は じ め に

 

 

 本作は、熊本大学文藝部部誌「静寂」に「Dream Presenter」として掲載され、次に同部誌「星霜」に「どりぃむ・ぷれぜんたぁ」として加筆訂正されたものである。18の年に書いた話であり、今読み返すに――それほど年月が経ったわけではないが――いささか痒くなる文章だし、展開を忘れていて驚いたりもした。部内部外を問わず、男を主人公にしたこと(ネットで公開するとなると、私を男だと思う人が増えそうだが)でいろいろ感想をもらったことを思い出す。「あんた、見かけによらず○○○○○○だね(←敢えて伏せさせていただく)」ともいわれた。まあ、当時はちょっぴりウけていたので、ひょっとしたら面白がってくれる方もあるやもしれない。

 ただ、ローカルな地名や言葉遣い――かなり加減しているが――が出てくるところは勘弁してもらいたい。そこら辺は、地方出身者が関東の地名が分からないのと同じことである。

 今回、ネット上に載せるにあたり、一部を修正した。主な修正点は誤字脱字、方言関連、名前関係、である。一段落の長さ、句読点の少なさには自分でも呆れているところだが、なるたけ原形の雰囲気を残す方がよかろうと思い、最低限の訂正に留めた。関係者各位にはそういったことどもご了承いただきたい。

 なお、特にお断りしておくが、諸々の事情のため、本作に登場する人物・団体名等はすべて架空のものであり、仮に一致する点があったとしても、単なる偶然であるということにしておいていただきたい。


 ……という文章とともに電脳世界に期間限定で掲載していただいて結構な時間が経過した。掲載いただいたサイトは滅び、過去の遺物の中から今回発掘してきた次第である。読み直してみるとやっぱりちと痒い文章ではあるが、まあご笑読いただければ幸いである。

 

 

 

ど り ぃ む ・ ぷ れ ぜ ん た ぁ 

 

天野 景

 

 

  背景 [Binbou Seikatu]

 

 大学に入学したその年の夏、俺は貧乏だった。どのくらい貧しかったかといえば、フトコロの寒さのために熊本の酷暑の中でさえ、クーラーがいらないほどだった。ま、六ケタもの借金抱えこんでいたのだから、当然といや当然だが。まったく自動車学校ってのは、金のかかるトコだと痛感している今日この頃である。

 借金の期限は夏いっぱい。頼みこんで延ばしてもらっても今年中がいいとこだろう。いくら親が金を出してくれなかったからといって、オバさんから金を借りてしまったことを少々航海している。何にしてもさっさと返さんとヤバい。週に三回家庭教師をやっちゃいるが、それだけじゃ足りるはずもねェ。というわけで俺は、ちょっとしたコネを使い、八月の頭から丹後屋羅紗店というトコでアルバイトをすることになった。

 丹後屋羅紗店は、ウン十年も続いているシニセだ。新市街、銀座通りと銀杏通りが交わる辺り、信用金庫の隣にこぢんまりと立ってる汚いビルがそれだ。洋服なんか扱う卸問屋で、口上に発注した商品を配送したり、メーカーに生地を注文したりするのが主な業務だ。他にも展示即売をやったり、輸入品を取り扱ったりもする。展示会なんかある時にゃ、よく手伝いの求人票が熊大や商大に来るから、知ってるヤツは知ってるだろう。さて、会社の周辺にはスナックなんかが密集していて、近所の雰囲気にマッチしていない。どちらかと言えば妙に古くさい建物が浮いて見える。ウソだと思うんなら、ちょっと行って見物してくるといい。俺の言ってることが、正しいと分かるだろう。

 俺がアルバイトすることになったのは、こんなトコだった。

 

 

  日常 [Nikutai Roudou]

 

「だああぁぁりゃああぁぁぁぁ」

 気合いを込め、俺は全身の筋肉をフルに使って、そのハンドルを回転させた。今や、それを修理整備できるのは大阪の誰やらいう職人だけだという、旧時代の裁断器が布に刃を食い込ませていく。

 俺が丹後屋羅紗店に来て、やらされた仕事の大部分が、この裁断だった。九州中のお得意さんの店に配る生地の見本帳を作るとかで、その数しめて、だいたい百二十ページの三百二十部。それぞれのページに平均八種くらいの生地を貼りつけるんだ。その生地を必要な大きさにまで切るのが仕事なわけだ。

 旧文明期の裁断器はとても重く、慣れているはずの工藤さんでさえ数回連続で動かすと、しばらく休息をとらにゃいかんというシロモノだった。

「ぐっ」

 勢いが足りなかったのか、ぎざぎざの刃は重ねられて分厚くなった布地にもぐりこんだまま止まってしまった。こうなったら大人三人が全力でかからないと動かない。会社創設時からこいつはあったらしいが、まったくいい加減にしてほしいもんだ。

