妖 精 と 人 形 の ゲ ー ム
The Game of Trolls and Dolls
天野 景
特に名を秘す大学のとある学部の某研のかの先生と教え子に――
1.Table〜Shuffle
初めはスッポンだった。これはもう、間違いのないところだ。間違いなく、そのスッポンは豪快に甲羅が割れており、死んでいたそうだ。
中田さんと小石川さんの院生コンビが、先日飲みに行ったらしいのだが、その途上でのことである。道端に完全無欠にスッポンが死んでいた。交通事故 らしかった。
しとしとと雨の降る日で、中田さんはスッポンを見、髭面をしかめてこういったそうだ。「もったいない」一方の小石川さんはすっと手を合わせ、「諸 行無常」とのたまったという。
そういった話だったはずが、私がちょっと飲み物を注文しに行ってる間に、変わっていた。新入生歓迎のコンパで、私はどういうわけか――深く考えな いことにしているのだが――幹事なぞやっていたため、忙しく動き回っているのだ。
ここ「鴛鴦」は、私たち村雨研の者たちがよくコンパを開くところだ。店はあまり広くはないが、料理がうまく、安い。大将や女将さんもお馴染みさん である。壁には額縁に入れられた馬の写真が幾種類か飾ってある。これはK市で毎秋に行われる「馬追祭」――かつては怪我人や死者も出たワイルドな祭りであ り、現在はその元凶であった、馬に焼酎を呑ませることは禁じられている――の奉納馬で、大将が参加したときのものだ。
店内のテーブルはすべて丸太を切って作ったものであり、表面にはここに寄った人たちの落書きが所狭しと書かれている。私たちが書いたものもある し、知り合いのそれも、先輩のそれもある。竹を切り、節をくり抜いて作った串入れには、私の誕生日を去年祝ってもらったときの落書きがそのままの形で残さ れている。きっと店が続く限り、このまま残るのだろう。
その座敷の一隅、いくつかのテーブルに分かれて、村雨研の面々が陣取っていた。テーブルには料理の皿がいくつも並べられているし、グラスは中身を 満たされている。
ゴールデンウィーク前、新入生の歓迎コンパである。我が学部では、二年生から研究室入りをするので、当然のことながら、新入生というのは大学二年 生であり、その世話をするのはひとつ上、三年生になる。つまり、私たちだ。
村雨研の公式コンパは一年で七回――二度の旅行を含め――ある。三年生で幹事を割り振るのだが、私は新歓になってしまった。おかげで注文を受け付 けたり、みんなは奥まった座敷に陣取っているため、厨房から上がってきた皿などを一番手前で受け取ったりする係になってる。
だから、動き回っている私にとって、場の話が飛び飛びになってしまうのは、ある意味仕方のないことではある。
とりあえず、話の流れを推測するに――この辺り、彼らとの付き合いも短くないので、わりと容易にできる。
「おそらくどこぞの料理屋辺りから逃げ出したんだろうな」
髭についたビールの泡を拭いながら、中田さんがいう。
「誰かが飼ってたのかもしれんぞ」
仏師が彫り損なったような顔をして、小石川さんが別の意見を出す。
「どっちにしろ、必死こいて逃げ出した挙げ句、事故ったわけだな。まさか、捨てスッポンというこっちゃなかろうし」
「短い幸せだったのかのう」
そこから「運の悪いカバ」がどうのといった話になったようだ。これは何やら古い歌が元ネタらしいのだが、私にはどうもピンと来なかった。中田さん たちとは、二つほど違いだが、一世代はゆうに異なることになるんじゃないかと思うことがある。だから、当然の話かもしれなかった。まあ、どうやら「カバ」 は動物園か何かから脱走し、踏んだり蹴ったり――言葉のアヤというものだ。カバ相手に蹴り入れたりする人がいるとは思えないし――の末、死んでしまうとい う内容らしい。
そこからさらに展開し、新入生のひとりが手を挙げて発言した。小島さんだ。
「前から疑問に思ってたんですけど、ムーミンって、カバなんですかねえ」
彼女は中田さんや私と所属するサークルが一緒だから、外見がおっかなそうな――冬眠から目覚めて山から下りてきたばっかりの熊のように見える―― 中田さんに対しても気後れなく話す。一年間の訓練の賜物だろう。
「ムーミン、ねえ」
