バイシクル・レース

天野 景

 

 

 1.モーニング

 毎年のことなのだが、朝に大学周辺が一番混雑するのは、ゴールデンウィーク明けくらいまでだ。ということは、四月終わりの現在、大学周辺は朝の授 業に出ようとする学生たちで賑わうことになる。

 児玉望は、自転車で大学まで通っていた。つい先月まで通っていた高校でもずっと自転車通学で、なおかつK大よりも高校の方が遠かったため、大して 負担にも感じない。双子の姉は原付も使っていたが、望は自分の足でペダルを漕ぐのが好きだった。

 高校のとき部活をやらなかったため、身体を動かすといったら自転車での登下校くらいしかなかった。運動に飢えているのかもしれなかった。

 彼女が自転車で毎朝通るのは、主に旧国道と呼ばれるあまり広くない県道である。何故「旧」なのかといったら、あまりの狭さと混雑のためバイパスが 二本も作られたのはいいが、そちらがあまりの便利さに本道に格上げされ、逆に本道だった国道が格下げを食らったのである。しかし、地元の住民はつい「国 道」「バイパス」と古い名称で呼んでしまいがちだ。区別するためにかつての国道は「旧国道」、かつてのバイパスはそのままの名称で親しまれている。

 この道は、多数の高校生が通るため、非常に混雑する。大学生であれば時間帯をずらすこともできると思いがちだが、一時限目の授業に出るとなれば時 間帯はものの見事に重なってしまう。児玉望はわりと真面目な性格なので、毎朝のように自転車を漕いで大学に向かっているのだった。

 望の乗る自転車はまだぴかぴかだ。高校に通うとき使っていたものとは違う。この春に買ったばかりで、何かと重宝している。

 家から出る最初の一漕ぎで、眠気を絞り出した。

 朝の空気は気持ちがいい。K市は湿度が高くなる方なので、もうしばらくすると手がつけられなくなり、タオルを首に巻いて登下校する高校生が目立つ ようになる。だが、四月後半のこの時期はまだそこまでの蒸し暑さはない。むしろ、適度な風は心地よかった。旧国道に出るまでは混雑もしないし、道もゆった りしている。余計に気持ちよかった。

 K市郊外にある望の家からK大までは自転車で四十分ほどかかる。大した時間ではない。姉の光のように原付で通おうとは思わなかった。むしろ、その 四十分間が、望にとっては貴重な時間だった。

 いろいろなことを考える。

 いろいろなことを感じる。

 そういう時間なのだ。望は自転車を漕ぎながら没頭する。流れる景色は意識して見るものではないが、視界にある限り、それはいい効果をもたらす。何 より、望は景色を眺めるのも、その中を自転車で駆け抜けるのも、ゆっくり漕ぐのも、大好きだった。

 二十分後。望はようやく旧国道に出る。おおよそ半分の行程をクリアしたことになる。この前後から高校生の姿が目立ち始める。これもいつものこと だ。望の家がある住宅街は、K市よりも高台にあった。K市の中心部近くにあるK大に行くには、自然下り坂が多くなる。もちろん、帰りは逆に四十分登り坂が 続く。

 緩やかな坂をブレーキを使用せず、一気に駆け下りる。ペダルを踏む回数で速度を調整。高校生の姿を見つけると、速度を上げ、後方をちらりと確認し て一気に抜く。この辺りから平地になり、速い自転車とそうでないものの差が如実に現れ、徐々に登校風景はレースの様相を見せ始める。

 長い坂が終わる頃、今度は小学生の姿が増えてくる。道沿いに小学校があるためだ。歩道はあるのだが、ガードレールはなく、小さな段差になっている だけだ。小学生はふとした拍子に飛び出してくることがある。しかも周りを見ていない。気を付けるべき場所のひとつだ。

 ここでも望は速度を上げ、同時に小学生を意識の隅に置いて自転車を走らせる。

 と、前方に自転車発見。がに股風にふらふらと走っている高校生、男。

 うざったい。と望は思った。こういう輩が、渋滞を招くのだ。旧国道はあまり広くない。車が、殊にバスなどが来た場合、前方の自転車を抜こうにも抜 けないのだ。かといって、小学生の群に突っ込むわけにもいかない。