「代わろうか」

 ようやくハンドルを回しきった俺に工藤さんが言った。俺は頷き力が抜けたように裁断器のサビついた本体の横に座りこんだ。

「バテたみたいだな」

 工藤さんが笑った。この人は、今回俺をこき使う立場にあるんだな、これが。自称丹後屋で最も若い社員。だとすれば、ここ数年、会社は新入社員が来ていないに違いない。俺は、工藤さんがもうすぐ三十になるという事実を知っていた。顔は、ウッチャンナンチャンの内村とジャッキー・チェンを足して三で割ったような、と言えば分かりやすいだろうか。まあ、いい兄貴分といったところか。

「大丈夫ですよ。あと二、三分あれば復活しますよ。誰かさんと違って若かですけんが」

「年のことは言うなって」

 苦笑する工藤さんだったが、しばらくすると肩で息をしはじめた。

「交代しましょうか。ムリせんがよかですよ」

 俺は再びハンドルを回すことになった。

「だああぁぁりゃあああぁぁぁっ」

 ぎいっ、ぎいっ、ぎいっ。刃がゆっくりと落ちていく音を聞く俺の胸に不意に違和感が湧きおこった。それは既視感に似て、それでいて全く異なるものだった。何かが違う。何かが間違っている、というような奇妙な確信。これは現実なのか、それとも夢なのか。境界線はあやふやになり、俺は初めて船に乗ったときの浮遊感を思いだした。

「どうした、もう疲れたか」

 工藤さんの声に俺は布を裁った刃が上に戻ってきてることに気づいた。

「え、いや、何でもなかです。も一回いきますよぉっ」

 俺はまたハンドルを回し始めた。あのおかしな想いは何だったのだろうか。やっぱり、この重労働で疲れがたまってんじゃなかろうか。

 あの違和感が襲ってきたときと同じように唐突に俺は理解した。俺は、何というか、今ここでこんな仕事をしている自分に不満があるんだ。俺には、もっとやりたいことがあるんだ。だけど現実の鎖が俺の手足を容赦なく縛り、一時的に俺は今のような立場にいる。それが不満だった、嫌だった。

 言葉で簡単に表現できるような想いじゃねェ。そう、しかし、何かが違ってるんだ。俺にはもっともっとやりたいことが、やらなきゃならんことがあるんだ。

 俺は、そのことを思いだした。

 

 

  夢想 [Syounen No Hibi]

 

 小さい頃は、読み聞かせてもらった物語や伝記の主人公のような、波乱と興奮に満ちた人生をおくりたいと思ってた。

 小学生も高学年になると、自分が昔思ったような素晴らしい人生を持つということはない、いやできないのだと、幼いなりに確信していた。身体が弱かったため、いつも病院通い、検査、薬、薬、薬の日々。親戚の家で突然高熱を出してぶっ倒れたこともある。数カ月にいっぺん、頭にコードを何本もつけて脳波の測定。毎日寝る前に飲まされるピンクの粉薬。今でもはっきりと覚えている、熱にうなされた頭に妙に焼きついた病院のグレイの冷たい天井。どこに興奮がロマンがあるってんだ。通院は小学生の間だけだったが、脳波測定と薬は中学時代まで続いた。おかげで今でも俺は風邪薬ひとつにも拒絶反応を示すし、あのピンクの粉のことを考えた途端咽喉の奥から襲ってくる吐き気と戦わなけりゃならん。この症状は、おそらく一生ついてまわるんじゃなかろうか、という気さえしてくる。

 長いこと胸の中で温めていた、かくありたいという希望が消滅してから、次に俺が望んだことがある。自分が夢を奪われたのなら、他人にその希望や夢を与えることのできる人間になりたい、ということなんだ。俺が味わった思いを少しでも他人が味わうことがないように。

 中学の後半から高校にかけて、その想いは膨れ上がった。今ではめったに会えなくなってしまった悪友たちとの出逢いが触媒となり、想いは固まり、熟して科学変化を起こして、さたに温め続けられた。大切に、大切に。高校を卒業する時にゃ、それは作家になりたいという望みに姿を変えていた。漫画家も考えたが、俺にゃその才能は皆無だった。

 これまで俺は、親父の影響もあってか多くの本を読み、そこにある夢を享受する立場にあった。今度は俺が人に夢を与えてみたいと思ったんだ。だが、いかんせん文章の才能にも乏しい。それでも俺は文学部という道を選び、少しづつでも願いをかなえるため、文章を修行しようと文藝部に入った。

 そして、今の俺がある。

 

 

  学校 [Kaze No Naka Nite]

 

 やっぱり構内と違って路上はいいもんだ。俺はアクセルを踏みこみながら、実感していた。狭い教習所内で坂道発進や方向変換をやってた頃を思いだして、口元に笑いを浮かべる。

