堀井歩太と神社の石

〜Cheshire Cat Girl〜

天野 景

 

カイザーに――

 

 

1.

 しりとりは佳境に入っていた。

 「しりとり」といっても、実際はその形態を取った別物の暇つぶしに他ならない。鈴木亜由美と、同じ村雨研に所属するこの俺、塚本光輝によって開発 されたゲームである。この場合は、「しりとり式二題噺」といった方がしっくりくる。

 しりとりはしりとりなのだが、相手が出した言葉とそれに続く自分の言葉で何かネタを話さなければならないのだ。本来、暇つぶしのために考案された ものだから、たらたらと続けようと思えばいつまででも続く。短くしたければ、何巡りかを設定して、それで判定をすることになる。これが三人になれば「しり とり式三題噺」になるが、人数が増えるほどに難しくなっていくことはいうまでもない。

 こういった言葉遊び的なゲームを大学一年生の頃に二人していろいろと考案した。かなりのゲームは淘汰されてしまったが、今でも「漢字変換式連想 ゲーム」などは残っている。

 さて、鈴木亜由美は、ようやく俺のネタから立ち直った。それまで笑い転げていたのである。

「いやー、しっかし、スイカマスターとはねえ」

 にやにや笑いはまだ崩さない。猫のような印象を与える顔立ち。今日の彼女は「清楚」をテーマにしたような服装だった。白い長袖のゆったりしたブラ ウスに、黒のロングスカート。見るなり、思わず「教会の帰りか?」と尋ねてしまった代物だ。その姿ににやにや笑いは通常そぐわないようであるが、彼女の場 合はぴたりあつらえたように決まる。

 鈴木亜由美は、変な女である。美少女、と文学部では評判になった顔立ちで、よく知らずに言い寄った男は数知れず、といわれている。ついでに肘鉄を 食らった者も数知れず、とか。

 たまたま一年のある授業で俺はこいつと隣同士になった。そして夏前くらいから、よく一緒につるむようになった。知り合いの中には、俺とこいつが付 き合ってると勘違いしているやつもいるくらいだった。

 だが、そんなことはないと他ならぬ俺が断言する。

 俺はそもそも男だと認識されていないようだ。彼女の中では同性、異性の区別はさして重要でないらしい。気の合う友人か、そうでないか、に分類され る。問題は中身、というわけだ。

 俺の代に鈴木という女は三人いて、最初のクラスコンパ(文学部は研究室に所属しない一年次は三クラスに分けられてる)で、鈴木A、鈴木B、鈴木C と目の前に座っていた男に名づけられた。やったのは俺だ。

 鈴木Aこと鈴木亜紀は、とことんその呼び方を嫌がったため定着しなかった。が、鈴木Cこと鈴木香織はのほほんとした感じで、「しーちゃん」という 可愛らしいと思えなくもない呼び方を受け入れた。そして鈴木Bすなわち鈴木亜由美は、名前ってのは結局その人を区別するための記号にすぎない、というよう なことをいって、「そういうのもありなんじゃない?」とのたまった。

 とまれ、この女、頭の回転が速い。だからこそ、「しりとり」や「連想ゲーム」を面白がっているのだろう。

 ちなみに「連想ゲーム」は速攻性が求められる。授業中、先生の話に出てきた単語をその場で別の文字に変換して遊ぶ。その際のルールは三つ。

 1.造語でなければ減点。

 2.文脈に齟齬を来したり、言葉の意味が分かりにくい場合は減点。

 3.意味がズレてなければ減点。

 例えば「aという人物がbということからcを連想した」という文脈があったとする。これを「aという神仏(ジンブツ)がbということからcを恋想 した」と変換したとする。「神仏」はひとつひとつの字を取れば「ジン・ブツ」と読めないこともない、がすでに字面は単語として存在しているので多少減点さ れる。「恋想」は「恋い想うこと」の意味であるから、まったく「連想」と意味が違うものの、この文だけでは破綻していない。「漢字変換」は「感じ変換」な のだ。abcそれぞれに「アルキメデス」「風呂の湯があふれる」「体積と浮力」を入れてみればよかろう。

 文脈に、とあるように、話が進んでいる最中であるからもたもたしているとあっさり「時代遅れ」になってしまうし、面白さが激減される。要は閃きと 速攻と言葉の知識だ。

 何の言葉だったか忘れたが、そのゲームをしているとき、俺が出した答で、彼女が授業中にもかかわらず大爆笑したことがあった。先生には注意された が、以来、ミョーに彼女の「オモチャ」として気に入られているようだ。