 す、と横を見た。視界の隅で後方確認。

 抜きにかかる。

 交通を阻害しないように、車道に出て高校生を抜いた後、滑らかに車線変更し、歩道のすぐ下にへばりつく。

 かしゅっ、かしゅっ、というリズミカルな音を望の耳が捕捉したのは、このときだった。

 車線を変更した、すぐ脇を、銀色の自転車が駆け抜けていった。

 抜かれた。

 銀色のロードサイクル。ドロップハンドルで、サドルが高い、スポーツタイプの自転車だ。ハンドルの湾曲した部分を握れば、自然に前傾姿勢になる。

 望に見えたのは、相手の形のよい尻と、ジーンズ地の背中にある黒いリュックだった。  女。

 上下ジーンズのラフな格好で、しかもリュックを背負って朝から移動している女ならば、同じ大学生ではないかと、望は推測した。

 自慢ではないが、この早朝行われる自転車レースに負けたことはほとんどない。どちらかというと、がんがん抜いていく方なのだ。本気で急いでいる、 あるいはテクニックのある男を相手にすればともかく、女に抜かれたのは、これまでの記憶にないことだった。

 ハンドルを握る手に力がこもる。ペダルを踏むリズムが速くなった。

 小学生の集団は後ろに去り、純粋に、車と自転車とバイクの流れになった。脇道から割って入った高校生のため、望とロードサイクルの距離が少し開い た。が、ロードサイクルの前にも自転車がいるため、なかなか一気に差を開くまではいかないようだった。

 大学まであと、15分。

 バイパスとの分岐点近くで、また下り坂に入った。銀色のロードサイクルは、じわじわと望を引き離しにかかる。向こうが意識しているかどうかは別と して、望の気分はレーサーになっていた。

 横を白地に青ラインの大きな車体が、轟音を立てて通り過ぎていく。荒っぽい運転で知られているバス会社の車だ。

 自転車の流れなど無視するように問答無用で左に寄り、次第に隙間を詰めながら、前方右手にあるバス停に突っ込むようにして止まる。

 望は、バスがバス停に入ろうと左に寄った瞬間、逆方向に車体を振っていた。もちろん、後方は確認済みだ。

 一方、ロードサイクルはバスに接近しすぎていた。最終的にほとんど一台ぎりぎり通るかどうかの隙間を駆け抜けることになる。

 望とロードサイクルの間にいた三台の自転車はバスの隙間に入ることができず、ブレーキング。右に振った望は、そのまま車道内、バスの右手を走り抜 ける。すぐ左に青いバスのボディが流れていった。

 望は速度を落とさなかった。ロードサイクルはバスの横をすり抜けるためにやや速度を調整した。その差が、バスの前方に出たときに望の方が先になる という結果を生んだ。さらにバスの前にぽっかり空いたスペースで、邪魔な別の自転車を追い越す。ロードサイクルが続く。

 抜き返したものの、すぐ後ろにかしゅっ、かしゅっ、という例の音が聞こえる。あの女が、ペダルを踏み込む音だ。

 大学まであと、10分というところだった。

 高校生の姿がさらに増えてくる。この旧国道を利用する高校生は多いのは、この先にある高校の数が多いためだ。男は代わり映えしない制服であるが、 女の子は多種多様な制服を見ることができる。青いチェックのスカートは、つい何ヶ月か前まで望がはいていたものと同じ種類だ。

 しかし、容赦しない。高校のときでさえそうだったのだ。今の望は、大学生である。もたもたしている高校生に手加減をする気などまったくなかった。

 一段高い場所にある歩道を、女子高生の自転車が走っていた。ますます旧国道は狭くなってきており、車道に下りるよりも、歩道を走った方が速いし、 安全だからだ。

 その高校生が、望の前でいきなり、車道に下りる。後方確認などしてもいない。

 ブレーキは間に合わない。あちらは速度が遅く、こちらは速い。その上、高校生は望に気づいていない。

 横を駆け抜けざま、蹴り倒してやろうか、と思った。しかし、実行はしない。すぐ後ろにロードサイクルが迫っているのが分かっていた。

 逆に、望は段差をものともせず、歩道に乗った。がたん、と前輪が跳ね、後輪が段に打ち付けられ、衝撃がハンドルからサドルに駆け抜けた。目の前に 迫った電柱をかわし、姿勢を立て直す。速度はほとんど緩んでいなかったが、右手に銀色の自転車が追いついた。