中田さんが、その熊を連想させる強い髭をしごいた。私が戻ってきたのは、この辺りである。
「ありゃ、トロールだろう。北欧系の、妖精」
「トロールって、あれスか、ロールプレイングとかに出てくるモンスター?」
これまた新入生の北島くん――ゲームなどが好きらしい――が横から発言した。彼は、今回の新人の緑一点――紅一点の逆らしいが、信憑性に欠ける。 どっちかというと、北島くんは黒一点といった感じだ――である。概して文学部なんぞというところは、男の数が少ないのだ。文学科ともなればさらにその比率 は進行する。私たちの研究室では各学年、男女比が1:3とか凄いときには1:9などになったりする。
「そうそう。RPGは、民間伝承やら神話やらをベースにしてることが多いからな。例えばゴブリンはイングランド系だし、ドワーフがゲルマン系、寝て る間に作業をしてくれる小人さんたちはアイルランド系か。トロールは北欧系だな。妖精ってのはアイルランドでは、神々がキリスト教やら何やらの侵入によっ て力を失っていった姿だってことになってる。トロールも似たようなもんで、一説によれば、北欧神話なんかに出てくる神々の敵対者たる巨人たちが矮小化して いき、力を失っていった形だともいわれてる。よく橋の下に潜み、通りがかる人間に危害を加えるそうだ。橋の下の魔物、という話は、おかげで西洋にはけっこ うある。例えばスティーヴィーの『IT』で出てくる魔物ペニーワイズも橋の下に潜む魔物の比喩をされてる」
お断りしておくが、このスティーヴィーというのは、スティーヴン・キングのことだ。村雨研では、こういった愛称をよく使う。ウィリアム・シェイク スピアだったら、ビリーといった具合だ。
「……まあ、ムーミンは、そこまで物騒じゃないが、ムーミントロールという個体名と、種族名を持ってるし、妖精であることは間違いないだろう」
神話がいかに文学に用いられているか、などを研究にしてる中田さんの、ここは独壇場である。ひとつひとつ噛んで含めるような言葉を、早口ですると いう、一見無茶なことを、この人は飄々とやってしまう。
専門の話になったので、ここで説明しておけば、我が村雨研ほど、文学部で多様な内容を含むものはない。小石川さんは空海の詩を研究している人だ し、私はドイツの作家ミヒャエル・エンデをやっている。他にもグリム童話、漢文、古文、現代アメリカ文学、探偵小説、フランス文学、デンマーク文学、世界 の死生観、コミュニケーション形態学など、様々だ。おかげで同じ研究室内で違う分野から刺激を受けることが多々ある。その辺りが、村雨研の面白いところで あり、それをうまく取りまとめてしまうところが村雨研の村雨研たる由縁である。
もっとも厨房に近い、私たちのテーブルには、中田さんたち院生二人、私、私と同期の茶園朋美、そして四人ほどの新入生がいる。茶園や私はともかく として、新入生たちは皆――小島さんを除いて――感心したような、あるいはよく分からない、といった表情をしている。分からないなりに、面白そうに聞いて いるのが、酒の席というやつなのだ。
「そうそう、ムーミンで思い出したのだが」
今度は、小石川さんが切り出した。
「こういう話を知ってるかね、皆の衆」
そこで一旦止め、残っていたビールを飲み干す。聴衆の顔を眺め渡し、
「『夢民谷綺譚』という話なのだが――」
2.Deal
小石川さんは、他の大学から村雨研に入って来られた院生である。まだ正式加入――これを称して「入院」という――して一ヶ月くらいなのだが、おそ ろしく馴染んでいた。今年度の村雨研七奇人の座は間違いないところだというのが衆目の一致するところである。
横文字系――と映像系――はほぼ駄目だという小石川さんが、ムーミンの話から何をどう連想したのか、私としては非常に興味があった。
が、その前に私にはやるべきことがある。隣の茶園――昨年度の、そしておそらくは今年度も七奇人のひとりにランクインしている――が、焼酎の キャップを開けているのが目に入ったのだ。
「私がやるから」
と一升瓶を奪い取る。茶園に任せていたら、とんでもないことになるのは目に見えている。
焼酎は、アルコール度が高く、値段は安く、しかも翌日尾を引きにくい、という貧乏学生の福音である。日本酒を好む人もいるが、コンパの席では、 「とりあえずビール」が終わった後は、やはり焼酎となることが多い。
