夏へ続く扉

the Door into Summer through Winter

天野 景

 

ペトロニウスに――

 

 

 1.

「つまり」

 じっと話を聞いていた望が、口を開いた。

「板崎の彼氏がロシアに高飛びするんで、その下準備のために彼氏が来年東京に行くから遠距離になるってこと?」

 あんまりといえばあんまりな要約に、当のザキ――板崎友紀とは高校からの付き合いで、私はそう呼んでいる――はレモネードにむせ、私はのけぞっ た。

「の、望ぃ、あんたねえ」

 ザキは口元を拭って呆れたような声を出した。

「あれ、違うの」

 望は不思議そうな顔をしている。

 彼女の要約は、当たっているといえば当たっている。が、言葉にしたときの印象と内容がかけ離れてもいた。

 望にはこういうところがあった。私は彼女と同じ研究室に所属しているから、よく分かる。変な女だ。

 一方、ザキと望は同じバスケサークルのメンバーだ。で、私とザキが同じ高校の出身で、ただし学部は同じK大でも異なっている。

 仲のよい友達同士で集まる店、というのはK大周辺にはよくある。この「ノー・ブランド」は気取らずに入ることができるし、値段は安いし、長時間お しゃべりに興じていられる。しかも夜になるとお酒も出る。いつも落ち着いた雰囲気の喫茶店だ。朝食には遅すぎ、昼食には早すぎる中途半端な時間のため、客 が少ない。客、といってもK大に近いお店のこと、皆大学生だった。彼らもそれぞれの会話に忙しくて、こちらには注意を向けていない。。

 今日はたまたまスケジュールが三人合ったので、この「ノー・ブランド」でちょっとお茶でもということになったのだった。

 私たちは皆何とか順当に四年生になり、文学部の私と望は来月のクリスマス直後に卒論の締め切りを控えている。もっとも院生の、特に「三年友の会」 ――修士課程を二年ではなく三年で出ようという人たちの集まり――を名乗る先輩たちがアドバイスをしてくれたり相談に乗ったりしてくれているので、そんな に締め切りはそんなに怖くはなかった。だからまあ、精神的にはまだ余裕がある。今日、私と望はドイツ文学系の「ミヒャエル・エンデを読む」という講義を一 緒に受けて、後は一日授業がない。

 ザキの方は、学部が異なるために私たちよりも卒論の締め切りが一ヶ月遅く、もっとのんびりしている。はずだったが、今日はどこか心をすっ飛ばして いるように見えた。

 彼氏の近況などの話になったのだが、ザキの場合はあまりのろけには聞こえなかった。彼女の場合は、ただの友達であっても語ることは多い。ともか く、そのザキの話を望が変な風に捉えたのは間違いなかった。

「違うって、全然」

 ザキはぶるぶると顔を振った。オーバーアクションは彼女の昔ながらの癖である。

「そうかなあ」

 望はミルクティーをスプーンでくるくる回しながら、首を傾げた。

「シンくんがロシアに行くのはお仕事」

 たしかに「高飛び」と「お仕事」では与える印象がまるきり違う。

「で、東京に行くのは研修」

 「高飛びの下準備」と「お仕事の研修」では以下同文。

 ちなみにシンくん、というのがザキの彼氏。もうひとつ付け加えるなら、私もザキもシンくん――新田慎一郎クンというのがフルネーム――も高校時代 三年間クラスメートだった。

 ザキと新田クンがいかなるカップルであったか。私が直接知っているのは高校時代以降のことだ。

 ザキは「男前」と一言で表現できそうな性格。一方、新田クンはやや影が薄かった。何事につけても巻き込まれ型といったらいいか。

 そんな二人だったが、どうしたわけか、一緒にいるのが自然に感じられた。おそらく中学生の頃から二人が重ねてきた時間のためだろう。私はてっき り、大学卒業してから二人は結婚でもするのだと思っていた。結婚、という形がなくても、多分二人はずっと一緒にいるのが自然なことなのだと私は信じていた のだが、ザキの話が本当だとすると、来年の春から離ればなれということになってしまう。

  

 

 2.