 俺も彼女の発想力や閃きには好感を覚えている。それは外見からは想像もつかないような類のものだ。

 モットーは「明日もあたしの風が吹く」だそうで、「明日も」というところに彼女らしさが出ている。基調になるのは自分のリズムで、気に食わないこ とがあればあっさりそっぽを向くし、コンパの途中でもいきなり席を立ったりする。猫を思わせるのは表情ばかりじゃない。

 恥ずかしながら俺も最初は外見で惑わされていた。面白いやつだと思ったのは一年次の梅雨時だったか、自動車学校で出くわしてからだ。鈴木亜由美 は、中型自動二輪の免許を取りに来てた。そこで話していてこいつは変なやつだと思ったんである。

 俺は免許を取得してあんまり活用していないが、彼女は違う。よく彼女を知らず外見に惑わされる者には、真紅のヘルメットをかぶり、歳の離れた兄か らもらったという同じ色のバイクを乗り回しているなどととうてい想像できまい。

 そんな鈴木であるから、他の研究室のカテゴライズされた分野には興味がなかったらしい。様々な分野を様々な角度からやれる研究室。来るべくしてこ こへやってきた人材のひとりだといえよう。

 その、K大文学部村雨研究室。

 クーラーがほのかに効いた部屋で、俺たちはテーブルに向かい合っている。びっしりと汗をかいたコップが置かれている。中身は研究室で作った麦茶 だ。その上、切られたスイカが皿に載せてある。これは集中講義の先生に出した分の残りだ。集中講義は今日の午前中で終わっている。余り物を処分しているわ けだ。

 さらにその横には、俺の方には論文集が、鈴木亜由美の方は洋書が山と積まれている。村雨研の新入りに与えられる、夏休みの宿題だ。新入生全員で分 担して、研究室所蔵の本の目録を作ること。すべて手書き。論文集の場合は、その中にどんな論文が入っているか等まで記さなければならない。

 水道の所では表面のでこぼこした大きなヤカンが水にひたされている。中身は麦茶で、お湯出しのそれを冷やしているのだ。五分置きくらいに俺は立ち 上がり、水を入れ替えている。これは俺がガラス瓶に残った麦茶を注いでしまったためだ。

 麦茶が冷えるまで、どうにも気になって俺は宿題が進まない。そんな状況で、息抜きにと俺たちはしりとりを始めたのだ。

「じゃあ、あたしの番だね」

 彼女はシャープペンシルをくるくると回しながら、次の言葉を考えている。ちなみに俺が直前に出したのは「スイカ」だった。その前の言葉尻が「す」 だったので、つい目の前にあるスイカを連想してしまったのだ。そこでスイカマスターの話をでっち上げたのだが、何だかやたらとウケた。

「スイカ……カブトムシ、ん、神主でもいっか」

 ようやく彼女が題を決めた。ただのしりとりならカブトムシだろうが神主だろうが同じことだ。それを題材に話をしなければならないのだから、カブト ムシにも神主にも関係のある話にするつもりなのだろう。どんなものになるのか、俺には想像もできなかったが。

 彼女は目をつぶって、出だしの言葉を考えているようだった。回していたペンシルを止め、手を組む。白い左手の甲に、小さな傷が見えた。小さい頃の 怪我の痕で、消えずに残っているらしい。

 それから目を開け、鈴木亜由美はおもむろに話し始めた。

 

 

2.

 堀井歩太は、スイカの臭いを嗅ぐと今でもあの夏のことを思い出す。同時にカブトムシと星形の傷のこと、そしてあの石のことも――

 あれは夏のとば口のことで、暑い日が続いていた。まだ夏休み前で、どことなく祭の前のようなどきどきするような臭いが空気に感じられたものだっ た。

 歩太の住んでいたT町はかなりの田舎だった。コンビニもなく、駄菓子屋が幅を利かせているような、そんな町。そのT町に歩太は父や姉とともに住ん でいた。母は歩太が幼い頃に死んでしまった。

 夏の風物詩だったが、歩太の通う小学校で、カブトムシやクワガタを捕らえてきて育てるのが流行り出す。少年たちの間では、一番格付けが高いのが、 幼虫から成虫まで育て上げた者である。それは一種のステイタスとなった。歩太は、毎年育てようとしては失敗し、グズって歳の離れた姉に怒られていた。

 その年の歩太は、少し違っていた。たくさんカブトムシやクワガタを持っている、あるいは捕ってきたら、それもまた英雄扱いされるものだ。歩太は、 カブトムシやクワガタの集まるポイントを見つけた。