 ちらり、と見る。

 目が合った。

 スマートな感じのする、女だった。化粧っけはない。望と同じように短く切った髪が、風でぱたぱたと揺れている。

 どこかで見たような、と望が思ったとき、女がにっ、と笑った。

 挑戦の笑み、そう望は受け取った。

 高校生の流れが増えたが、望もロードサイクルの女もかまわず突っ込み、次々に抜いていく。歩道と車道を上下しながら、先行する自転車の間を縫うよ うにデッドヒート。

 大学まであと5分。

 烏飼交差点に到着する。信号は赤だ。さすがに止まらざるをえない。ここまでは同着。自動車の流れを見ながら、望は大きく息を吐いた。

 烏飼交差点は、五叉路である。スクランブル交差点だ。各方向に住宅街があり、加えて、各方向に高校、大学などが揃っている。しかも交差点自体はさ ほど大きくはない。

 結果として、どうなるか。歩行者用信号が青になった途端、五方向×2(道の右側と左側)からやってきた高校生及び大学生や会社員などが、一斉に、 別々の方向に向かい、人口密度が瞬間的に跳ね上がる。渡り損ねると、歩行者や自転車などに「流され」、目的の道に入れずに、別の方向に進む羽目に陥る。そ の様子はまさしくいくつもの激流がぶつかっているようなものだった。

 望は、高校のときからこの烏飼交差点を走っている。ロードサイクルの女がどこの高校出身かは知らないが、烏飼交差点を甘く見ているようなら、勝て る。

 呼吸を整えながら、車の流れを見る。

 すぐ隣に、あの女がいる。信号が青になるのを待っている。ドロップハンドルから手を放し、上体を起こしている。す、とその身体が再び前傾姿勢に なった。

 信号がもうすぐ変わる。

 望は、ペダルを踏む足に力を入れた。

 信号が変わった。望と女は同時に飛び出した。

 烏飼交差点を目的通りに渡るコツは、気迫である。ぶつけるつもりで突っ込むことだ。でなければ自転車の壁にぶつかり、あるいは川に呑まれ、ずるず ると流されてしまう。

 避けるつもりもなく、とにかく問答無用で走る。これが三年間の高校生活で学んだ烏飼交差点の渡り方だ。

 強引とも見える方法で、一気に渡りきる。

 K大へ向かう道に入ったとき、ロードサイクルは前にいなかった。おそらく、自転車の川を渡るのに苦労しているのだろう。ほんのわずかためらっただ けで、壁を越えることはできなくなる。それで十分だ。

 あとは、ほとんど障害はない。望はそれでも速度を落とさない。最後まで手を抜くつもりはなかった。

 挑戦してきた者に対する礼儀だということもあったし、手を抜いては自分が気持ちよくない。やるからには全力を出しきりたかった。

「――!」

 息を呑む。

 20分に満たないくらいの時間しか耳にしていないのに、妙に聞き慣れた音が迫ってくる。

 そのとき望は、ミスを犯した。

 マラソンのときなど、振り返るのは禁物であるという。その分速度や反応が落ちる。

 振り返った視界に、銀色の車体が目に飛び込んできた。

 バネ仕掛けのように望は前方に向き直り、ラストスパート。

 だが、スピードに乗ったロードサイクルは望を抜き去った。

 望がどんなに力を入れようと、追いつくことはできなかった。

 大学内に入ると、高校生のラッシュなど関係なくなる。旧国道沿いにある教養門から入り、教養部の方へ自転車を向かわせる。

 負けた。

 望は唇を噛んだ。

 惰性で緩やかに自転車を進め、教養部に隣接した駐輪場に到着する。

 そこに、あの女がいた。ロードサイクルに鍵をかけ、リュックを背負い直している。

 その隣に、望は自転車を止めた。

 女が、晴れやかに笑んだ。

 やはり、どこかで見た顔だ、と望は確信する。しかし、どこで見た顔だったか。ずいぶん記憶に刻み込まれているような気がしてならなかった。

 児玉望が、同じ教養の科目を女が受講していたと知るのは、しばらく後になってからである。さらに、彼女が女の名を知るのは、そのもう少し後だっ た。

 

 