で、これを生で飲む剛の者もいないではないのだが、たいていはお湯や水で割ったり、ロックにしたりする。
以前、茶園に任せたら、グラスになみなみと焼酎を注ぎ、氷のかけらを一枚浮かべて、「ロックだよ」と差し出されたことがある。もちろん、氷は一瞬 の後にアルコールの海に没して見えなくなった。別の場合には、「お湯の焼酎割り」を呑まされたこともある。
茶園は一升瓶を奪われたことに頓着せず、人数のカウントをすることにしたらしい。「焼酎呑む人〜?」などと声をあげている。
氷をグラスに放り込み、一升瓶を傾ける。とく、とく、とく、という独特の音が心地よい。液体にさらされて、氷の表面がすべやかになり、形を徐々に 変えていくのを見るのも、私は好きだ。
お酒が飲めないという人のためには、あらかじめ頼んでいたウーロン茶などが配られる。「ウィスキーのストレートだよ〜」などと茶園がベタなことを いってるが、彼女の場合は、逆のパターンを実行したことがあるから、酒の席では警戒が必要だ。
一通り飲み物が追加され、料理が運ばれて来、宴は第二段階に入った。他のテーブルでは、幾人かが席を替わったようだったが、私の周囲――という か、院生二人の話を聞いていた連中は、おおよそそのままだった。
「で――」
と、私が話を元に戻す。
「どんな話なんです?」
小石川さんは、首を捻った。
「えーと、誰が書いたのだったかな」
隣に話を振る。
「中田氏、誰だったかな」
「尾形紋次郎」
すかさず返ってきた返事に、深々と頷く小石川さん。私はその名に覚えがあり、にやりとした。
「……という帝大教授が書いた本なのだけれど」
ぐびり、と小石川さんが喉を鳴らして、今度は焼酎のお湯割りを呑む。
「――それが『ムーミン』の翻案なのだ。尾形が活躍したのはちょうど明治三十年代頃だな。黒岩涙香などと重なっている」
また喉が鳴り、お湯割りが半分ほどになった。
「全部で八つほどの連作短編という形で、光来社という、宗教関連のものを多く出していた出版社から出た。その出版社はもう潰れたがね。僕の家には古 い蔵があって、そこをこの間整理していたら、見つかったのだよ」
「俺が読んだのは、昭和になってからの復刻版の方だったけどな。まあ、でもこっちも今では入手は難しいだろうな」
隣の中田さんが口を挟んだ。小石川さんが頷く。
「どんな話なんです。翻案っていうくらいだから、結構いじってあるんですよね。時代も時代だし」
新入生のひとりが尋ねた。さすが文学部の二年生ともなれば、「翻案」くらい知っているようだ。
明治33年――夏目漱石がロンドンに留学していた時期だ――が1900年だから、おおよそ百年近く前ということになる。
「そうだな……」
と、そのとき居酒屋の戸が音を立てて開いた。ここ「鴛鴦」は学生向けの店だが、お客さんすべてが学生とは限らない。先生の場合もあるし、サラリー マンの場合もある。その辺り、大学の食堂に高校生や社会人などがやってくるのと同じだ。
雫を垂らす傘を畳みながら、どこかのおじさんが入ってきた。この店に来る客は結構知っているのだが、見たことのない顔だった。
傘から判断するに、どうやら雨が降り出したらしい。ここに来るとき、曇っていたからどうかと思っていたのだが、傘は持ってきてない。まあ、何とか なるだろう。
そのおじさんを見て、中田さんがいった。
「ああ、傘の出てくる話があったよな、小石川のダンナ」
「ふむ」
小石川さんのお湯割りがなくなったので、私は手を伸ばしてグラスを受け取った。
「どんな出だしだったかな。あれはたしか――」
3.Play〜Raise
「昔、昔のことだった」
と小石川さんが語り出した。
ちゃーちゃちゃ、ちゃーちゃちゃ、ちゃーちゃー、と隣で中田さんが口ずさむ。そこはかとなく、話の雰囲気が日本昔話になっていく。
「どこだかはっきりはしていないのだが、不思議な谷があった。そこは夢が集う谷であり、古くは『夢眠谷』と呼ばれた。夢が眠っている、谷、だな。と ころが、いつの間にかそこに住み着くものたちが出てきた。彼らは、『夢の民』と呼ばれ、いつしか谷自体も『夢眠民』から目が取れて『夢民谷』と呼ばれるよ うになる」
「どちらも音は同じだしな」