 学校から帰って夕食までの間、少年たちは転げ回るように遊ぶものだ。歩太もそうだったが、遊びが早く終わったり、友達の時間が合わなかったりする と、田圃の畦道を延々散歩したり、近所の林に探険に行ったりしていた。穴場を発見したのも、そんな探険の途中だ。

 場所は少し離れていて、山の上にある神社。長い石段を登った先にあるその神社の境内のさらに奥。

 何の気もなしに木にキックして、ぼたぼたと三匹のカブトムシが落ちてきたのには驚いた。木々のあちこちに蜜が流れていた。そこに虫たちが集まるの だ。夕暮れ時でこうなのだから、夜などは推して知るべし。

 仲のいいケン坊を誘おうかとも思ったが、ケン坊は口が軽い。あっという間に学校中にカブトムシ捕獲の穴場のことが広まってしまうだろう。

 それに、神社の方には子どもだけで行くことは学校で禁じられていた。人さらいが出るのだとも、野犬がいるのだともいわれていたし、子どもたちの間 で噂になっていたのは頭のおかしな老人が神社に住み着いていて、子どもを見ると怒鳴り声をあげ、鎌を振り上げて追いかけてくるというものだった。

 ケン坊は恐がりだから、行かないというに決まっている。歩太はこっそり一人で行くことに決めた。

 成功すれば、学校のヒーローだ。

 

 

3.

 堀井歩太は夜更けにこっそり布団から起き出した。

 姉も父も眠っている。

 最近の父は好きではない。昔みたいに一緒に遊んではくれないし、歩太に「お母さんがほしくないか」などと馬鹿みたいなことを聞いてくることもあっ た。母親はとっくに死んでいるのに。ついこないだだって、ナオミとかいう女の人を家に連れてきて、晩御飯を作ってもらったりしていた。学校から帰ってくる なり、ナオミという人がいて、歩太は仰天したものだった。

 父の姿をした別人にいつの間にか変わってしまったのではないか、と歩太はひそかに疑っている。夜中に起きて父親の皮を脱ぎ、別人になるのだ。そし て歩太が起きる頃にはまた父になりすましている。怖くて確かめることなど歩太にはできなかったが、そうに決まっている。

 だから、父親の部屋を通り過ぎるときにはかなり緊張していた。床板がきしむ音が父に聞こえはしないか、一歩一歩にどきどきする。

 幸い、父はドアを開けて「何をしている?」などといわなかったし、別人も出てこなかった。ただいびきがドアの向こうから聞こえてくるだけ。別の部 屋では、寝つきのいい姉もぐっすり眠ってるようだった。

 歩太は運動靴を履くと、家を出た。リュックサックの中には戦利品を入れる大きな虫かご、それからお腹がすいたときのために昼間駄菓子屋で買ってお いたチョコレート菓子が入っている。手には懐中電灯。虫取り網は必要ない。経験上、手で採って片っ端から虫かごに放り込んでいくだけでいいことは分かって いる。網を振り回す必要などないのだ。それほどの穴場だった。

 使い方が荒っぽいので、もうずいぶんポンコツになってきた自転車に跨り、歩太は山へ向かった。懐中電灯をハンドルの前にくくりつけている。ライト は自転車についてはいたが、それを作動させるとペダルが途端に重くなるのであまり好きではない。

 夏の夜は冬の夜と違う。空気に少年の心を躍らせるような期待感が混じっている。これから捕れるであろうカブトムシを想像して、歩太はわくわくして いた。

 月の明るい晩だった。ライトなどなくても見えないことはない。ただ、田舎のこととて、暗がりといえば真の闇が奥まで広がっていて、違う世界への入 り口のようになっていた。

 そういえば、と初めて補助輪なしで自転車に乗れるようになった頃をふと思い出す。

 自転車に自力で乗れるのが嬉しくて、ついつい漕ぎまくり、気づいたらまったく知らない場所にいた。

 途方に暮れることしばし、けれども歩太はこちらが家だろうと見当をつけた方向に走り出した。見知らぬ町が少しずつ変貌を遂げ、また知っている町に 戻る頃には日が暮れかけていた。

 そのとき歩太は、見知らぬ世界が、よく知った世界と結ばれてひとつになった瞬間を味わったものだった。世界がくるりと違う顔を見せたような。

 何故、そのときそんなことを思い出したのかは分からない。ひょっとしたら歩太の中に予感するものがあったのかもしれない。

 ともあれ、石段の下に着いた歩太は自転車を止め、くくりつけていた懐中電灯を外して手に持った。

 さあ、行こう。

 

 

4.