「も少しスピード落とせよ。ここは四十キロぞ」

 隣に座るインストラクターに注意されて初めて、俺は制限時速をわずか二十キロほど上回ってることに気づき、アクセルから足を浮かせた。教習所と異なり路上ってのは、距離感やスピード感だのがあまりないから、ついつい速度超過をしちまう。六十キロなんざ、あんましスピードを出してるようにゃ思えないんだな、実際のトコ。

 六月頃通い始めてから、もう二ヶ月はたっぷりたってる。同期入校したクラスメイトは、さっさと卒業しちまったし、かなり後から入った知り合いも追いついてきた。だけど、まあ、俺にしてみればどうでもいいことだった。

 元々、俺って人間は、そういうのを気にする競争心のようなのに欠けているフシがあるからだ。中学、高校の時も偏差値だの試験の成績だのには、とんと興味がなかった。周囲でセコセコと働きアリのように動き回る連中を不思議に思ってたような気がする。俺にとって大切なのは、そんな数字じゃなく、もっと何か別のモノだと感じていたからだ。それはいったい何なのかと尋ねられたら、これは正直よく分からないとしか答えられない。当時、それを捜しながら生きていこうなんぞというメンドーなことを考えたわけでもなく、それは単に勉強なんか押しつけられてやって何が楽しいんだという疑問と、それに伴う現実逃避だったのかもしれない。が、誰が何と言おうと俺は自分の選んだ道に満足していたし、今更生き方を変える気もサラサラない。

「はい、あすこの看板から右に入って。学校に戻るよ」

 指定のコースが終わりに近づき、俺は物想いを中断しなくてはならなかった。

 車は、夏の風の中を走っていく。

 

 

  仕事 [Shinkei Suijaku]

 

 丹後屋羅紗店のお盆休みは、一週間ほどあった。その間はバイトもなく、俺は思う存分羽根を伸ばせた、かと言うと実はそうでもない。その分自動車学校に忙しかったのだ。自動二輪も併用だったし、早朝から大津くんだりまでチャリンコで家庭教師というハードな生活。家庭教師先まで40分。そっから自動車学校に行けば、さらに1時間ちょいかかる。ヘタすれば、丹後屋通いよりきつかったりする。

 そんなこんなで盆休みも終わり、俺は丹後屋羅紗店に復帰することになった。再び旧時代の遺物と格闘すること数日。ようやく裁断の仕事は終了した。すると、

「水前寺の工場へ手伝いに行ってくれんね。人手が足りんごたっけんが」

 というありがたいお言葉。工場では、確か、俺と工藤さんが苦労して細かくした布切れを見本台紙に貼りつけるという仕事をやってるはず。んなわけで、俺は次の日から木工用ボンドと布切れ相手に奮闘することになった。

 この見本貼りという仕事、ただ机の前に座って台紙に生地をノリでくっつけてくだけの単純作業なのだが、これが一日中続くとかなり疲労がくる。肩と腰にくる。神経もまいってくる。ううーっ、これなら、あの肉体労働の方がなんぼかマシだと思えてくるからおかしなモンである。

 おまけにバイトで来てた某私立高校の連中がナマイキなことこの上なく、楽してカネもらおうとする態度が見え見えで、手抜きのし放題やってるような奴らだった。そいつらが仕事中しゃべってることが、他人の悪口ばかり、内容もメチャクチャで、聞いてる方がおかしくなりそうなモンだった。それを何日もすぐ近くでやられるのだ。後半は頭痛はするわ、宙を漂う布クズで息は詰まりそうになるわ、散々だった。

 もうこんな仕事ヤメだ。これ以上身体がもたねェ。俺は思いっきり遊びてェんだ。んなことやってられっけェ。と思わず星一徹のようにテーブルをひっくり返したくなった頃、俺たちは全ての生地を貼ってしまい、解放された。

 その夏の丹後屋のバイトは、これで終了したのである。

 

 

  再会 [Yokisenu Dekigoto]

 

 風の中によく知った、それでいて懐かしい顔を見つけた。

「ありゃ?」

 俺は愛用のチャリンコを止め、振り返った。向こうも俺に気づいたらしく、こっちを見ている。

「中宮さんちの美里ちゃんじゃねェの。久しぶりぃ。どしたん、んなトコで。珍しいじゃねェの」

「ん、こっちに戻って来とったと」

 彼女はそう言ってにこっと笑った。淡いグリーンのブラウスがわずかに風に吹かれて揺れる。

「あれ、中宮さんって、大学、県外だったと?」

「そうよ。東京に行っとったと」

「へえ、知らんかった。高校ん時の女のコの進路なんか、ほとんど知らんからなぁ」

 他愛もない会話が続く。しかし、まさかバイトの帰りに彼女とばったり出会うなんざ思いもしなかった。

 彼女は中学高校の時の同級生で、俺が唯一といっていいほどよく話した女のコだ。そして、俺の片想いの相手でもあった。当時俺が書いていたヘタクソな文章なぞ読み返してみると分かるんだが、しょっちゅう出てくる女のコのイメージがある。あれは、ズバリ彼女だ。

