に頼んだりして着々と資料を整えた。

 が、四年になって卒論用資料を読みながら、「これじゃ終わらないな」と思ったのもたしかなことだ。

 どこまでやっても、終わらない。興味がある限り、果てがない。そんな感触だった。

 やっていて面白いんだが、どこまでやれるのだろうか。

 どこかでびしりと区切りをつけるべきなのかもしれない。何事も際限なくやっていたならば、他のことが犠牲になり、多くのことをできなくなる。

 こってりと悩んだ挙げ句、俺は就職活動をせず、大学院進学を決めた。

 考えてみれば、俺は社会不適応者なのかもしれない。外に出るのをどこかで怖がっていたところがあるのかも。

 俺には、ずっと前からやりたいことがあった。

 研究は面白い。時々忘れてしまいそうになるが、そもそもそれはやりたいことの足場固めとして始めたものだ。

 昔、ある物語を書きたいと思ったのが、始まりだった。あまりに大切な物語であったため、俺にとって世界との接触は、その物語のために過ぎないよう な錯覚さえ覚えるようになった。学校の勉強も、必要だと思うと苦しくもなかった。到達するための目標があるから、頑張れるという面もある。

 中学、高校、大学、とそうやって生きてきた。

 が、その一方で、迷いも大きくなってくる。年齢を重ねるごとに、だ。

 周囲が当たり前のように就職活動をしてるとき。

 周囲が当たり前のように社会人となってったとき。

 周囲が当たり前のように家庭を持つようになってきたとき。

 俺は社会との違和感をますます感じるようになってきた。

 このままで俺はいいのか、てな疑問。

 同時に、このまま社会に出て、どうなるものか、てな確信。

 曖昧なまま、俺は大学院に「逃げた」という面があることは否定しない。否定しても始まらない。

 ちまちまと文章の修行もしてる。知識も仕込んでる。研究も続けてる。

 間違っているとは思いたくないが、間違っているのではないかという不安は常につきまとう。

 友人たちの近況を聞くたびに、そう感じる。

 何だか俺ひとり、樹海に迷ってしまったようだった。目標を示すコンパスも揺れまくって、俺はどこへ向かったらいいのか分からなくなってる。どこへ 向かってるのかも分からなくなってる。

 俺は迷っている。迷いながら走っている。

 昔からずっと。

 今もなお。

 

 

 4.「友達の唄」

 今度結婚するというのは、高校時代からの友人だ。

 新田慎一郎とザキこと板崎友紀。

 高校三年間を同じクラスで過ごし、ザキは同じK大の隣の学部ってこともあって、わりと顔を合わせることも多かった。

 大学を卒業してザキは高校の先生になり、新田は外交官としての研修を受けることになる。この二人は、中学のときから付き合ってたんだが、初めて離 ればなれになったわけだ。

 前、新田に外交官になりたいわけってのを聞いたことがある。

「俺は俺のことを誰も知らないような環境に行ってみたいんだ」

「それで外国かよ」

「そう。言葉が通じにくいところから関係を作っていくことを、もう一度やり直してみたくて」

 新田は幼い頃から転校が多かった。父親の仕事の都合だったらしい。転校する先々で、あまり外向的でない新田は、友達などなかなか作れなかった。い じめられたことも、仲間外れになったこともあるらしい。それで、ひとり好きなハーモニカを吹いたり、本を読んだりしていたのだという。そのうちにまた転 校、という繰り返しだったそうな。

「孤独に慣れようとしていたのかもしれないね」

 今では笑ってそういう。

「でもね、ユキさんに会って、もうちょっと別のやり方があるってことを知ったんだ」

 ユキさん、とザキのことを呼ぶのはこいつだけだ。おそらくそのザキが、新田のいいところを引き出したんだろう。俺が高校で二人に出会ったのは、そ の後ってことになる。

 現に、高校で出会った新田は、たしかに少々内気っぽいとこはあったが、友達ができないわけでもなかったし、作らないわけでもなかった。

「だからね、もういっぺん、最初からやり直してみたい気がするわけ」

 新田は手をぱたぱたと振る。何だかその仕草がザキを連想させておかしくなった。

「それだけじゃなくてね。俺、ずっと外国に行って、何かの役に立ちたいと思ってたんだよ」

 ロシア、という具体的な国名はそのとき出てなかったはずだ。新田も、国までは決めかねていたのだろう。大学で語学として習ったフランス語を生かし て、そちらへ行くものとばかり思ってた。ところが面接で希望する国を聞かれ、ロシア、と答えたらしい。