口での伴奏を止めて、中田さんがいう。たしかにその通りである。どっちも「むーみんだに」だ。
「その谷には、時折不思議な客がやってくるそうな」
「客?」
「そう。やってくる、というよりも迷い込んでくる、って感じらしい――うん、んまい」
茄子のホイル焼きをつつきながら、中田さんが答える。これもまた、その通りである。この店の茄子ホイルはお勧めなのだ。
「ほれ、ダンナ、ここの茄子ホイル食ってないだろ。食っとけ」
ホイルの皿を横にずらす。それから焼酎のオン・ザ・ロックを口に含んだ。
「その不思議な客たちのエピソードで、短編が作られているわけだ。最初は夢の民そのもののエピソードが入って、彼らがそこに谷に住み着き、それから 客たちの話になっていくんだ」
小石川さんが食べている間に、中田さんが話を引き継ぐことにしたらしい。その辺の呼吸みたいなものは、どうやらこの院生二人組は、ここ数ヶ月の間 に養っているらしかった。まあ、私も研究室によく顔を出す方であるから、そういった掛け合いのようなものは目にしているからよく分かる。
「さっきいってた傘の話ってのはな、こんな感じだ――」
中田さんはぐるりと聞き手の新入生を見回した。
「よく晴れてる日だった。夢民谷の住民たちがそれぞれの生活をそれぞれに営んでいたところ、谷へ迷い込んできた旅人がいた。ぼろっちい傘を差したそ れは、人形だった」
「は……?」
「人形?」
夢の谷という設定そのものがちょっと幻想的なのだが、そこへ迷い込んできたのが傘を持った人形、というのもなかなか変な話である。最初に中田さん 自ら演出した日本昔話的雰囲気は、一挙に薄れた。
「意外か?」
きょとんとした顔つきの新入生たちを眺め、中田さんは髭をしごいた。
「昔から、結構そういうネタってあるんだがな。生命をかたどったものには、魂が宿る。そういうのって分かるよな。絵や彫刻、人形もそうだ。形を似せ たものは、それと同じ意味合いを持つ。これはフレイザーの『金枝篇』やら何やらに出てくる共感魔術と根っ子は似たようなもんだ。まあ、感覚として分かるん じゃないかな。小説とかでも結構絵や彫刻や人形が動いたりする話とかあるだろ。特に幻想文学やファンタジーなんかでは聞く話だろ。あと、ホラーとかな」
研究室に在籍して二年目になるが、ひとつ分かったことがある。中田さんのしゃべり方は、やはり村雨先生の影響を受けている。今『きんしへん』とい う話が出てきたが、こういった引用が、自分の専門だからだろうが、すらすらと出てくるところなど、そっくりではある。もっとも村雨先生の場合は、どこの国 のどの時代がいったい専門なのか分からず、どこからそんなものが、というような知識がぽんぽん飛び出してくるので、やはり師匠は師匠として格が違うのだ が。
「だから、『夢民谷』なんちゃらで、そんなもんが出てきてもおかしいことはないわけだ。そもそも、夢の谷という存在そのものが、ファンタジックなん だから。妖怪の隠れ里とみたいなもんだろ。ムーミンはトロールという妖精だったが、おそらくこちらの夢の民も同じだろう。ただ、日本では妖精とはいわない からな。尾形はあえて夢の民というものを創り上げたんだな」
「多分そうだろうな。全然話が進まないから、話の筋に入るが……」
中田さんの話が長くなりそうだと見て、小石川さんが割り込む。誰も残念そうな顔をしていないところが笑える。私の隣で焼酎を舐めている茶園など、 「中田さん脱線長いから〜」とほんとに笑っている。
「やかましいわ、茶園。お前は、黙って飲んどれ」
「は〜い」
と軽く挙手して茶園。もちろん、ほどほどにね、と私は横から牽制をする。茶園に黙って飲まれたら、後々結構な騒ぎになる可能性が高い。
「ともあれ」
咳払いをしたのは小石川さん。話を引き戻しにかかっている。
「傘を差した人形が谷に迷い込んできた。この谷は夢の眠る谷。そこには目的を失ったもの、これは生命、非生命を問わずに、こういったものがやってく る場所でもあった。失った夢を見つけに来るもの、自分に迷いが生じているものなど様々。人形は、長い間さすらった挙げ句に、谷にようよう辿り着いた。住民 たちは、彼女を迎える」
「彼女、ってのは女の人形だったからだ。ほら、何だか大きなフランス人形みたいなタイプを連想してもらえばよかろ」