 昔、ザキと新田クンの馴れ初めを聞いたことがある。

 二人が同じクラスになったのは、中学二年のときだった。ザキが通っていた蔵ヶ丘中はいわゆるマンモス校で、一学年14クラスあった。だからクラス 替えがあるとクラスメートががらりと変わってしまう。

 それでもザキは、持ち前の性格から次々と新しい友達を作っていった。これはザキという人間を知っていれば容易に想像できることだ。

 一方の新田クンは、どうやら編入してきたらしい。だから顔見知りすらいない状態。

 ザキの彼に対する第一印象は「大人しいやつ」だった。何だかいつもひとりでいて、誰かに積極的に話しかけようともしない。むしろ無愛想な感じがし て、クラスメートたちは近寄りにくさを覚えていたようだ。

 ザキは首をひねる。そういった性格は、ザキのよく理解するところではない。クラスでも孤立しがちな大人しい――悪くいえば暗い――生徒と、クラス の人気者で明るすぎるくらい明るいザキ。正反対のポジションだ。

 人なつっこいザキは何度か自分から新田クンに話しかけたりもしたのだが、あまり反応がなかった。

 そんなある夕方。

 部活の練習を終えたザキは、忘れ物に気づいて教室に戻った。

 もうみんな帰ってしまっただろう、と思っていた教室から、音が聞こえた。教室の前でザキは立ち止まって耳を澄ます。

 ハーモニカ? いったい誰が吹いてるんだろ?

 疑問を覚えながらも、しばらくそのまま聞いていた。ザキの言葉を借りれば「何ともいえない寂しげで、澄んだ音だったんだ」ということになる。ハー モニカなんて、小学校以来聞いた記憶がないから余計そんな風に聞こえたのかもしれない。

 曲が終わったらしいのを見計らって、立て付けのあまりよくない戸を開ける。

 ひとりの男子生徒が机の上に座って、窓の外を見ていた。夕陽がまともに窓からこちら側へ光を注ぎ込んでいるため、ザキは目を細めた。

 男子生徒がゆっくりと振り返った。逆光で顔は見えない。手に持ったハーモニカが光っている。

「ハーモニカ、うまいじゃない」

 相手が誰とも分からぬまま、ザキは感想を口にした。おそらくクラスメートだろうと思ったらしい。クラスメートにせよ誰にせよ、ザキは遠慮するよう な性格をしてはいない。

「そう?」

 簡単なやりとり。これだけでザキは相手が新田クンであると分かったらしい。何となくね、とザキは私に話すときそう表現した。

「今の、何て曲?」

 新田クンは黙ってハーモニカを口に当て、もう一度同じ曲を吹いた。ゆっくりしたテンポで、澄んだ音が夕暮れ時の教室に流れる。

「ジョン・レノンの『イマジン』って曲」

 いつの間に吹き終わったのか、ザキは気づかなかった。音楽の授業でクラシックなど聞かされるとつい眠ってしまうザキだったが、今回は眠っていたわ けではない。音色に没頭していた。

「ジョン・レノンって、ビートルズの人?」

 ザキの知識はその辺りまでだった。光の加減でよく見えなかったが、新田クンがかすかに笑ったように思えた。

「そう」

「どんな歌?」

 新田クンは机から下りて、黒板に向かった。チョークで割と綺麗な文字を書いていく。多分、何度も歌って、歌詞を空で書けるまでになったのだろう。

 

imagine there's no countries

it isn't hard to do

nothing to kill or die for

no religion too

imagine all the people

living life in peace...

 

 ザキは最初の単語から、「イマジン」という曲の歌詞だと了解した。英語はあまり得意ではなかったが、何となく分かった。

「想像してごらん、国なんてないところを。難しいことじゃない。殺すことも死ぬこともなく、宗教もない。想像してごらん、すべての人々が平和に暮ら すところを」

 歌詞とさっきの曲を重ね、何だかザキはじんときた、という。ひょっとしたらそれはマーマレード色の世界が持つ雰囲気のせいだったのかもしれない。

「好きな曲なんだ」

 そういって新田クンは夕陽の中でにっこりと笑った。このときばかりは、ちっとも無愛想には見えなかった。

 夕陽の中で、相手の顔も染まって見える。その空気が、何だか夕闇の時間帯を二人で独占――変な表現だが――しているような気にさせた。

 おそらく、中学生だけが持つことのできる、微妙で、不思議で、繊細な空間、そして時間。

「前から思ってたんだけどさ」

 ザキはそう切り出した。

「あんた、いつもひとりだね」

 この夕暮れに包まれた放課後の教室でも、やはり新田クンはひとりだった。

 ザキの言葉に、新田クンは肩を軽くすくめる。

「そうだね」

「そうだねって、あんた。友達作ろうとか思わないの」

「別に。ひとりには慣れてるから」

 嘘だ、とザキは直感的に思った。

「友達欲しくないわけ?」

「……別に」

 わずかなためらい。

 ずっとひとりぼっちで耐えられる中学生がいるわけない、というのがザキの考えだった。

 さっき教えてもらったばかりの「イマジン」の歌詞が頭の中をよぎる。ひとりぼっちでいたい人間が好きになる歌だとは思えなかったし、ハーモニカの 音色はどこか寂しげに聞こえた。