 堀井歩太は、人のいない夜の神社の境内へ入り込んだ。

 何でも、ヒトカゲのカワゴロモとコンジキのヨーモー、コンジキの枝が祭られているらしい。

 拝殿の奥には二本の小さな塔があった。これが神社というものだと歩太は思っている。その横手に小さな森がある。カブトムシのポイントだ。

 早速歩太は目をつけていた木に近づいた。懐中電灯を向けると、いるわいるわ。蜜に集まったカブトムシやクワガタなどが、眩しそうに蠢いた。ただ少 々高い場所であるから、直接手が届かない。

 歓声をあげると、歩太は思い切り木に蹴りを入れた。あまり太い木ではないので、キックの衝撃がよく伝わる。蜜のあるところ以外にも止まっていたら しい。驚くほどの数が、ぼたぼたぼた、と落ちてきた。

 歩太は電灯で照らしながら虫たちをひょいひょい手づかみにし、かごに放り込んでいく。たちまち二十匹あまりがかごに入った。

 二本目の木に蹴りを入れて採集をしたところ、四十匹を越え、さすがにかごに入りきれなくなった。かごの中がよく分からないくらい真っ黒になってい る。

 こりゃあ、学校のみんなに分けてやらなくちゃ。歩太はその姿を想像してにんまりした。でもこの穴場のことは秘密だぞ。

 がさがさとかごの内側をこする音をしばらく聞いていた歩太だったが、別の音が耳に飛び込んできて、はっとした。

 足音、に聞こえた。

 懐中電灯を消す。

 父親が家をこっそり抜け出す息子に気づいて追いかけてきたのかもしれない。父の皮をかぶった怪物。じゃなければ、神社の人かも。

 息をひそめる。

 横に置いたかごの中の音が、やけに耳についた。

 大きな何かが、森の中に入ってきた。葉っぱを踏みしめる湿った音がする。くんくん、とやけに大きく臭いを嗅ぐ気配がした。同時に生臭い空気が漂っ てくるのが、驚くほどはっきり分かった。空気が生暖かくなっていく。

 山の森には鬼が住んでいる。もう死んでしまった祖母が、昔そういってたことがあった。

 鬼はね、遅くまで遊んでる子どもを捕まえると、頭からばりばり食べてしまうんだよ。

 もうひとつの噂。子どもたちの間でまことしやかに囁かれている頭のおかしな老夫婦の話が稲妻のように頭に閃く。

 恐ろしくなった歩太は、虫かごを引っつかむや走り出した。

 懐中電灯をつけると見つかると思ったので、真っ暗闇だ。後ろから生臭い息を吐きながら、何かが追いかけてくるような気がして仕方がなかった。振り 返りたかったが、振り返ると怖いことになりそうだったので、ただひたすら走った。

 前方に横穴が見えた。板が乱雑に打ち付けてあったが、小柄な歩太はその隙間をくぐり抜けて奥へ飛び込んだ。

 ここまで来れば大丈夫だろう、と後ろを振り返ろうとした途端、歩太の足は虚空に踏み出していた。

 

 

5.

 堀井歩太は、身体中が痛かった。どうやら横穴の中にあった縦穴に落ちたらしい。気づかずに、歩太はまともに落ちてしまったのだ。

 ボークーゴー。

 神社にはそういうものがある、大人たちがいうのを聞いた覚えがあった。どうやらボークーゴーにいると、怖いことから隠れられるらしい。どういうも のかよく分からなかったが、何となく、自分のいる場所がそうなのではないかと見当をつけた。状況がぴったりだったからだ。

 たしかに歩太を追っていた化け物はいなくなったようだったが、こんな場所にぽつんといると無性に怖くなってきた。

 それに、右手がやけにずきずきしている。痛かった。

 懐中電灯を手探りで発見したが、壊れてしまったのか、明かりはつかなかった。おかげで自分がどういう状態なのか、よく分からない。ただ、左手で痛 いところにそっと触れてみると、血がずいぶん出ているのが分かった。ねっとりとからみつく。痛い。