片膝を立てて壁にもたれ、焼酎を口に運びながら、中田さんがフォローする。たしかに、これまで人形の性別など出てきていない。いきなり「彼女」な どといわれると、びっくりはする。
「ま、それだけじゃなかった。夢の谷が迎えた悩めるものは、もうひとつ。ん、このじゃがバタうまい」
ほふほふと口を動かしながら、中田さん。じゃがバタも、定番のひとつだ。
「傘、だ。ぼろっちくなった傘も、さまよえる存在だったんだ」
人形と傘。この二つが、夢の谷を訪れたということになる。
深い谷にある村へ、破れ傘を差した人形が、疲れ果てたようにとぼとぼと歩いてくる場面が浮かんだ。
「人形の迷いは、さっき中田氏の話にも出てきていたけれど、自分に魂が宿ってしまったことだった。洋風の人形で、かわいがってくれた少女がいたらし い。ところがかわいがられていくうちに、人形には魂が宿った。人形は少女を愛おしく思う。その一方で少女は歳を重ねていき、やがて嫁に行った。人形を置い て。少女の部屋に置き去りにされたままの人形は、主人との思い出にひたって眠り続ける。やがてまどろみの中で、大人になったかつての少女が病を得て死んだ ことを耳にする」
魂を持った人形の嘆きはいかほどのものであったか。かわいがってくれた主が嫁に行っただけではなく、この世からいなくなってしまったわけなのだか ら。かわいがられるために作られた人形は、その存在意義を見失ってしまったのではないか。
ぽつんと残され、埃をかぶりながら、何かを思い続ける人形。それはひどく悲しい存在に思われた。
「それだけではない。この人形、魂を持ってはいたが、死ぬことはできなかった。少女にかわいがられているうちに、知恵をつけた人形は、魂は死んだ 後、あの世に行くことを知る。これは明治時代であり洋風の人形だったから基督教の天国の方なのか、あるいは仏教的西方浄土なのか、いくらか悩むところでは ある。いずれにせよ、人形の悩みは、いかにして少女、あるいは少女の魂と再会するかということにあった。人形は家を飛び出し、放浪して、魂について考え、 調べ、尋ね歩いた。死について思った。だが、分からない。そうするうちに、夢民谷のことを知った――煙草いいかね?」
私たちに断ってから、小石川さんはタバコを取り出し、火を点けた。溜息とともに煙を吐き出す。人形のことを考えていたのだろうか。
私の友人に、兄を亡くした者がいる。交通事故だったが、やがて友人は兄の止まってしまった年齢を追い越してしまった。そのとき彼女はひとり泣いた という。私には想像するしかないが、人形も似たような気持ちを抱いたのではないか。時の止まった主の姿を一生追い続けるようなものだ。すでに遠いところへ 去ってしまったというのに。
「もう一方の悩める存在、傘の方だけど」
中田さんが続ける。小石川さんと違って、こちらはタバコを吸わない。どっちかというと太いパイプを加えているのが似合いそうなのだが。
「傘は傘で悩みを抱えていた。憧れ、といった方がいいかな。彼は、星になりたかったんだ」
どうやら傘は男性らしい。人形が女性だから、バランスを取ったのだろうか。
「ところが、考えてもらえば分かるように、傘が開かれているときってのは、たいてい雨が降ってる。星が見えないんだな。星が見えるような晩に傘を差 すやつはなかなかいないだろう。欲求不満になるわな。自分は傘なんだが、傘でいいのだろうか。あの高い空へ、行ってみたい。そうだ、星だ。星になりたい、 星になりたい、星になりたい。傘の憧れは、どんどん募って、切ないものになってくんだ」
空への憧れは、人の夢でもあった。だからこそ、私たちはアポロの話、ライト兄弟の話などで感動もするし、空を見上げたりもするのだ。もっとも、そ ういった感覚に縁のない人というのも実在すると私は知っているが。
傘の目というのは、開いた状態で空を見上げているのだろうか。ふと疑問に思う。が、中田さんは私の様子にかまわず先を続けた。
中田さんのグラスが空になっているのを見て、話の邪魔にならないよう、私はそっと手の伸ばし、ロックを作り出す。
「星を求めて傘は人から人の手に渡っていくんだが、どうにもうまくいかない。そうこうするうちに、かの人形と巡り合うことになる。あ、すまん」