 国境という垣根があるから国ができる。国がいくつもあるから、そこで争いが起こったりする。

 想像してごらん、国なんてないところを。殺すことも、死ぬことも、宗教さえもない。

 人との間に壁があるから、誤解が生じたり孤立したりする。

 同じことのようにザキには感じられた。もし新田クンが「イマジン」を好きだというのならば、今の状況に納得しているとは思えない。

 ふうん、とザキは頷いた。

「よし、決めた」

 つかつかと新田クンに近づく。

「あたしがあんたの友達になったげるよ」

 右手を出す。

 新田クンは差し出された手と、ザキの顔を交互に見比べる。

「どうして?」

「あたしがそう決めたから。それとも、あたしが友達じゃイヤ?」

 ザキは手を引かない。

 やがておずおずと伸ばされてきた手をザキはがっちりと握った。

「よし、これで友達友達」

 これが馴れ初め。

 

 

3.

 その頃の新田クンは、どこか人と距離を置いてしまう傾向があったらしい。人と前向きに関わり合うことがない。

 ザキも新田クンをクラスに打ち解けさせようと話しかけたり、引っ張ったりしてたらしいが、どこかまだ自分から積極的に飛び込んでいこうとはしな い。

「まったくしょうがないなあ」

 苦笑しながらも、決して無理強いはしなかったし、ザキは普通に新田クンと話をし、他の友達と同等に扱っていた。 

 ところでザキたちのいた蔵ヶ丘中では、伝統行事として隣町にある蔵武中と部活動の対校戦を行っていた。

 ザキが所属していたのは、女子バスケ部。対校戦の成績は、男バスが勝ち越し、女バスは連敗中、といった感じ。その年のバスケの試合は、蔵ヶ丘中の 体育館で行われることが決まっていた。

「シンくん、あんたも、もちろんあたしの応援に来てくれるよね」

 ザキはその試合にスタメンで出ることになっていた。

「何か、去年とかボロ負け食らってたけど、今年は勝つからね。見においでよ。絶対面白いから」

 対校戦でザキが相手をするのは、同い年ながら一年次よりレギュラーをしている少女だった。背丈はザキほどはないものの、スピードとテクニックがあ る。ザキは去年応援席から彼女の活躍をずいぶん見せつけられていた。その様子を説明する。

「多分、あのコも出てくるだろうからね。楽しみだよ」

 ライバル意識がないわけじゃない。でも、ザキは一生懸命プレイして、試合を楽しもうというスタンスを取っていた。

 今も昔もザキの考えは変わっていない。

 何故、と聞かれたらおそらくザキは「その方が面白いし、楽しいし、燃えるじゃない」といかにも彼女らしい答えを返しただろう。

 試合が始まってから、ザキは応援席をちらりと見た。そこには、新田クンが、他のクラスメートたちとともにいた。

「そうこなくっちゃね」

 最初は照れなり、いつものそこはかとない距離感があったりしたようだったが、こういった席では人は一体感を得ることができる。「ハレ」の場だから だ。

 最初は一進一退といった状態だった試合は、しかし、相手の二年生エースがザキのマークにあって消耗してきたことにより、徐々に蔵ヶ丘中有利に傾い ていった。

 そうなれば、蔵ヶ丘中の体育館のことである。しかもこれまで女子バスケ部は負け続けてきたのだ。生徒たちは盛り上がった。ボールを奪うごと、得点 を入れるたびに、体育館に歓声が満ちた。

 応援席にザキは新田クンの姿を見る。ザキが相手を抜くと手を振り上げて大声を出している。ザキがシュートを決めると、隣にいる生徒と抱き合うよう にして喜んでいる。

「そうこなくっちゃね」

 試合は蔵ヶ丘中の勝利に終わり、この日を境に、少しずつ新田クンはクラスに打ち解けていくことになる。

 試合の終了後、新田クンにザキはこういった。

「ほら、楽しかったでしょ」

 

 

 4.