 泣きそうになった。

 何とか縦穴から抜けだそうとしたが、真っ暗闇で、しかも背伸びをしても穴の縁に手が届かない。

 闇の中で虫たちの動く音がやけにうるさかった。虫かごは壊れなかったらしい。もしこんな状況で虫たちがぞろぞろと外に出てきて、歩太にまとわりつ いていたなら……

 朝になったら、誰か来てくれるだろうか。

 父や姉ならば、歩太がいなくなっていることに気づくかもしれない。そうして、石段の下に歩太の自転車があるのを見つけるまでどれくらいかかるだろ うか。

 ひょっとしたら、お腹がすいて死んでしまうかもしれない。

 とここまで不安になって、歩太はリュックの中にチョコレート菓子を入れてきたことを思い出した。がさごそと包みを開き、チョコバーをかじる。

 じんわりと甘さがとろけて口の中に広がった。無我夢中で食べていると、たっぷり持ってきたはずの菓子はすぐになくなってしまった。

「誰かいるのかい」

 そんな声が聞こえたのは、強調されてきた痛みに顔をしかめながら、手についたチョコレートを舐めているときだった。

 

 

6.

 堀井歩太を助けてくれたのは神社の人だった。歩太の学校の先生よりも若く見える男の人で、自分を神社の主だといった。歩太は、そういう人をカンヌ シというのだと知っていた。

 カンヌシに神社の建物の中で手当をしてもらう。歩太の右手のえぐれたような傷ができていた。どこかで引っかけたか何かしたのだろう。皮がむけて星 形に見えるその傷を手際よく消毒し、包帯を巻いてくれた。

 どうして自分がいると分かったのか、歩太は不思議に思って男の人に尋ねた。

「最近野犬が多くてね。今夜はやけに吠えているようだったから」

 もしかしたら、自分を追いかけてきた化け物は、野犬だったのかもしれない、と思い至る。追いかけてくる犬、というのは鬼ほどでなくても、少年には 十分すぎるほどの脅威だ。

「歩太くん、喉は渇いていないかい」

 と尋ねた。

「どうして僕の名前、知ってるの?」

 不思議に思って歩太は聞き返した。

「僕は何でも知っているんだよ。実は、僕は幼い頃から君のお父さんを知っているし、お母さんも知っていた。だから歩太くんを知っていてもおかしくは ないだろう。さ、おいで。いいものを上げよう」

 にっこりとカンヌシは笑って、歩太を裏庭に誘った。父や母の知り合いならいいだろうと思って、歩太は大人しく付いていった。

 神社の裏は一面のスイカ畑だった。

 カンヌシは建物の裏口近くにあった井戸から、スイカを引き上げた。ぽたぽたと水を滴らせるスイカが魔法で現れたようで、歩太はびっくりした。

 細く切ったスイカがそのまま渡された。歩太はそれでもずしりと重いスイカを受け取った。

 カンヌシはポケットから塩をひとつまみ取り出し、ふりかけてくれた。

 縁側のような所に座って、歩太はスイカにかぶりついた。じん、とするくらいよく冷えていた。

「これはこの畑で穫れたんだよ」

 手際よくカンヌシはスさらにイカを切ってくれた。

 三切れほど夢中で食べて歩太は満足のげっぷをした。

 朝になってから帰った方が危なくない、今日はここに泊まっていくといい、というカンヌシの言葉はもっともなことだったが、歩太はまだ眠くなかっ た。よく冷えたスイカのせいだったかもしれない。

 歩太とカンヌシはその縁側のような場所で話をした。

 実をいうと、歩太は何を話したのか、詳細に思い出すことができなかった。ただ、いろんな話をした、という記憶があるだけである。

 そんな、不思議な一夜だった。

 

 

7.

 堀井歩太が、ひとつだけ覚えていることがある。

 父親や姉のことに話が及んだときだったと思う。カンヌシは歩太の顔をじっと見つめ、こういったのだ。

「奇跡って知ってるかい」

「キセキ?」

「そう、とても不思議で素敵なことが起こるってことなんだ」

 歩太はよく分からなかったので、首を傾げてカンヌシを見た。

「うーん、ちょっと難しかったかな。でもね、きっと歩太くんだって、奇跡は知っているはずなんだ」

「そうなの?」

「僕が、未来から来たロボットだっていったら信じるかい?」

 唐突にカンヌシは話を変えた。

 歩太はまじまじとカンヌシの顔を見て、覚えているマンガの筋と照らし合わせてみた。

「嘘だよ」

「うん」

 あっさりとカンヌシは頷いた。

「けどね。嘘なのは、未来から来たってところだけ。人間は、みんな機械なんだ。ただゼンマイやネジでできていないだけ。きっと、歩太くんももう少し 大きくなったら分かるよ」