ロックのグラスが受け渡しされた。おいしそうにそれをすする中田さん。
「人形は傘の悩みを知って、晴れてる日だろうが、いつでも開いたままにしてくれた。だけど、これはこれで問題があって、つまり、星との距離が絶望的 なものであることを傘はかえって思い知ることになったんだ。仮に風か何かで飛ばされたとしても、星にはなれないことを分かってしまった。空は高い、ってこ と」
「……どっちの悩みも結構深刻といえば深刻なんスね」
「そういうことだ」
タバコを揉み消して、小石川さん。
「人形と傘は連れだって、自分の答を求めて、夢民谷をおとなう」
それから人形と傘が谷をうろつき回る描写が続いた。
描写が一段落すると、
「ところが、夢の谷の住民は、何も答を出さないんだ。傘たちがいようといまいと、自分の生活を続けている。そりゃ、話の相手はしてくれるが、答は出 してくれない。不思議だろ?」
私は首を傾げた。それでは、問題は解決しないではないか。
ひょっとしたら、夢民谷の住民、というのも、自分の問題を解決できないまま、そこに住み着いてしまったものなのかもしれない。それが妖精になった のかも。その辺りは、中田さんたちが話してくれてないので何ともいえない。
「たしかにこれでは、何のために彼女たちがやってきたものか分からない。住民たちと語らい、疑問をぶつける。答は得られない。谷をさまよい、森をお とない、川を渡り、海を眺め、山を登る」
しばらく間があった。院生二人は、私たち学部生の反応をうかがっているように見えた。
「だけど、実はこれが正解なんだな。だってそうだろ。簡単に答が出るわけじゃないさ。彼らの悩みってのは、自分の存在に直結してるんだから」
「自分の目的までの道のりを探すのは、結局のところ自分自身だということだ。迷うのも一切合切すべてで、自分のものでしかない。人はその道標にはな れても、答そのものを与えてくれるわけではないのだから」
「そもそもヤンソンの『ムーミン』にしてもそういうところがあるさ。みんな勝手に生活してて、勝手に悩んで、勝手に答を見付け出していくんだ。そう いった点、尾形はきちんと踏まえてるといえば踏まえてるな」
日本ではアニメの印象が強くて、あまり知られてないことのようだが、実際、「ムーミン」にはそういう面がある。一例を挙げるならば、『ムーミン谷 の十一月』では、谷の住民たちがそれぞれの理由でムーミン一家を訪ねてくるが、彼らは留守だった。そこでムーミン屋敷に住み着いた彼らは共同生活を行う中 で、いくつかの事件に直面する。それぞれに自分の問題を解決すると、さっさと帰ってしまう。この話では、実際にはムーミンたちは出てこない。問題を解決す るためにムーミン一家を訪ねたにも関わらず、ムーミンたちが戻る前に答はすべて見つかってしまうのだ。
「ともかく」
一升瓶に残された焼酎はかなり少なくなっていた。皆、ペースが早い。私もかなり薄めたものをであるが、飲んでいる。新入生たちも、話に釣り込まれ るように、グラスを干していた。院生二人は話の合間にぐいぐい飲んでいる。渡された小石川さんのグラスに、私はお湯割りを作った。
「様々なものを訪ねゆく過程で、彼女らは己に問いかけていく。己の過去、己の現在、己の未来。そういったものごとに直面していくことになる」
最後の焼酎は、中田さんのロックに化けた。
人間なんて、そういうものだろう。他者との関係ばかりが重視されがちであるが、結局のところ、もっとも身近な他者とは自分なのである。自分との関 係がはっきりしない者に、自分が分かるはずもない。
考えてみれば、人形だって、傘だって、それが意識を持っているのならば、人間と変わらないのではないか。役割を与えられ、自分の目的を探してい く。あるいは、それらを見失ってしまう。人間だって、人形なのだ。
そして、夢民谷の住人――妖精、だろうか――たち。中田さんの脱線話を思い出す。トロールは、かつて神に対する巨人だったという。ところがそれが 力を失っていった。彼らとて、己を見失っていったのだ。妖精たちもまた、かつて何ものかに役割を与えられた人形だったと考えることもできよう。妖精たちが 谷に落ち着きながらもいまだに自己を求めていることだってありうる。
すべての生命には、自己探索の欲求があるのだろう。その必然性がすでにして含まれているのだろう。