 いつも一緒だった二人だが、大学は別々で、卒業後の進路も異なったものになりそうだった。

 新田クンが公務員試験を受けた、という話は聞いていた。単に受けただけではなくて、血を吐くような勉強をしていたらしい。朝から図書館に入り、わ ずかな食事休憩くらいで夜の閉館まで勉強を続ける。試験対策の講義に出るのが息抜きだったらしい。図書館が閉まってからは家に戻ってまた机に向かう。睡眠 時間は平均四時間を切った。自分の専門外分野である法律や国際情勢なども熱心にやっていた。よくもまあ身体を壊さないものだ、と不思議に思うほどの熱の入 れようだった。

 臨むのは、外交官試験。

 それで一次試験を通り、二次試験の面接で、ロシア語圏を志望したらしい。ロシアについては初耳だったので、私は仰天したわけだ。

「新田クンって、ロシア語なんて習ってたの」

「いや、まったく。ハラショーとマトリョーシカくらいは知ってるかな」

 無謀だ、それは。私は絶句する。

「でも、それがどうしたわけか通っちゃったのよ。で、ロシア語の研修が東京で一年間、それからロシアに渡ってさらに研修受けて、ようやく初任地に行 くって話」

 ふうん、と頷きはしたものの、私はあまり納得していない。

「で、ザキ、どうするの」

 ザキも私も教職員試験に合格している。教育実習も一緒に行った仲だ。

「どうするって、何が」

 これまでのことを考えてみる。ザキと新田クンは同じ中学、同じ高校、そして大学は異なっていたがわりと近い距離にあった。

 それが、来春から新田クンは東京に行き、それからロシアだ。対してザキはこのままだと地元で高校の先生となる。

「ずいぶん遠距離だよね」

 望がさらり指摘した。

「ま、ね」

 いいの、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。こっちの表情を読んだのだろうか、ザキがいう。

「シンくんが自分からやりたいっていってるんだからさ。応援してやんなきゃね。うんうん。珍しいことなんだよ、シンくんが自分からそんなに燃える のって」

 そういってにかっと歯を見せる。

 何となく、新田クンの気持ちは分からないでもない。ザキに昔聞いた「イマジン」のエピソード。ソビエトが解体され、ロシアはいまだ混迷の中にあ る。どうしてロシアに、と尋ねられて新田クンは「何となくね。でも行きたいんだ」と答えたらしい。しかも相当な努力をして試験にまで受かって。

 ザキに何ができたろう。

「だいたいさ」

 ザキは両手を広げて力説する。

「ロシアっていったってたかだか国境の向こう側じゃない。隣の国なんだよ。それにほら、京子、千堂と城山サンに比べたら大したこと全然ないでしょ」

 と、高校時代のクラスメートを引き合いに出す。城山さんは現在イギリスに留学していて、彼氏たる千堂君は日本に残っている。まあ、これも国境を挟 んだ遠距離恋愛ではある。

「ふうん。板崎らしいね、何だか前向きで」

 望が感想を漏らす。たしかにザキはいつも前向きだ。バイタリティがある。

 これは新田クンが話してくれたことだったと記憶している。ザキという人間をよく表現した話だ。

 例えば樹海に迷い込んだとしよう。新田クンひとりなら、迷った段階で足を止め、ハーモニカでも吹きながら、静かに救援なりの結末を待つだろう。こ れがザキならば問答無用で先に進みながら、無理矢理にでも樹海を突っ切ってしまうか、移動しながら救援隊に存在を知らせてしまうだろう。

 たしかにそんな女なのだ、ザキは。積極的に、前向きに、突き進んでいく。

 新田クンとは逆だ。

 でも、逆だからこそ、見えてくるものもあるのだろうし、補い合える部分があるのだろう。それが人間なのだと私は思う。

 私が思うに、もしザキと新田クンが樹海で二人して遭難したとしたら、ザキはぐいぐい新田クンを引っ張って脱出してしまうはずだ。そして頑張り続け るだけのパワーは、間違いなく新田クンが与えてくれるだろう。

 性格からして、応援する、というのはザキの偽らざる本心に違いない。

 けれど。

 他に何ができただろう。

 

 

 5.