 性格は二重丸。かわいく、いるだけで周囲を明るく、あたたかくする雰囲気を持っていた。はっきし言って、俺とは対極にある存在である。俺の場合、性格はアマノジャク、口は悪い、無口でクラく、よほど親しいモンでないかぎり、話しかけようとは思われない、およそ付き合いたいと思われないタイプだった。特に口の悪さは絶品で、中学ん時の担任に三者面談の際にタイコ判を押され、親が何のフォローもせずに深々と頷いたほどである。中学の時の悪友、こいつらの影響が大だったのだと、俺は確信している。こいつらときたら、俺をはるかに凌駕する毒舌家で性格のキツいの揃いだったのだ。もっとも連中は「類が友を呼んだんだろ」と言ってはばからないが。その上、高校時代に読んだ某熊本出身作家の本に毒されて、一層ヒドくなっちまった。俺が極端なまでに無口だったのは、自分が他人を口で傷つけることができるのだというのを知っていたからなのだが、どういうわけかしゃべらないでいると内にこもるらしく、一度口を開いたら毒舌が止まらなくなってしまう。まったく困ったものだ。

 そんな俺だったからこそ、彼女に魅かれたのかもしれない。俺にはないすべてのものを持っているヒトだったから。小学校の頃から追い求めているという夢を持っているヒトだったから。だけど、その気持ちを伝えることは遂にできなかった。当時の俺は、自分の心を開くのにひどく臆病だったし、告白した結果、彼女が俺から離れてしまうことを恐れたのだ。それに、その頃の俺は彼女の笑顔を見ているだけで十分幸せだった。

 そうこうするうちに、俺たちは受験生になっちまい、厳しいスケジュールの中で、ろくにしゃべる暇も与えられなかった。そして卒業。もう会うこともあんめェ、と思っていたんだが、こんなトコでひょっこり再会するとは。

「東京じゃ大変かろ、言葉も違うし」

「そうそう、私もよう言わるっと。ナマっとるって」

「大変だな、そりゃ。でも、大学生活は楽しかろ」

「当然。高校時代は、勉強ばっかしだったからねえ」

 俺は苦笑した。気持ちはよく分かる。

「解放感にひたってるってとこか。んじゃ、向こうに彼氏でもできたろ」

「え、おらんよ、そぎゃんと」

「またまたあ」

 大学に入って、よく俺は変わったと言われる。あんまし自覚はないんだが、ちょっとした言葉の端々に、そいつが出てくるようだ。一年前の俺なら、絶対んな会話なんざできやしなかっただろう。

「そっちこそ、どぎゃん?」

 笑いながら、彼女が切り返してきた。俺は肩をすくめて、

「こっちもおらんとたい。相変わらず、女のコとは縁がなくてサ」

 軽くおどけた感じで答える。

「で、今からどこ行くと?」

「ん、今日はバアちゃんの家に行くと。あ、いかん。も、こぎゃん時間」

 彼女は時計を見ていささか慌てて言った。俺と立ち話を始めてから三十分は経っている。

「じゃ、私もう行かなんけん」

「ん、分かった。じゃ、また。そのうち、どっか飲みに行こうや」

 彼女は、にこりと微笑んだ。

 俺は、日記をつけていないことに感謝した。もし、んな奇癖があったなら、この日は、何ページにもわたる長編を徹夜して書かねばならなかっただろう。だけど、そんな思いが続いたのも少しの間だけだった。俺は、きっと家に帰ったらこのことをネタにして小説か何かを書きたくなってしまうだろうということに気がついたからである。

 この日、俺はルーズリーフ数枚に彼女の天使の笑顔を書き連ねることになった。

 

 

  疑問 [Ayashigena Gendou]

 

 九月になって、俺はユアシスというところであった展示会の準備及び片付けのバイトをすることになった。もちろん丹後屋関係の仕事である。

 背広やその生地がイベントホールにずらっと並べられたその中をうろつくと、不思議な気分になった。中には、ひとつウン十万だの百万以上する物もあって、思わず目が点になってしまった。見覚えのある生地も多々あり、あの肉体労働の日々が懐かしく思い出された。展示会は五日間あり、前日と最終日に仕事をすることになった。ま、準備と片付けってんだから当然だが。