「かの人形は、過去のしがらみをひとつ、またひとつと消してゆく。様々な穢れ、様々な雑多なことどもが着物を脱ぐように剥がれ落ちてゆき、純粋に彼 女を組み立てていたものだけが残ることになる。人形たる彼女と、彼女の少女の思い出と。それこそが、彼女の持った魂の本質だったのだからな」
料理の方はほとんど食い荒らされてなくなっていた。すでに店に入って二時間が過ぎていた。何か追加をしようかとも思ったけれど、とりあえず止めて おいた。
「逆に傘は、少しずつ周囲を見ることによって、逆に自分の姿が見えてくるんだ。自分は傘であり、星ではないこと。彼は自分を疑い、信じることができ ないでいた。それを認め、己を認め、周囲を認め、そうすることによって、彼は癒されていく。自分しか見えていなかった状態だったんだから。いろんなものを 取捨選択しながら取り込むことで、ぼろだった傘は再生していく。再生したことによって傘は、まあ、文字通り張り直されたわけだ」
汚れていた人形が、破れていた傘が、谷をうろつくうちにゆっくりと本来の美しい姿へ戻っていく光景が、連続写真のように浮かんできた。魂を浄化 し、あるいは再生したことで、ようやく彼と彼女は自分そのものになったといえるだろう。
「まあ、かいつまんで話したが、実際はもっと回想場面とかがいろいろと絡み合ってて、長いんだけどな。まあ、全部を全部話していたら切りがないし、 他の短編との絡みもあるから、すべて語るわけにはいかんな。ま、俺さまたちのありがたーいお話は、今宵はここまでにしとうございます」
最後は棒読みで、唐突に中田さんは話を打ち切ろうとする。当然のように不満の声があがった。
「その人形たち、最後はどうなるんです」
おそらく、新入生たちは、『夢民谷綺譚』という本を読むことはないだろう。悩み、迷い、それが解決しそうなところで話を終わられては、酒の席とは いえ、むずむずするような気になる。
にっ、と髭の中に白い歯を見せて、中田さんは笑った。
「知りたいか?」
それが手だと分かっていても、こくこく頷く新入生たち。私は、おおよその結末は見えていたが、それでも聞きたいと思った。
「ラストシーンは――」
中田さんの手が、小石川さんを促した。
「人形は、傘を差し――」
「傘は、人形に差され――」
二人の声がハモる。
『星空へ昇っていく』
浄化され魂だけになった人形、自分を自分だと認めることによって再生した傘。彼女と彼の行くところは、たしかにそこだろう。彼と彼女には、もう谷 にいる必要がないのだから。
そう考えると、やはり夢の民は、谷でゆっくりと自分を探しているのだろう。あるいは探し出しても、そこにいることを選んだのか。答を見出した人形 たちと、妖精たちと、どちらがいいとはいえない。それは本人にしか分からないことだろうから。そして、世の中の生命は皆、人形であり、妖精なのだ。自己と 自己、自己と他者、その関係で成り立っている。
ほうっ、という溜息が幾人かから漏れた。場の雰囲気もあったはずだ。おそらく、単なる文章ではなく、中田さんや小石川さんの身振り手振り、雰囲気 を作り上げる力がそうさせるのだろう。アルコールが結ぶ幻想の一幕ということもあろう。
星へ、天国へ。谷を囲む山からゆっくりと昇天していく、影。
それが私には、何ともいえない綺麗なものに感じられた。
4.Call
静かだと思ったら、茶園はいつの間にか潰れていた。これはこれでよかったのかもしれない。もし起きていたならば、必ず何かをやらかし、後日の話の タネになっているはずだった。
「先生」
中田さんが、村雨先生を呼んだ。先生はいつの間にやら、カウンターに移動し、大将と話しながら飲んでいた。だが、おそらく、例によってこちらの話 はすべて聞いていたに違いない。店中の話も聞いているだろう。そういう人だ。
縁の細い眼鏡が、こちらを向く。堅そうな、やや白髪の入ったこの先生こそ、私たちの指導教官たる村雨雅彦先生である。
「どうでした?」
先生は目をつぶって、天井を見上げるような格好をしてたけれど、やがて口を開いた。
「……そうだね」
「いくらぐらいの点数になります?」
重ねて中田さんが問う。
「10点、10点、6点、9点、9点、10点、8点、9点、8点、10点――」