 後から聞けば、

「ロシア、でもいいと思ったんだ。あの国は社会体制が崩壊したばかりで、まだ混乱と混迷の中にいる。それだけじゃなくて、日本にとっても、隣の国だ からね、遠いみたいだけど。俺でも役に立つことができるなら、喜んで行ってみたいんだ」

 そのとき、こいつはこいつなりに考えてるんだな、って思った。

 新田とザキは、自然にカップルをやってた。二人は性格が正反対といってもいいほど違ってたが、並んでいるのが当たり前のように俺たちは思ってい た。そのザキから離れてまで、新田はやりたいんだという。

 てっきり俺は、自活できるような身分になったら一緒になるもんだとばかり思っていた。俺の考えが甘いのか。

「ザキと結婚とかしないのか」

 俺がそう尋ねても、新田は微笑むだけだった。

 その後、東京で研修を受けている間も、サンクトペテルブルグに行ってる間も、新田はマメにザキと連絡を取ってたようだ。最近は電子メールなんて便 利なもんもある。ロシアの方は少しもたつくことがあるが、それでも届く。俺の方にもたまに新田からメールが入ってることがあった。

 国を隔てても、やつらの交際は続いていた。そうして、今度ひとつの結果を出すことになったんだ。

 結婚、という結果を。

 就職にせよ、結婚にせよ、ひとつの想いを貫く、という行為には多大なエネルギーが必要だ。

 俺には何ができるのだろう。

 貫くだけの強い想いを持ってるんだろうか。

 

 

 5.「7月7日、晴れ」

 カレンダーがめくられ、七月となったある夕方。

「あ〜、いたいた〜」

 そう聞き慣れた声でいったのは、茶園だ。ラジオ局でパーソナリティーも勤めるその声は、よく通る。仕事を終えてやってきたのだろう。ラジオ、とい うことで姿までは放送されないから、ラフな格好のままだ。

 カラオケなどの機材を持ってきているのは、昔とまったく変わってない。変わったのは、昔と違って多少茶園セットが小さくなったことくらいか。文明 の進歩ってやつだ。

 茶園と合流し、俺たちは五人になった。

 ザキと新田は並んで歩いているし、思うことはいくらでもあるのだろう。新田は今回の短い休暇が終わったらまたすぐに日本を離れなければならない。

 その後ろ、俺と同様にコンビニの袋をいくつか下げて歩いてるのは京子。仕事を終えて、車でK大まで駆けつけた。

 緑色の葉っぱを無数につけた桜の下を俺たちはぶらぶらと歩く。よく晴れた空に浮かんだ雲はもう茜色に染まってる。

「あのときは、ここで宴会したんだったよね〜」

 高校最後の春。俺たちはK大内の桜の下で、合格祝いをした。花見をしていた大学生をも巻き込んだ宴会だった。

「多分、こっから始まったんだ」

 ザキが桜の幹に手を当てて、しんみりという。多分、五人の中で最も立場が変わったのが彼女だろう。

 彼女はもう板崎じゃない。今日、婚姻届を出してきたばかりだ。

 たしかにザキのいう通り、俺たちが高校を卒業し、始まった道は、ここがスタートだったような気がする。

 俺や茶園や京子が、研究室の先輩や教授と初めて出会ったのも、ここだった。

 それはもうひとりの、今ここにいないツカサとの別れの宴でもあった。

 新田がK市内にある別の大学に進む、という祝いでもあった。

 俺たちの、今も続いている旅は、ここから本格的に始まったのだ。

「それにしてもいい天気でよかったよね。七夕だしさ」

 たしかに今日は七月七日だ。わざわざこういう日に婚姻届を出すのは、意味があってのことだろう。牽牛と織女。新田とザキ。国境という河を越えて、 二人はようやく一緒になれたんだから。