「じゃ、あたしはそろそろ行くね」

 時計に目を落とし、望が立ち上がった。ショートカットに幾筋か混じっているダークブラウンの髪がぱさりと揺れる。

「あれ、ずいぶん早いじゃない」

 まだ昼時だ。午前の授業が終わって、「ノー・ブランド」にも昼食目当ての大学生がぼちぼち増えてきた。

「今日、弟の授業参観があるんだ」

 ミルクティの代金を財布から出しつつ、望が答える。たしか望の弟クンは小学校の三年生くらいだったと記憶している。付け加えるなら、望の一家は父 子家庭だ。学校行事などは家族が時間をやりくりして行っているそうだ。

「あんた、その格好で行くの」

 ザキが指摘した望の格好。Tシャツにジーンズ。足下はスニーカー。

「そ」

 にこやかに笑って、望は「ノー・ブランド」を出ていった。

「まったく、姉バカだね」

「というか、バカ姉」

 私とザキは顔を見合わせ、くすりと笑った。それからまた他愛のないおしゃべりに興じる。

 卒論のこと。今まで大学でやってきたこと。大学祭での騒動。それぞれのサークル。授業の話。教授などの失敗談や笑い話。高校のこと。高校のときの 友人たちがどうなったか。

 ただ、卒業してからのことは話に出なかった。

「そろそろ出ようか」

「そだね」

 そういって私たちが立ち上がったときには、夕方近くになっていた。十一月ともなると陽が傾くのが早い。

 それにザキと話していると、時間が経つのが早い。話すことは後から後から湧いてくる。「ノー・ブランド」にとって長居の客は迷惑なのかもしれない が、常連だし、昼食どころかまたお茶まで飲んでいるのだ。こんな具合に時間を過ごせる場所というのは、大学生にとって重要なのだ。

 夕暮れ時、旧国道に面したK大の赤煉瓦門をくぐり、並んでぶらぶらと歩く。

 ザキの方をちらちらうかがいながら、私は考えていた。

 多分、望の指摘は正しい。応援する、気持ちよく送り出してやる、というのはザキの本心だろう。前向きで、明るく、まっすぐだ。

 けれど――

「ねえ、京子」

 私たちの足は自然に教育学部と文学部の間にある駐輪場へ向かっている。何だかカラフルに舗装された道には、他に人の姿は見えなかった。

「前にさ、『夏への扉』って小説をね、塚本から借りたことがあるんだ」

 塚本、というのはザキや新田クンとも高校三年間をともに過ごした仲だ。私とは腐れ縁で、私は彼の名前――光輝、と書く――を音読みしてコーキと呼 んでいる。

 『夏への扉』はハインラインという作家の本で、私もコーキから借りて読ませてもらった。たしか、猫が出てくるSFだ。

「あの猫、何ていったっけ」

「ピート、かな」

「あたし、あの話結構好きでさ」

 私は朧気ながらあらすじを思い出す。才能がありながら友人にも恋人にも裏切られ、社会的にも抹殺同然になった主人公が、やがてヒロインと長い時を 越えて出会い、成功する話。ピートは主人公が飼っている猫だ。『夏への扉』というタイトルは、長い冬でもピートがいつも夏へ続いている扉があると信じて探 している、というエピソードに由来している。

「多分、あたしたちは『冬への扉』を開けたんだろうね」

 くるり、と一回転しそうな勢いで、ザキは振り向いた。

「でもね、あたしはいつでも『夏への扉』を探してる。これからも、ね」

 夏、という言葉に込めた想いが伝わってくる。夏はザキの好きな季節だ。夏の暑さ。夏の生命力。夏の輝き。

「だから、心配しなくていいよ」

「……バカ、誰が心配してるのよ」

 へへっ、とザキは笑った。その顔にまだどこか悲しみの残照があるように見えたのは、夕陽のせいだっただろうか。

 

 

 6.

 K空港は、K市郊外にある。山と山の狭間にあり、その地形のせいか、しょっちゅう霧が出る。霧がひどい場合には、他の空港に飛行機が回避というこ ともよくあった。

 そんなK空港――

 私の車で、私たちは新田クンの見送りに来た。見送るのは、私とザキとコーキだけ。

 ちょうど三月の終わり頃、K大は卒業式を間近に控えた時期だ。しかし、新田クンは通っている大学の卒業式にも出ることなく、東京へ研修に向かう。

 東京は、外国ではない。だが、ザキにしてみれば、外国も同然だろう。そこで研修を受けた新田クンはロシアに行ってしまう。その上、新田クンがK市 から離れたところに住み、生きていくなど、ザキは彼に出会ってから経験したことがない。