そこで一旦先生は切り、
「――89点」
にやりとする。その拍子に眼鏡の細い銀フレームが光った。
「200点満点の、だけど」
うひゃあ、と中田さんが自分の額を打ち、天井を見上げた。
「相変わらずカラいなあ。6点ってのは何なんです、先生」
「時代考証の甘さ、かな」
自分の焼酎を先生は一口含んだ。
「『ムーミン』を書いたヤンソンは、フィンランドの人だな」
もう一口。
「1900年頃のフィンランドは、まだ独立してない。独立は第一次大戦後だから。12世紀からスウェーデンの統治下、それからロシアに含まれる。 フィンランドの歴史は外国と絡み合ってる。特にスウェーデンとロシアだね。だからこそ、民族意識が高まるわけだ。中田、1900年頃に起こっていた民族運 動は、他に何がある?」
「アイルランドでケルティック・ルネサンス、中国ではもう少し後に辛亥革命、同じ頃にインドでガンディーが活躍してたかと思います」
片手を挙げて、中田さんが答える。
「そうだね。他にもいろいろあるけど、結局は前世紀末から今世紀にかけて帝国主義が進んだからだな。例えば同じ時期に、南アフリカでは、侵略戦争で あったボーア戦争が起こっている。そのアフリカで独立運動はもっと後だけど。まあ一般に、帝国主義があるところでは、必ず不満は高まってきて、いつか爆発 をする。そういったことはやっぱりフィンランドでも起こっているはず。19世紀半ばには『カレワラ』が刊行されるし、ほら、シベリウスの『フィンランディ ア』は初演が1900年だ。民族運動というのは、つまるところ自分たちのルーツを探ることだね。それをもっとミクロにすると、自分探しということになる」
さらに一口。
「ヤンソンもフィンランド人だし、自国の歴史、書かれた当時の背景は背負っているはずだね」
ちょっとズレた眼鏡を上げる。またフレームが光った。
「それから、明治30年代といったら、日本では藤村の『破戒』が39年。また、漱石も同じ時代。もう少し前になると、鴎外が『舞姫』を書いてる。自 己と周囲との軋轢に悩む近代知識人たちの時代だ。そこでもまた、自己の在り方が問われている。翻案だろうと翻訳だろうと、どうしてもその背景を考えないわ けにはいかないからね。どうしてそれをその時代に訳したのか、その必要がどこにあったのか。どういうルートで入ってきたのか。どういった影響があったの か」
そこで一旦言葉を切り、皆を眺め回した。
「そうした点は、押さえておくべきだろうね、文学部的には」
皆が唸った。おそらくその唸り声のほとんどは感嘆であったろう。
先生は事実の断片を並べるだけで、院生のフォローをしてしまった。
「こんなとこでいいかな?」
最後にまた村雨先生は笑った。やっぱり先生の方が上手だ。
5.Score
お勘定をすませ、私たちは外に出た。二次会はどこにするか、といった話が後ろで出ている。もちろん中心で騒いでいるのは、お祭り娘茶園である。ど うやら復活したらしい。私はそっちの幹事ではないので、解放された気分だった。
私たちがいる間に降り出したらしい雨は、どうやら上がったようだった。雲の隙間から、星が見えた。雨で浄められたような、澄んだ空だった。
ほうっ、とアルコール混じりの息を吐く。風が吹いていて、それが火照った肌になかなか気持ちがいい。星もきれいだ。
ヤンソンが書いたムーミンたちもこういった星空を見上げたのだろう。
あるいは、夢の谷の住人たち。
そして、星になった人形と、傘もまた。
ふわふわした不思議な気分になって、私は踊り出したくなった。
この空の下のどこかに、本当に夢の眠る谷があるのかもしれない。
「やっぱり先生ってすごいんですねえ。院の人たちもすごかったですけど」
続いて出てきた新入生がいう。やはりあの話が頭に残っているらしい。
私はくすくすと笑った。
しばらく、この新入生には教えないでおこう、と思った。いずれ、研究室に馴染んでくれば、あの呼吸が分かってくるだろう。少し酔いが回った私は、 意地悪なのだ。
実際、今夜の話の中では大した問題ではないのだ。
トーベ・ヤンソンが第一次世界大戦勃発の年に生まれ、第二次世界大戦勃発の年に「ムーミン」の原型が書かれたことなど。
Ver.1.4. 1999.12.5.
Ver.1.41. 2002.7.1.