 感慨深げに歩く俺たちに、後ろから声がかけられた。

「へい、そこのにーちゃん、ねーちゃん、俺も混ぜちゃくれねーか」

 どこに隠れていたのか、むさ苦しい男がいた。伸ばし放題の無精髭に、真っ黒に日焼けした肌。白い歯。Tシャツから出ている黒い腕には締まった筋肉 がついている。いかにもバックパッカーな感じで荷物を背負っている。肩に乗せていたギターを軽々と下ろしてみせる。

 千堂司だった。高校三年間ずっと俺たちとつるんでいた男。俺たちが実際にこいつと会うのはもう数年ぶりのことだった。

「よぉ」

「遅いぞ、ツカサ」

「千堂君、はい、これ」

 何事もなかったかのように京子がコンビニの袋を片方渡す。問答無用で荷物持ちになるツカサ。

「おーい、俺ぁ、今戻ってきたばかりだぜ。もう少しいたわってくれよ」

「今日の主役はお前じゃないだろ」

 ひょいとツカサは肩をすくめた。

「ま、そりゃあそうだがね」

「ツカピー、いつ日本に戻ってきたの〜」

「昼頃かな。シンガポール経由でニュージーランドから」

 ツカサは足下に置いたギターをまた持ち上げた。

「じゃ、行こうか」

 と京子が皆を促したものの、文学部の鍵を開くのは俺のIDカードだ。五時以降は文学部のドアはロックされてしまうので、学生証を兼ねたIDカード を用いる必要がある。このメンツの中で、文学部のカードを持っているのは俺だけだ。茶園や京子は文学部の出身だが、卒業したためカードは使えない。

 ドアロックを解除して、他の五人を誘い入れる。

 目的地は、学部の屋上だ。

 途中、電気が点いていたので、三階にある村雨研を覗いてみる。

「あ、センセ」

 疲れた顔をしたアイネがひとりで残ってた。

「明日朝イチで発表なんですよ。フランス語」

「それは助けになれんな。ほら、これでも飲んで頑張れ」

 手に持った袋から缶ビールを一本出すと、放った。

「わ。ありがと、センセ。大好き」

「はいはい」

 そうしてまた階段を登る。

 K大文学部棟は四階建てだ。屋上へ続く階段は鉄製の柵によって遮られているが、隙間をくぐったり、乗り越えたりと学生たちはよく上がってる。

 何しろ、景色がいい。

 K市内全域を見はるかすロケーションだ。市街地の中心に位置する烏城も見えるし、その後方にある山も見える。もしその山がなかったら、彼方にある 海までも視野に納めることができたろう。

 K市は緑の都だ。

 視界にはやたらと緑が広がっている。西にも北にも山がある。

 東を眺めれば、今度は広大な山々が緑の壁となってそびえている。距離は相当にあるはずだったが、対象がやたら大きいので問題にならない。

 こうした山々以外にも市内にはあちこちに緑があって、その色に包まれているような印象がある。K市に他から来た連中が驚くのはこの緑だ。

 実際に上がってみると、息ができなくなるほど見事な夕焼け空が広がってた。

「梅雨明けはしたんでしょ」

 新田が確認する。たしかに数日前に梅雨明け宣言が出されたはずだ。。

「今日は天の川が見えるかもね」

「多分、大丈夫でしょ」

 見れば東の空からじわじわと夜が広がってきている。

 俺たちはそそくさとコンビニの袋からツマミを取り出し、開く。それから缶ビールが回された。プルトップを一斉に開く。炭酸の抜ける音が心地よかっ た。

「みんな、いいかな」

 京子が皆の顔を見回した。

「じゃあ、これから新田クンとザキの披露宴0次会を始めます」

 新田たちは結婚式を挙げてない。披露宴もやらない。お披露目は、新田が初任地を勤め上げた後、しばらく休暇がもらえるそのときに日本でやるそう だ。今回は、婚姻届を出したのみ。