 歩太は父や姉が機械の身体になったところを想像しようとしたが、できなかった。

「人はね、生まれながらにして、機械なんだ。自然が生んだ機械。人間が人間として生きているってだけで、奇跡なんだと僕は思うよ」

 やっぱりよく分からなかった。

「他にもね、いっぱい奇跡はあるんだ」

 カンヌシは、歩太が食べたスイカの皮を指差した。

「これは、歩太くんだ食べたスイカだね」

「うん」

「ちょっと考えてみてごらん。このスイカはたまたまその畑で生まれたんだね」

 歩太とカンヌシが腰をかけている所から、月明かりに照らされたスイカ畑が一望できた。大きなスイカがごろごろしている。

「うん」

「そんなスイカはいっぱいある。たまたま僕がそのスイカを穫って、たまたま井戸で冷やしてた。そんな夜、たまたま歩太くんがやってきて、僕がスイカ を切ってあげた」

 その通りだ。

「たくさんある中で、このスイカが、歩太くんのお腹に入るためには、どれだけの奇跡があったんだろうね。少しでも違っていたら、このスイカじゃなく て、ほら、あそこにまだ転がっているスイカがそうなっていたかもしれないんだ」

 一番近くにあるスイカをカンヌシが指差す。それから両手を広げて見せた。

「同じようなことが歩太くんや僕が今いる地球にもいえる。ほら、ごらん」

 カンヌシは星空を示した。T町のある県は日本でも有数の星がきれいな場所だ。明るい月の周りはさすがによく見えなかったが、それ以外の空中に、 たっぷりの星たちがきらきらと光っている。

「これだけたくさんの星があるのに、歩太くんはこの星に生まれて、この日本にいて、この県の、この町の、この場所に今いる。そして同じように、この 日本にいて、この県の、この町の、この場所に今いる僕と話をしている。不思議だと思わないかい?」

 考えてみればたしかに不思議なことなのかもしれない。歩太はこれまでそんなことを考えてみたこともなかった。

「世の中はね、不思議なことがたくさんあるんだ。みんな気づかないだけでね」

 カンヌシは、歩太の思ったことを代弁してくれた。

「ほら、こっちへおいで」

 歩太は、拝殿の中に導かれた。奥にあるものを見て驚いた。そこにあったのはヒトカゲのカワゴロモやコンジキのヨーモーやコンジキの枝ではなかっ た。それらがどんなものか歩太にはよく分からなかったが、そこにあるものは分かる。

 石だ。

 大きな石が、祭られているのだった。

「さっき空にたくさんの星があるのを見たよね」

 カンヌシは歩太を石のそばへ招き寄せた。

「この石はね、あの星空からやって来たんだ」

「……インセキ?」

 マンガで読んで覚えていた言葉を口にする。カンヌシがにっこりと笑った。

「そう。ずっと遠くにある星の海から、この地球に、この日本に、この県に、この場所に落ちてきたんだ。ずっとずっと昔にね」

「星の海から……」

 歩太が頭に浮かべたのは、遠くから流れ着いたガラスの瓶。もちろん中に手紙の入っているやつで、それはいつか見た本に書いてあったワンシーンだっ た。

「奇跡というのは……そうしたものとものが出会うなんて、ちょっとしたことにも含まれているんじゃないかな」

 カンヌシは石に触れた。

「この石はね、この場所でずっと昔から、この町に住んでいる人を見つめてきたんだよ。そこにたくさん起こる奇跡もね。赤ちゃんが生まれて、子どもに なって、成長して大人になって、子どもを作って、年を取って……というのをずっと見つめてきたんだ」

 歩太が離さずに持っていた虫かごの中で、カブトムシたちががさがさと音を立てた。

「だからこの石には、何もかも分かるんだろうね。ずっとここで夢を見るように、この町とみんなを見つめてきたんだろうから」

「うん」

 歩太はおそるおそるカンヌシに尋ねた。

「僕も触っていい?」

 カンヌシがにっこり笑ってくれたので歩太はその石に触った。ひんやりした感触があった。

「奇跡はね、裏庭に埋まっているようなものなんだ。どこにでもあって、いつかひょっこり現れて、次の奇跡につながっていくんだ。奇跡は奇跡につなが り、連鎖する。そして歩太くんなんかも、その奇跡の輪の中にいるんだよ。そうやってみんな結ばれていくんだ」

 カンヌシは歩太の頭を撫でた。

「だから、奇跡を拒んじゃいけないよ。拒むんじゃなくて受け入れるんだ。拒んだら奇跡は悪いことを呼んでしまうから。今は分からなくても、いつか分 かるときが来るよ、きっとね」

 歩太はしばらく考えたが、よく分からなかった。何の話からこういうことになったのか思い出そうとしたが、そのときにはすっかり忘れてしまってい た。

 だから、他のことを尋ねた。

「ねえ、スイカもうひとつもらっていい? おいしかったから、お父さんやお姉ちゃんにもあげたいし、皮はカブトたちにあげたいから」

 

 

8.