 準備のときにあちこちに火傷しながらアイロンがけをした生地たちを折り畳み、縛り、台車に載せて玄関口の車まで運び、積み込む。一時間半くらいか、その作業を繰り返し、ようやくイベントホールは元のすっきりした姿に戻った。準備と違って、それほど時間はかからなかった。あん時ゃ、五、六時間は平気で過ぎちまって、大雨の中チャリンコで帰る羽目になって大変だったしなあ。

 まあ、そんなこんなで、バイト要員たちは、車に分乗して下通りの側にある丹後屋羅紗店に向かうことになった。車に積み込んだ商品を整理し、しまう仕事が残っているのだ。

 助手席でほっと一息入れてると、ハンドルを握ってる工藤さんが、

「お疲れさん、あとちょっとだけん、頑張れな」

「へいへい。それより、何か他にバイトの口はなかですかね。俺ぁ、まだ借金のあっとですよ」

 そうなのだ。俺は、まだ全然オバさんから借りた金を返していなかった。もうすぐ俺の誕生日が来るんだが、とてもそれまでにゃ、返済は終わりそうにない。もしかしたら、これがキッカケでオバさんと縁が切れるかもしれない。そうなると、毎年送ってもらってたブドウもメロンもミカンさえも食えなくなっちまう。そいつは困る。

「まあ、あるにはあるとばってんが……」

 珍しく工藤さんが口ごもった。

「え、いつですか、いつ。教えて下さいよ。俺、来ますけん」

 餓えた狼のように俺は工藤さんの肩を揺さぶった。

「うわ、あ、危ないっ。分かった、分かったから。落ち着いて」

 必死にハンドルを操作する工藤さんを、俺は解放してやった。

「実はね、十二月の終わり頃仕事があってね」

「十二月ですか?」

「そう、だけど、ちょっと条件があるんだ」

 俺は、次の言葉を待った。工藤さんは黙って、暗くなった空を見上げた。星が数え切れないくらいウインクを繰り返してる。

「キミには、何か夢があるかい?」

 へ? 俺は、いきなりな話の飛躍に呆気にとられてしまった。どこをどうやったら、んな展開になるんだ?

「夢っていうと、夢ですか?」

 我ながらマヌケな声をあげる。しかし、工藤さんはやたらとシリアスな顔つきで、

「そう、夢だ。何かやりたいとか、何かになりたいとか……」

 俺は内心いぶかしみながらも、

「ま、まあ、そりゃ、一応あるですけどね。でも、何で、そぎゃんこと聞くとですか」

「別に……今の連中は夢がないとか言われとるど? キミはどうかと思ってさ」

 アヤしい。何なんだ、このとってつけたような答は。

「あ、それから、十二月のバイトな、決まったら、そうだな、十二月の初め頃に連絡するけん」

 やや堅苦しい沈黙が続いた。と、それを打ち破るかのように、車は丹後屋羅紗店の前に到着した。

 俺は、他のアルバイト要員たちと荷物の片付けを始めた。

「こいつはどこに運ぶとですか?」

 ずっしりと両肩に生地を載せ、その重さにふらふらしながらも、会社の人に尋ねた。

「三階たい」

 顔のひょろ長い、そのおっさんはこともなげに言ったが、俺は立ちくらみを起こしそうになった。ちなみに、丹後屋のビルにはエレベーターのような物はない。以前、夏休み、俺は裁断の合間に生地運びをやらされたのだが、二階まで持ってくだけで腰が砕けそうになった覚えがある。束になった生地の重さはハンパじゃないし、丹後屋の階段は恐ろしく急だったんだ。

 俺は、一歩一歩ステップを踏みしめながら、二階を突破し、ようやく三階に達した。一番奥の部屋だと言われていたから、笑っている膝を叱咤し、俺は歩き出した。

 廊下の一番奥には、ドアが二つ向かい合って立っていた。こっちかな、と見当をつけてノブをひねる。ぎいいぃぃぃっっ。嫌な悲鳴をあげてドアは開いた。

「ありゃ」

 俺は中に広がっていた光景を見て、マヌケな声を出した。本日二回目である。

 中は衣装室のような感じだった。長細い部屋の両壁にずらっと服が掛かっていた。ま、丹後屋が洋服屋だということを考えれば、ここまでは問題ない。しかし、俺の目を圧倒したのは、掛かってる服がみんな同じという、それだけのことではなく、それらが、まるで、そう、あのサンタクロースの着るような、と言えば分かりやすいだろうが、ま、そんな風だったのだ。

「何してるんだい。ここは立ち入り禁止だよ」

 背後からいきなり声を掛けられ、俺は心臓が飛び上がりそうになった。振り返ると、バイトの時に顔なじみのオバちゃんが立っていた。しどろもどろになって生地を直しに来たんだと言うと、そいつはこっちの部屋だよ、とのお言葉。俺は部屋を間違ったらしい。