 それでも、俺たちは連絡を取って集まった。披露宴の0次会をやるために。ホントに内輪だけのパーティーだ。

 新田は明日またロシアに発ち、一ヶ月後ザキが新田を追うことになっている。

「乾杯――」「乾杯っ」「乾杯……」「乾杯」「カンパイ」「かんぱ〜い」

 ビールの缶が鳴らされ、俺たちはビールを喉に流し込む。うまかった。

「それにしても、遠距離からいきなり夫婦別居にレベルアップかよ」

「あはは、違いない」

 ダベりながら、俺は和んでいた。やっぱり、昔馴染みの連中といると心が落ち着くようだった。ずっと一緒にいた連中だ。距離が離れて、なかなか会え なくなってもどこかでつながっているというのを感じる。会わないことで止まっていた時間が、会った途端に動き出す、というような。

 こういう連中と付き合いがある、ってのは俺にとって本当にありがたいことだ。

 

 

 6.「きみにできるすべて」

 いつの間にか、とっぷり陽も落ち、烏城がライトアップされていた。

 屋上にはビールの空き缶がずいぶんと転がってる。ツマミの残骸も置かれてるが、風が今日はあまりないため飛ばされることはない。

 茶園の持ってきたカラオケセットでの騒ぎも一段落つき、星空を見ながら、皆しんみりしたムードで話をしている。

 夜にはこういう雰囲気が似合う。

 俺は京子と並んで、柵にもたれかかり、ややぬるくなってきた缶ビールを片手に夜景を眺めていた。

 星の散った空やK市内の光をを見てると、自分がひどくちっぽけに思えてきた。何をやってるんだろう、と心のどこかが醒めてしまう。

 それを察したのか、

「昔ね、天羽にいわれたことがあるんだ」

 と京子が唐突にいう。アモーは同期の女で、俺と同じ年に大学院に進学した。研究室は違ってたが、同じ英文系の研究だったので、わりと顔を会わせる ことも多く、しかも何の因果かバイト先まで一緒だった。黙って立ってれば美女、という感じのやつだった。

 こほん、と京子が喉の調子を整える。

「『京子って、結局、観察者、なんだよね』」

 アモーの特徴あるハスキーボイスの真似をする。

「観察者?」

 問い返しながらも、なるほど、と思った。さすがにアモーの目と表現はたしかだ。京子は仕切り屋ではある。研究室でもサークルでも会計を切り盛りし てきたし、コンパの幹事などもこなしてきた。皆の信頼も厚い。その一方で、自分の意見を持ってはいるが、なかなか外に出さず、自分のやったこと、やらな かったこと、他人のやったこと、やらなかったことを見ている。そんなフシがあった。縁の下の力持ちでありならが、表には出てこない、というような。

 アモーのいう「観察者」というのは、たしかに京子の属性ではあろう。多分、京子が観察者ならアモーは「傍観者」だ。だから、分かるんだろう。

「その観察者たる私が見るに」

 まじまじと京子に見つめられて、少しどぎまぎする。考えてみりゃ、こいつと二人で話すのも久々だ。

「な、何だよ」

「あんた、また悩んでるでしょ、コーキ」

 参った。幼稚園に入る前からの付き合いだ。たくさんバカをやってきた。バカを見てもきてる。この腐れ縁の女には何も隠せないような気がする。

「ま、な」

「あんたが何悩んでるか正確に分かるわけじゃないけどね」

「そこまで分かられてたまるか」

 くすり、と京子が笑う。ひどく大人びて見えた。社会に出ると、ふとした人の表情まで変わってしまうのか。

「私はね。あんたが変わってなくてほっとするの、いつもね」

「何だ、そりゃ」

「私なんか教員やってるとね、どうしても自分の時間を削ることになるの。大学のときも高校のときも暇さえあれば小説とか書いてたけど、それもなかな かできなくなってね。課外もあるし部活もあるし、補導にも出なくちゃいけないし」