 2.ランチ

 四月中は、新入生たちも勝手が分からぬため、昼食時学食に集中することになる。もう少し先になれば時間をずらしたり、大学周辺の定食屋や喫茶店や 弁当屋などを開拓して、学食も空いてくるのだが、毎年この時期だけはやたらと混み合う。朝のラッシュと仕組みは同じだ。

「児玉さ〜ん」

 自分を呼ぶ声がしたので、児玉望は定食の載ったトレーを落とさぬように、そちらを見た。

 たしか、同じ学部で、同じ授業を受けている顔だ。

「こっち空いてるよ」

 手招きされる。大混雑の中で、顔見知り程度の仲とはいえ、いきなり席を確保できるというのは幸運なことだ。姉と待ち合わせをしているわけでもな かったし、望は厚意に甘えることにした。

 島田京子、といっただろうか。望はその学生の名を思い出す。席に着いているのは三人で、奥に島田、その向いには鈴木香織というやはり文学科の学生 だった。たしか鈴木という学生は三人おり、傍若無人な男子学生によって「鈴木A」「鈴木B」「鈴木C」と呼ばれていた。ちなみに鈴木香織はCだったが、問 答無用なその呼び方をやんわり笑って受け止めているようだった。

 そしてもうひとり――

 その向かい側に座ってトレーを置こうとし、望の動きが止まった。

 見覚えのある服装。見覚えのある顔。

 ロードサイクルの女だった。

「あ、児玉さん、こっちは私の高校のときの同級生で、板崎友紀。ザキ、同じ学科の児玉望さん」

 島田が律儀に紹介をするが、児玉望はろくに聞いていなかった。聞こえたのは、たった一言。

 イタザキユキ。

「よろしく、今朝はどーも」

 片手を軽く挙げて板崎が挨拶をする。

 望はぎこちなく応じた。

 やはり覚えていた、と思った。あれだけのデッドヒートを繰り広げた今朝の今だ、当然のことだろう。

 しかし、もうひとつのことは忘れているらしかった。

 望は忘れたことはない。もっとも、板崎の顔はぼんやりとしか覚えていなかったから、威張れたことではないのだが、名前を聞いた途端にすべてがはっ きりした。

 道理でどこかで見たような顔だと思った。

 中学のとき、望はバスケットをやっていて、ちょっとばかり自信があった。それを試合で粉々に打ち砕いたのが、隣の中学校にいた板崎だった。そのこ とは当時の家庭の事情と相まって心の傷のひとつとなっていた。

 板崎は、彼女の前に立ちはだかった壁のようなものだった。どんなことをしても抜くことができない。颯爽と現れ、望のボールを奪って駆け去ってい く。

 そのイメージが、今朝の自転車に乗った姿を重なった。

「でもさ、児玉さん、だっけ。どっかで会ったことなかったっけ」

 食事を始めた望を、しげしげと眺め、板崎が尋ねる。

 答えるべきかどうか望は迷ったが、

「……蔵中でバスケやってたから」

 驚いたことに、たったそれだけで板崎は思い出したようだった。

「あ、ああ――!」

 うんうんと頷く。

「ちょっと、どういうこと、ザキ?」

 隣で島田が板崎の袖を引く。

「あたし隣の中学校でね。このコとバスケの試合をしたことがあるんだ。そうだよね」

 後半は、望に対する確認だった。

 望は頷いた。

「そっかそっかそっかーやっぱし。懐かしいなあ。あんときは参ったよ」

 児玉望は箸を止めた。

 参ったのはこちらの方だった。ほとんど一方的に、望は板崎に敗れたのだ。悪夢に見るほどに。

「あたしも必死だったからね。ちょっとでも気を抜いたらボール取られそうな気がしてさ。どきどきもんよ。何とか試合には勝てたけどね。もっと練習し なくちゃいけないなって思ったさ」

 パックの牛乳を喉を鳴らして飲む板崎を、望は不思議なものを見るような目で眺めた。爽やかに、腰に手を当てて飲むのが似合いそうな女だ。こちらが 抱いてた印象とずいぶん違う。