 向かい側のドアをオバちゃんが開けてくれ、俺はどっこらせとその倉庫の中へ生地を下ろした。

 また、残りの生地を運ぶべく、階段を下りていると、他のバイト生がひーこら言いながら荷運びをしているのとすれ違った。ごくろーさん、と声を掛ける。

 しかし、あの服は一体何だったんだろうか。丹後屋は、主に紳士服を扱う会社だし、今まで、あんな服が売ってあるのなんざ見た記憶がない。

 俺は、どこか釈然としない気持ちのまま、片付けに戻った。

 

 

  距離 [Henkyou Yori]

 

 結局、中宮美里には、あれから会えなかった。別れ際の言葉通り、飲みにでも行こうやと電話を掛けた。それが、再会から数日後。その時にゃ、もう彼女は熊本にいなかった。

 東京じゃ、そんなにホイホイと気軽に行き来するわけにもいかねェ。俺と彼女の距離はまた遠くなってしまった。

 電話番号を聞き出していたのは、不幸中の幸いだった。

 俺は彼女へ電話をした。もう一度、あの声を耳にしたかったから。あふれる気持ちを伝えたかった。俺はキミが好きだ、と。

 心のどこかで、ずるい俺が計算していたことは否定しない。もし振られても、高校時代よりマシだろう。少なくとも、その時にゃ、彼女と顔を合わせて気まずい思いをすることは避けられるはず。そうと意識しない限り、彼女に会えるのはよほどの偶然に頼らねばならないから。

 数回のコール音の後、彼女の声が受話器に響いた。

 そして、俺と彼女の心の距離は、一気に近づいた。

 それ以後も、彼女とは、何度か電話のやりとりをしている。俺は幸福だった。まるで小説の主人公になったようだった。

 彼女はクリスマスイブに帰熊するらしい。絶対、その日再会しようぜ。俺、プレゼント持ってくからさ。俺は電話口で言った。

 俺はクリスマスを指折り待つことになった。

 

 

  歴史 [Ura Banashi]

 

 信号が黄色を経て赤へと変わり、車の流れも変わった。俺は黙然と目の前の横断歩道を流れていく人々を見つめていた。隣の席には工藤さん。後ろのシートには、やたらと大きな袋が二つ、でんと積まれている。

 俺は結局、十二月のバイトとやらをやることになった。今からするのがそれだ。それが何なのかは、俺と工藤さんの格好を知ってもらえば分かるだろう。赤地に白いフサフサがついた、どこかで見たようなコート、ブーツに帽子。そして、今日は十二月二十四日。そう、サンタクロースだ。

 数日前、俺は丹後屋に呼び出され、説明を受けた。バイトは俺ひとりじゃなく、他にもいたが、知らない顔ばかりだった。説明会は、とんでもなく時間がかかった。指導だけで二日、だ。ビデオやら映画やらを使って、延々と続く。おかげで、大学の講義をサボる羽目になった。中学の二年から続いていた皆勤がオシャカになっちまったのは少々惜しかったが、バイトの内容はそれをほぼ頭の隅っこに追いやってしまうほど魅力的だった。

 今、サンタクロースの話なんざ知らないヤツはいないだろう。しかし、あれがほとんど本当のことだと信じてるのが何人いるだろうか。そう、俺だって信じちゃいなかったサ。だけど彼らは現実に存在し、時代の陰に生き続けてきた。彼ら、ということからも分かるように、意外かもしれないが、サンタは複数いる。元祖は一人なんだが、その弟子、と言うか、正確には後継者たちが、仕事を受け継いで、今に至るというわけだ。彼らは、人里離れた場所にひっそりと普段は暮らしてて、聖夜になると活動した。

 時代が進むと人口が増え、その他の理由からもサンタたちは、助っ人を雇わなければプレゼントを配りきれなくなった。その時だけサンタになり、普段は別の仕事をしている、という人間が増えてくる。もう、現代じゃ専業のサンタはほとんどいないらしい。

 サンタクロースの袋に詰まったプレゼント、ありゃ何だか知ってるかい。俺もこの間教えてもらったんだけど、へへ、驚くぜ。

 夢、なんだ。

 夢ってのは、時の流れの中でヒトを進歩させてきた動力源なんだと。何かを実現したいと念じ、努力し、叶える。こうして、地球の中で人間は育ってきたんだ。これがなければ、もっと別の、とんでもない運命がヒトを待ってたという。

 夢ってものは、ほっとくと次第に蝕まれ、すり減ってくもんらしい。だから、一年に一度、彼らは傷ついた夢を癒し、新しい夢を配るためソリに乗る。彼らがプレゼントする対象は、子どもばかりじゃない。むしろ夢を失いかけた大人こそ、それを必要としてるんだ。彼らサンタクロースは、そうやって夜の向こう側から、ヒトの歴史を見守ってきたんだ。