「東京か、頑張れよな、新田。たまには戻ってくるんだろ」

 コーキの言葉に、

「時間が空いたらね。でも研修中はまとまって休みとか取れないらしいし。できるだけ戻ってくるつもりだけど」

 多分、それはザキに向けられたものだったろう。

 私たちはいつも一緒だったような気がする。でも、こうしてひとり、またひとりと別れていく。高校を卒業して、仲の良かった友達のひとりは他県に出 ていった。その友達は今この場にいない。クラスメートには、卒業以来まったく会っていない者もいる。

 いつかまた、私たちみんなが揃うことがあるのだろうか。

 いや、きっとある。

 私たちは、私たちなのだから。

 気がつくと、ザキと新田クンが見つめ合っていた。

「ほら、何て顔してんのさ。前向いて、しっかり頑張ってきなよ。途中で諦めたりしたらあたしが許さないからね」

「……うん、分かってるよ。ユキさんも元気で」

「手紙書くからさ」

「俺も」

「ほら、またそんな顔する。あんたのやりたいことなんだろ。もっと胸張って、頑張ってきな」

 あまり締め慣れていないのだろうネクタイを、直してやる。笑顔で。

「――」

 その耳元で、新田クンが何か囁いた。

 一瞬、驚いたような表情になったザキが、新田クンの額を小突いた。

「バカなこといってないで。ほら、そろそろ時間だ。行きなよ」

 私たち三人は、それから黙って新田クンがゲートの向こうに消えていくのを見ていた。新田クンの姿が見えなくなってからは、三人で並んでガラス越し に彼が乗っている飛行機を見つめていた。

 ぽつり、とガラス窓に水滴が現れた。いつの間にか空が曇っていた。たちまち浮かんだ無数の水滴がくっついて流れの筋を作る。

 雨でにじんだような景色の中、新田クンの乗った飛行機はゆっくりと動きだし、東京に向かって飛び立った。山の向こうにその姿が見えなくなっても、 しばらく私たちは三人で立っていた。

 かすかな音に、私は横を見た。息が詰まる。ザキの横顔。

 私はポケットを探った。

「先に車に戻ってるから」

「……ごめん」

 取り出したハンカチをザキの手に握らせ、私はコーキを急かしてその場を離れた。振り返らない。

「さっきさ」

 コーキが沈黙に耐えかねたのか、口を開いた。

「新田が何かザキにいってたろ」

 たしかに何か囁いていたようだった。

「聞こえたの?」

「ま、な。俺は性格と耳はいいんだよ」

「で?」

「そのうち分かるさ。そうだな、多分、二年と半年くらいしたらな」

 と訳の分からない思わせぶりなことをいいだす。

 殴ってやろうか、と手を振り上げたところで思い出す。東京での研修は一年。それからロシアの研修で一年と少し過ごすと聞いている。

「あいつらなら、ま、大丈夫だろ」

「……そうだね」

 空港から出ると、雨の勢いはもう衰えていた。きっとこれは涙雨。

 でも雨は必ず上がるもの。そう心の中で呟きながら、向こう側の空を見上げた。雲が途切れている。山の向こうには晴れ間があった。

 もうずいぶん昔のことのようにも、昨日のことにようにも思えるあの「ノー・ブランド」からの帰り道、ザキが口にした「夏への扉」という言葉。

 あれから気になってコーキにまた本を貸してもらった。その中の一節を思い出す。

 

 扉に行きつくごとに、ピートはぼくの脚のあいだをかいくぐり、首をつき出して外を見ては、まだ外が冬であることを知ると、無造作にくるりと 振りむいて、危うくぼくを転倒させそうになる。

 だが、ピートも、ぼくも、決して、つぎの扉こそ探し求める扉だという確信を、放擲することはなかった。

(福島正実訳/ハヤカワ文庫)

 

 ザキと新田クンが開けたのは、冬へ通じる扉だったのかもしれない。それでも冬はいつか終わり、夏はやってくるものだ。「夏への扉」は必ず存在す る。

 雨は必ず止むものだし、雨上がりには虹だって出るかもしれない。

 例え樹海で方向を見失って迷ったとしても、必ず出口を見つけだせるだろう。彼女なら。彼女と彼なら。

 私はそう信じている。

 ふと山の方を見ると、雨は止み、本当に大きな虹がかかっていた。

 

Ver.1.4. 2000.7.10.

 

 

B.G.M. :‘DUNK! DUNK!’by M.Nagai

‘BELIEVE IN LOVE’by LINDBERG

 

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