 堀井歩太は、翌朝、大きな声で叩き起こされた。

「こんなとこで何をしとるか――!」

 自分がどこにいるのか一瞬分からずに歩太は周囲を見渡した。

 神社の中だ。あの石の隣に、まん丸なスイカをひとつ抱えて、眠っていたのだった。相変わらず虫たちはかごの中で蠢いている。

「しかもスイカ泥棒か?」

 入り口の所に白髪頭の老人が立ちはだかり、歩太を睨んでいる。

 これがあの噂の老人なのだ、と歩太は信じた。怖くなって、涙目でカンヌシからもらったものだと言い張った。

「……ふん。だったらええが、勝手に盗るんじゃないぞ。とっとと家に帰れ」

 くるりと歩太に背を向ける。それからぶっきらぼうに付け加えた。

「ちょっと裏手にわしの家がある。その入り口のところにビニール袋があるから、それに入れていくとええ。持ちにくいだろうがよ」

 歩太の抱えたスイカは大きかった。

 拝殿から出て、初めて歩太はここからT町全体が見渡せることを知った。カンヌシの言葉が思い出される。

 この石には、何もかも分かるんだろうね。ずっとここで夢を見るように、この町とみんなを見つめてきたんだろうから。

 なるほど、と思った。

 スイカを袋に入れて家に帰ると、父親から散々怒られた。

 そして、あの神社に神主が長い間いないこと。神社の掃除などは裏手に住む老人がやっていることなどを聞いた。

 びっくりして歩太は昼間、もう一度あの神社にいった。が、あれっきりカンヌシには会えなかった。

 夢でも見たのではないか、とも思えた。ただ、あの晩のことははっきりと覚えているし、神社にはあの石が祭られていた。歩太は石のひんやりした感触 を覚えている。それに老人は歩太の話に異議を唱えなかったではないか。

 歩太は不思議に思った。

 

 

9.

 堀井歩太は、その晩に得たカブトムシを学校で分け、ヒーローになった。友達も増えた。穴場をみんなに紹介もした。何度か神社に友達と連れ立って 行ってみたが、カンヌシには会えなかったし、カンヌシが誰だったのかも分からなかった。ただ、あの老人には何度か追いかけられたり、説教をされたりした。

 その夏から、何年もしないうちに父親は再婚し、歩太は中学生になった。ナオミ、という新しい母親については別に拒絶反応もなかった。そういうもの か、と思ったし、父とナオミの出会いもまた奇跡、ナオミと自分の出会いもそうであると何となく理解した。拒絶するも拒絶しないも歩太の思うままならば、な るたけ受け入れた方がいいに決まっている。

 おそらく、あの晩、歩太の中で何かが少しだけ成長したのだ。

 高校に進学した頃、諸々の事情で引っ越すことになった。

 それからも色々なことがあった。出会いや別れ、ケンカもあったし、恋をしたこともあった。あのカンヌシの言葉を借りれば、「奇跡は連鎖」している のだ。何となく、カンヌシがいっていたことが、今では分かるような気がする。

 たまに、T町に戻ってみることがある。

 もうずいぶん変わってしまった。町に大きな道が通ったせいで、新しい施設がどんどん立っている。歩太たちが昔住んでいた場所は、ならされて中学校 の校庭に変わってしまった。

 老人はとうに亡くなって、あの神社は廃墟のようになったままだ。その裏手にあったスイカ畑はとうになくなってしまったが、星の海からやってきた石 は、相変わらずあそこに祭られている。多分、夢の中にたゆたいながら、みんなとみんなの間に起こる奇跡を見つめているのだろう。昔からそうしてきたよう に。

 スイカの臭いを嗅ぐたび、あの石のこと、あの夏の夜のことを思い出す。多分、ずっと忘れないだろう。あの晩の怪我は、白い星形の傷になってそのま ま歩太の右手に残っている。それがカンヌシの言葉と自分を結びつける絆のような気がしていた。

 あの晩のことも、歩太にとっては奇跡なのだから――

 

 

10.