 ところで、現代のサンタはソリなんか使わない。上層部のエラいサンタから禁止令が出てるんだ。理由は二つ。これはサンタがバイトをたくさん雇うことになったのにも関係がある。

 ひとつは、単に危ないからだ。サンタのトナカイゾリ、ほんとはトナカイが引いてるわけじゃないんだけどね、あいつが出す速度、知ってるかい。音速まで行くんだぜ、ありゃ。星空をマッハでカッ飛ぶソリを想像してごらんよ。現代じゃ、危なっかしくていけないよ。禁止令を無視してソリに乗ってた何とかというジイさんは、十年くらい前に、シベリアでソビエト空軍のミグ相手に壮絶なドッグ・ファイトをやらかした挙げ句、撃墜され、袋いっぱいの夢と一緒に宙に散ったという。

 もうひとつの理由も似たようなもんだが、狙われるからだ。特に、国家機関や軍関係にね。音速で飛ぶソリ、コートみたいのだけでそれに耐える人間。そのメカニズムが解明されれば、どうなるか。そりゃ、深海探査や宇宙事業の進歩にゃ役立つだろうさ。だけど、今のところ人間てのは、そういうテクノロジーを軍事技術とかろくでもないことに使っちまうだろう。そんなのは、まっぴらごめんだ。

 だから、今は車を使う。これなら目立たないし、クリスマスイブだ。サンタの服装したヤツがいても、そんなにおかしくないだろう。その代わり、機動性は落ちる。車だと、狭い範囲でしか活動できないんだ。例のシベリアで死んだジイさんは、カナダとソビエトの担当だった。そんなこんなで、サンタは人員を増やさざるをえなかった。

 現在、各国にはサンタの隠れミノ、とでも言うべき会社が存在している。普段はまっとうなんだが、裏ではプレゼントを配る準備をしたり、サンタをスカウトしたり、ま、そんなことをやってるわけだ。そして、日本の、九州を担当してるのが、何と丹後屋羅紗店だったというわけ。

 サンタは、夢を扱う仕事だ。それだけらこそ、イマイチ理屈はよく分からないんだけど、夢見る者にしかできないらしい。これが、いつぞやの工藤さんのおかしな言動に通じるわけだ。サンタのことは、そうそう関係者以外にしゃべっちゃいけないしな。説明会に出てサンタにならなかったヤツは、記憶をいじって忘れさせる、なんてこともやってるし。もっとも、そこまでされるやつは滅多にいないらしいけど。

 俺は夢を与える仕事をしたいとずっと思ってた。このサンタってのは、まさにうってつけだったんだな。

 

 

 聖夜 [Yume Kubari]

 

 そして、信号は赤から青に変わり、また車の流れも変わった。車は十二月二十四日の夜を走ってく。

 しばらくして、俺ら二人のサンタクロースを乗せた車は、最初の目的地である住宅街に到着した。

「始めようか」

 運転席のサンタが言った。

 俺は後部の席から夢の詰められた二つの袋を取ると、一方を工藤さんに渡した。俺も袋を肩に担ぐと車の外に出る。

 俺らの仕事が始まった。

 サンタってのは、ソリがなくても一人で飛べるんだ。さすがにスピードは違うけどな。どうやらブーツとコートに秘密があるらしいんだけど、よくは分からない。

 二手に別れ、それぞれふわりと浮かんで屋根の上に着地する。袋からポータブルの煙突に似た物を取り出し、瓦の上に乗っける。すうっと音もなく半分ほど、そいつは屋根につかっちまい、ぐわっと穴を広げるように大きくなる。俺は、すかさず、その穴に滑り込んだ。ここまで来ると、フニャ子・F・フニャ雄の「ドラへもん」の世界だ。

 この煙突モドキやコート、それにブーツなんかはすべて支給品だ。北極だか南極だか、んなトコにあるサンタの本拠地で造られるらしい。こんなとんでもない物を昔から持ってたサンタってのは、一体何者なのか。実は昔地球にやってきたエイリアンなんだってウチワでは言われてる。それが何で夢なんぞ配り歩くことになったのか、これは、そのうち機会があったら話すこともあるかもしれねェが、相当複雑な事情があるようだ。まあ、世の中にゃキリストが宇宙人だった、という話やら小説やらもあるくらいだから、サンタが他の星から来てもいいんじゃなかろうか。キリスト云々について興味があるヤツは、久地木行秀の『エイリアン黙C録』という本を読んでみると面白いだろう。