 そういうもんなんだろうか。たしかに文藝部のOBやOGで卒業後も作品を書いている人はほとんどいないような気がする。

 俺にはそうした感覚がよく分からない。俺にとって、書く、という行為は呼吸をするのと同じようなこと、やってて当然のことだからだ。

「やりたいこともやれなくなっていくような気がするのよ。もちろん、私は私で自分の職業を選んだんだから、文句はいえないけどね。あんたは、まだ小 説書いてるでしょ」

「……当たり前だ」

 にっこりと京子は笑った。

「だから、あんたはそれでいいのよ。私ね、あんたはずっと変わらないような気がする。社会に出ても、大学に留まっても。あんたが変わらないと、私た ちは戻って来れる。勝手な言いぐさだけどね。それでもほっとするんだ」

「……」

「だから、悩みなさい、コーキ。悩んでもあんたはあんたなんだから。どんな選択をしても、どんな道に入っても、あんたはあんた。変わりっこない。変 わったとしても、私たちには分かるよ、きっと」

 どんな状況になってもこいつとの腐れ縁もまた、変わらないだろうな。俺が変わったとしても、こいつはすぐに見破るだろう。そして、俺の中から俺ら しい部分を見つけてくれるに違いない。

 多分、友達ってのはこういうのをいうんだろう。

 腐れ縁の友は、俺の鼻に指を突きつけた。

「だから、あんたはあんたにしかできないこと、今しかできないことをひとつひとつやってきなさい。それが一番」

 強気な言葉だったが、心にすうっと溶けていく。

「そういうもんか」

「そういうものよ」

 俺は空を見上げて息を吐いた。雲ひとつない星空。

 今、俺にできること。今、俺にしかできないこと、か。

 それは結局、分かり切ったこと。しかし、指摘してくれる友がいなければ確信できなかったかもしれない。

「あ〜、コーちゃんと京ちゃん、何らぶらぶモードになってるの〜」

 茶園だ。

「違うってば」

 即座に京子が否定する。

「まったくだ、バカ茶園」

 茶園がばたばたと手招きをする。

「ほら〜、早くこっち〜。花火するんだから」

 ぬるくなったビールを飲み干し、何となく、すっきりした気分で俺は柵を離れた。後ろから京子が続いた。

 

 

 7.「終わらない歌」

 茶園が買い込んできた大量の花火に、どこから持ってきたのか水を張ったバケツ。

 準備は万端だった。

「ほら、ライター」

 ツカサがポケットからジッポを放る。

 時ならぬ花火大会が始まった。

 茶園が歓声をあげ、ザキがロケット花火を使い、新田が的にされて逃げ回り、ツカサが花火を両手に持って振り回し、京子は次々に花火に火を点け、終 わったものは始末している。

 俺もジッポで火を点けて白い火が飛ぶのを楽しんだ。燃え尽きる花火を見ながら、少し物思いにふける。

 将来はどうなるか分からない。俺もいつかこの花火のように燃え尽きるだろう。だが、それまでに派手に燃えてやればいい。

 俺は俺だ。悩むのも俺。選ぶのも俺。結局は、俺の世界の中心は俺でしかない。人と比べてもしょうがない。俺は俺にしかできないことをする。

 京子がいったように。

 人生はその積み重ねなんだろう。トータルで見れば長い時間だが、「今」の集合体でしかない。その「今」を充実させていけばいい。

 大切なのは、それだ。

 そして「今」俺ができることといったら、これまでやってきたことでしかない。今までやってきたように、今からもやっていく。

 不安も悩みもすべて消えることはないだろう。だったらそのままでいいじゃないか。悩むのも俺なんだから。

 迷っていても、悩んでいても、やることはやっていく。それだけのこと。

 そう思うと、少し楽になった。いつか燃え尽きるにしろ、それまでにどれだけ輝けるか、が問題なんだ。人と違った色の火を出したりしてもそれはかま わないと思う。

 天の川に向かって花火をいくつも打ち上げる。花火と星に飾られた天の川を見ながら、俺はまた明日からやっていこうと思った。俺なりに、今俺のやれ ることを。

 

Ver.1.4. 2000.7.10.

 

B.G.M.:‘Keep On “Keeping On”’by M.Nagai

&

‘きみにできるすべて’by LINDBERG

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