「たしか次の年は試合に出てこなかったよね。バスケ続けてんの?」

 よく覚えている、と望は思った。普通、こてんぱんにしてやった相手が翌年試合に出たかどうかなど覚えているわけはない。

「ちょっと事情があってね、バスケは辞めたの」

 そう答えるだけに留めた。母親が死んだり、板崎に対抗しようとして身体を壊したりしたことなど、口にすべきではない。ましてや、板崎に負ける場面 を悪夢に見ることなど。

「そりゃ、残念。あんたなら続けてたらもっと強くなっただろうに。あたしさ、あんたとまたやるの楽しみにしてたんだよ。きつかったけど、楽しかった からね」

「楽しかった……?」

 記憶を探ってもそんな感情は出てこない。ひたすら悔しく、不条理を感じていた日々。

「そだ、あたし、こないだバスケのサークルに入ったんだけど、あんたもどう? 部活っていうより、同好会って感じなんだ」

 意外な誘いに望はとまどった。バスケを辞めて、ずいぶんになる。運動といえば、自転車での登下校、それから体育の時間くらいしかなかった。

 また、バスケット。

「いや、いろいろと忙しくて」

 弟はまだ幼い。望はバスケをしている余裕はなかった。

「そっか。残念。あたし、あんたとバスケやってみたかったんだけどね」

 何か事情があると察したのだろうか、板崎は提案を引っ込めた。本当にがっかりしているようで、望は複雑な気持ちだった。

 

 

 3.アフタヌーン

 午後最初の授業は体育だった。体育は前期と後期でそれぞれひとつずつコースを選んで受けることになる。たいていは一種目だが、コースによっては水 泳が途中で入ったりすることもある。また、アイススケートのように後期だけ選べる種目もあった。

 児玉望は、ソフトボールを選択をしていた。

 身体を動かすのは嫌いではない。今は、受験勉強で鈍った身体を思い切り動かしたかった。だから必要以上に朝も盛り上がってしまうのかもしれない。

 前回一回目の体育は、コースの説明と選択で終わった。

 今日からいよいよグラウンドに出て、ソフトボールをすることになる。

 体育館には着替えをする場所があるのだが、男子も女子も、そこでジャージに着替える者は少ない。結構不用心で盗難などが起こったりすることで知ら れている。

 望は、鈴木香織の部屋を使わせてもらった。鈴木香織は地元の出身ではなく、K大裏手にあるアパートに住んでいる。ここなら荷物を置いておくことも できた。自転車で自宅から通う望にとって、着替えなどを含めた荷物を置くことのできる場所というのは貴重だった。同じソフトボールを選択している、という ことが分かったので、板崎と島田も鈴木香織の部屋で着替えることになった。

 賑々しくおしゃべりをしながらジャージを着る板崎たちの姿を、望は眺めていた。まさか、あの板崎と同じ部屋で着替えることになろうとは、今朝まで は想像もできなかった。しかも、板崎は望をバスケのサークルに誘ってもくれたのだ。着替えている間にも、気さくに話しかけてくる。

 どうも、心の中にあった、板崎のイメージに修正が必要なようだった。

 さて、三々五々、学生たちがグラウンドに集まり、チーム分けが始まった。体育を含めた教養の授業は、カリキュラムの都合上なのか文学部と教育学部 が合同で行われることが多い。だから集まった学生も、この二つの学部生が混在していた。

 チーム分けといっても、名簿順に区切られるだけなので、たいていは、文学部同士、教育学部同士でチームを組むことになる。

 望は、島田京子や鈴木香織と同じチーム。板崎は教育学部のチームにいる。話し合いの結果、島田はピッチャー、鈴木はライト、そして望はサードを守 ることになった。

 試合が始まった。

 テンポよくゲームは進み、ツーアウトで板崎がバッターボックスに入った。

「行くよ、ザキ」

 島田が球を放る。かなりのスピードだった。しかもコントロールもいい。板崎、空振り。彼女が打席で歯を見せたのが、サードの望からも見えた。舌を ぺろりと出し、唇を舐める。

 朝、望が見たものと、同じ笑みだった。挑戦。加えて、それを楽しんでもいるようだった。

 二球目。ボールにバットがかすった。これでツーストライク。

「やるねえ、京子」

 板崎は一度ボックスを出て、二度ほど、素振りをした。打つ気満々だ。

「三振はしないようにしなきゃね」

 島田が投球動作に入ると同時に、望は中腰になってかまえる。

 甲高い、金属バットの打音。

 望の左手、肘から先が動いた。姿勢はそのままで、グローブだけが耳元に位置を変える。重い音とともに、そこへ打球が刺さり、左手ごと後ろに持って 行かれそうになる。顔のすぐ横だ。