 さて、オレンジ色の淡い光に包まれた部屋に俺は降り立った。主人夫婦の寝室らしい。

 俺は早速仕事を始めることにした。手袋の具合を確かめるように二、三回拳を握りしめる。

 まず、ダンナの方か。両の手をゆっくりとダンナの顔や胸の辺りにかざす。ゆっくりと、湧き上がる想い、彼の夢。そいつが俺の両腕に伝わり、俺の想いと融合する。それは、現実の強風にさらされ、ひどく傷ついてた。夢ってのは、一度捨てたり傷んだりすると、たいていクセになっちまう。だから、ちょっとしたことで夢を忘れちまう大人は多い。そんな連中を励ますんだ。袋の中に手を突っ込み、その中の想いを夢をつかみとり、俺の中でまた溶け合わせる。そうしてうまいこと癒された夢は、再び俺の手を通って、ダンナに戻る。隣で寝てる奥さんにも同じことを繰り返す。

 俺は、寝室を出て別の部屋に入った。さっきの部屋と同様に暖かい光に照らされた場所だった。ベッドに子どもが眠ってる。無邪気な寝顔。枕元にゃ、昔俺もやったみたいにクツ下が置いてあった。

 俺は少し微笑むと、袋の中から小さな、それでいて輝く夢を取り出した。

 一般に子どもにゃ新しい夢が配られ、大人は夢を修復される、という違いがある。というのも、子どもの頃にゃ多くの可能性を与えるべきだって意思が働いてるからだ。その配られた可能性の中で自らを模索し、夢を叶えてもらう。一方大人の方は、挫折しかかってる夢を修正してやることになる。もっとも、物事には例外がつきもんだ。子供の夢を癒すこともあるし、大人に新しい夢を配ることもある。さらにそれらは、特に指示がない場合は、その場でサンタが決定することになるんだ。まあ、んなケースは少なく、たいてい新しいのを与えるときには指示がついてくるんだけど。

 俺が夢を子供の上にかざすと、光球はすうっと小さな身体の中に吸い込まれていった。この時、かわいらしい顔ににこっと笑みが浮かぶのだ。サンタが夢を配ったのは、この笑顔が見たかったからなのかもしれない。

 夢の配達を終えると。俺はまたふわりと浮き上がり、煙突を抜け、外に出た。星のきれいな夜空が、俺を迎えてくれた。

 さて仕事はこれからだ。俺は煙突を抱えると、次の家へと飛び移った。

 家から家へ、街から街へ、俺たちは夢を配り続けた。この星空の下、世界中で同じような光景が見られるはずだ。

「お疲れ。もうこの辺は終わりだ。帰ろうか」

 工藤さんが肩を叩いたとき、俺の白い袋には、夢がわずかしか残っていなかった。

「分かりました。だけど、もうひとりだけ、夢を配りたい相手がいるんですけど」

 中宮美里の顔がチラついた。彼女はもう帰ってきているはず。そして、俺を待ってる。腕時計を見た。十二時少し前。間に合うだろうか。

「女のコかい?」

「大切なヒトです」

「オーケー。車で送ってこか」

 工藤さんは頷いて、笑った。

「いや、やっぱよかです。空から行きますけんが」

 飛んで行くなら最短コースがとれる。俺は再び星の中へと舞い上がった。

「おいおい、あんま目立つなよ」

「へいへい、大丈夫すよ」

「じゃ、俺からキミらへクリスマスプレゼントを……」

 俺は工藤さんの言葉を最後まで聞かずに宙を疾走しだした。地上と天上のイルミネーションに挟まれ、その間を風とともに駆け抜ける。

 彼女の所へと、彼女の所へと、風は吹いていた。

 

 

  回想 [Sonogo]

 

 俺は、その日が終わる直前に彼女の家に着いた。二階にある彼女の部屋の窓をノックする。出て来た彼女の驚く顔。

「Merry Christmas for you」

 俺は白い袋の中から彼女のための夢を取り出した。虹色に輝くそれを彼女に手渡す。

「きれい」夢の光で彼女の顔が幻想的に照らし出される。

「おいでよ」彼女の手をつかむ俺。

 俺たちは、手をつないだまま星空に浮かび上がった。そこに、雪がちらちらと降ってくる。まるで、星が形を変えて来たみたいな白い結晶たち。それが工藤さんからのプレゼントだと俺には分かった。工藤さんは俺たちにホワイトクリスマスをくれたのだ。

「素敵ね」彼女は笑った。かつて俺が夢に見た天使の微笑。

 星と雪が降りしきる中、二つの唇が重なった。

 あの夜のことは、決して忘れないだろう。

 その後、時が流れ、俺は進級した。あれからも彼女が熊本に帰ってくる度、新しい思い出を作っている。今回の話を書こうと思いついたのも冬休みに戻ってくるから、という彼女の電話をさっき受け取り、去年の出来事を思い返したからだ。

 あれ以後、丹後屋羅紗店には行ってない。だけど、俺は、またクリスマスになったら、あのバイトをやりたいと思っている。

 

おしまい



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