「これでおしまい」

 鈴木亜由美は、語り終えると思い切り伸びをした。

「お前、やっぱりウチのサークル入らねえか?」

 サークルというのは文藝部のことだ。口頭だから多少拙いところや同じ言葉の繰り返しもあったが、それでも充分に場面場面を想像させる話だった。

 きょとんとした鈴木亜由美だったが、すぐににやにや笑いを取り戻した。

「いやあ、あたしはあんたとは違うからね」

 どういう意味だと突っ込む俺。あはは、と彼女は笑った。

 彼女は山と積まれた洋書を抱え、本棚に戻し始めた。

「あ、もうあたし宿題終わったから帰るよ」

「ちょっと待てこら。あんなに担当分あったじゃねえか」

「だって終わったよ。これからあたしは、シ・エ・ス・タ」

 またいきなりなことを口にする。

「ここは日本だぞ」

「似たようなもんでしょ」 

 たしかにK市の夏は暑苦しくて仕方がないのだが。

「似てない似てない。せめて昼寝といえ」

 洋書を元の場所にしまうと、今度は麦茶のコップを洗って食器棚へ戻す。

「あ、これ村雨先生が来たら渡しといて。よろしく」

 紙の束を机に置く。

 俺は「しりとり」に気を取られてまったく自分のノルマが進んでいなかった。その一方、彼女は話しながらも手を休めなかったようだ。この差はデカ い。

「んじゃね」

 いたずら小僧のようなにやにや笑いを残して、彼女は去っていった。

 鈴木亜由美が帰ってから、しばらく俺は椅子を揺らしながら天井を見上げていた。彼女が最後にしていった堀井歩太の話を反芻する。

「……アユタとアユミ……右手の傷と左手の傷……歳の離れた兄と歳のの離れた姉……」

 鈴木亜由美の左手に残る傷は、やや歪んだ星形に見えないこともない。ついでに、彼女の故郷が日本で有数の星がきれいな場所であることもまた。それ から、鈴木亜由美にはバイクを譲ってくれた兄がいるということも思い出す。親が再婚したかどうかまでは聞いたことはないが。

「……なるほどね」

 にやりと笑う。俺の話は御題から膨らませたハッタリだったが、彼女は自分の何らかの経験を基に話を構成したのだろう。

 だから、「あたしはあんたとは違う」のだ。

 俺はほどよく冷えたヤカンの麦茶を、さらに冷やすためにガラス瓶にとぽとぽと注ぎ出す。こいつはこれから冷蔵庫行きだ。

 そこへ、すぐ横にある研究室のドアが開いた。鈴木亜由美が戻ってきたのではなく、同じ研究室に所属する島田京子だった。俺の幼馴染みでもある。手 にしたクリアファイルには、宿題用の方眼紙が入っている。

「あれ?」

 京子は、机の上に置きっぱなしの宿題に気づいた。

「何だ、びーちゃん来てたんだ」

 鈴木亜由美の名が書かれた紙の束を取り上げる。

「へえ、さすがびーちゃん、もう終わったみたいね」

「みたいだな」

 少々憮然とする俺。何だか納得がいかないような気がして仕方がない。

 ぱらぱらと紙をめくる京子の手がふと止まる。

「洋書、アルファベット順にすればいいのにね」

「どれ?」

 俺はそれを受け取って、目を走らせる。途端に、笑い出してしまった。

 いぶかしげに京子が見る前で、俺は笑いが止まらなかった。

 俺は間違っていた。それが分かった。鈴木亜由美の語った言葉がいくつか浮かんでは消えていく。

 鈴木亜由美がにやにや笑いを残して帰る姿が鮮やかに甦る。

「なるほどね、なるほど」

 彼女が置いていった宿題の最後には、次のような書名が並んでいた。

……

……

……

THE USUAL SUSPECTS――Christopher McQuarrie

HARRY POTTER AND THE PHILOSOPHER'S STONE――J. K. Rowling

The Door into Summer――Robert A. Heinlein

The Body Snatchers――Jack Finny

Naomi――J. Tanizaki

Summer of Night――Dan Simmons

Salamander――Y. Kawabata

Golden Fleece――Robert J. Sawyer

The Golden Bough 1〜13――James G. Frazer

The Two Towers――J.R.R. Tolkien

Oger, Oger――Piers Anthony

The Adventures of Sherlock Holmes――Arthur Conan Doyle

I, Robot――Isaac Asimov

IT――Stephen King

Watchers――Dean R. Koontz

The Farthest Shore――U. K. Le Guin

Five Children and It――Edith Nesbit

The Fellowship of the Ring――J. R. R. Tolkien

Dreaming Stone――Kevin Ross

Alice's Adventures in Wonderland――Lewis Carroll

 

おしまい。

 

Ver.1.3. 2000.8.20.

 

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