 バットを振った格好のまま、板崎がこっちを見ている。

「アウト!」

 審判役の先生の宣告。おおっ、というどよめき。板崎は悔しそうにバッターボックスを出た。チェンジだ。

 グローブをはめた板崎が小走りにやってくる。彼女の守備位置はセンターだ。

「ナイスキャッチ、やるじゃない」

 ぽん、と肩を軽く叩かれた。そんな言葉を掛けられるとは思ってなかったので、すれ違った板崎を振り返る。板崎はひらひらとグローブを振って見せ た。

 望の打席。こちらもツーアウトだった。教育学部のピッチャーは、あまりコントロールがよくない。ワンストライク、ツーボールになった。狙いは絞り にくい。

 次の投球。真ん中にひょろりと入ってきた。

 望は思い切りスイングする。手で振るのではなく、当てると同時に腰を回すように動かす。手打ちでは打球に力が入らない。そういったことを、望は何 となく感じていた。だから、思い切りやった。

 快音が響き、球はまっすぐに飛んでいった。

 グラウンドは球場と違ってスタンドがない。女子ソフトは二面取ってある。外野が背中合わせになった状態だ。ホームランになるのは、たいてい外野を 抜けたときだ。

 これは行ける。手応えはあった。一塁に向かって疾走。朝のレースの疲労は、すでに回復している。全速力だ。

 一塁を踏んだとき、外野が見えた。球はバウンドした。板崎も走っている。ロードサイクルを思わせる、スマートでシャープな走りだった。何だか草原 をチーターが走っているところを連想させた。

 二塁を回ったところで、

「りゃあっ」

 板崎の豪快な叫びが耳に届いた。望はただ走る。

 三塁直前、すぐ斜め前でボールが鋭くワンバウンドして、望を追い越す。サードが捕球し、飛び込んできた望とぶつかった。

 砂煙。

 望の足はサードベースに届かなかった。その前に、相手のグローブが当たっていた。

「アウト! チェンジ――!」

 望は唇を噛んだ。また、板崎にやられた。

 立ち上がる。悔しいことには違いないが、それでも何だか全力を出しきったつもりだ。仕方がない、とも思えた。

「お返し、お返し」

 板崎が小走りに走ってくる。ジャージが汚れていた。

「ナイス送球」

 望にそういうと、にっ、と例の笑みを見せる。楽しそうだった。

「あんたもね、ナイスバッティン、ナイスラン」

 望も、少し笑った。

 試合は、結局0対0のまま、時間切れで終わった。

 

 

 4.モーニング、アゲイン

「望ちゃん、どうしたの?」

 玄関でそう声を掛けられた。望の双子の姉、光だ。水玉のパジャマを着て、まだ眠たそうな顔をしていた。同じ一時限目の授業を受けるはずだったが、 光は原付なので余裕がある。

「別に。どうして?」

 靴紐を結びながら、児玉望は尋ね返した。

「何だか、楽しそうだから。珍しいじゃない、望ちゃんが朝楽しそうにしてるなんて」

 望も光と同様低血圧気味で朝が弱い。髪型や性格は似ていない点が多いが、こういうところは双生児なのだと思う。

「私、そんなに楽しそうにしてた?」

 にっこりと光が笑う。

「うん、してたしてた」

「そっか……」

 立ち上がって、リュックを背負う。

「いつもそんなだと、望ちゃん、もっとかわいく見えるのに」

「そう?」

「そうそう。そんな風に笑ってるとね」

 指摘されて初めて、自分が微笑んでいることに望は気づいた。

 食事を放り出して廊下を走ってきたのは、今年幼稚園に通い出した弟だった。

「いってらっしゃーい、おねーちゃん」

「行ってきます」

 弟の髪をくしゃくしゃと撫でつけ、望は玄関を出た。脇に置いてある婦人用自転車の鍵をはずす。

 身体が軽い。

「そんなに楽しそうに見えたのかな」

 口の辺りを指でなぞる。たしかに笑っていた。

「……悪くないな」

 そう呟く。望は自転車にまたがった。

「悪くない」

 ペダルを踏む。すぐに走り出した自転車の上で、児玉望は風を楽しんだ。

 そして、またレースが始まる。

 

 

Ver.1.3. 2000.5.31.

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