伝説
天野 景
1.
あの山の向こうにも同じようなものが広がっているのだろうか。「世界」という言葉は知らなかったのだが、少年は山の向こうにはひょっとして何も存 在しないのではないかと思っていた。村と平地と、深い森――それが少年にとっての「世界」のすべてだった。だから、ことさらこの閉塞された環境から抜け出 したいとも思っていなかった。
少年の認識する「世界」を破る唯一のものは、外界からの旅人だった。月――時間の感覚さえよく分からなかったのだが――に一度、数人の商人が村に 立ち寄る、それがすべてだった。
村には、少年と同じ年頃の子供は、すでにない。先日、最後のひとりで、少年に残された幼馴染みはみな死んでしまった。
以来、望楼――村で唯一柵の外が見える――に登っては、一日中外を眺めていることが多くなった。
村はぐるりと柵に囲まれている。覆いかぶさるような森が、決して遠くない位置にある。少年が生まれるよりはるか昔、森は村のすぐそばであったとい う。今では、柵と森の間に平地がある。畑が集中している山までの平地よりはずいぶんと小さいが。
森までの平地は、村人たちが命がけで木を切り倒して作ったものだった。森から出てくるものが、望楼からよく見えるようにするためである。望楼には 小さな鐘がくくりつけられ、始終そこにいる見張りが、いつでも警告の音を鳴らせるようになっていた。そして、それはまた、滅多にないこと、というわけでは なかったのである。
それを最初に見つけたのは、少年だった。というのも、少年はたいていの大人よりも目がよかったし、見張りが東の森を見つめているのに対して、西の 山を見ていたからである。
西に何かきらきらしたものが見えた。小さいが、眩しい輝きだった。
「何だろう?」
少年は首をかしげた。そのまま待っていると、やがてそれが人らしいと知れた。
珍しいことだった。めったにこの村へ人間がやってくることはない。時折、商人たちの一隊が訪れることはあったが、今はその時期からは外れている。
「誰かな?」
ようやく少年は傍らの男の袖を引っ張った。
「何だ?」
男は少年の指さすものを凝視した。それから鐘を鳴らし、下に向かって叫んだ。
「誰か来るぞ!」
少年は、胸が高鳴るのが分かった。まだきらきら光っている。何か、素晴らしいことが始まるような、そんな予感がしていた。何故かといわれたなら ば、はっきりとは分からないだろうが。
2.
それは、三人の旅人たちだった。西から来たことでもあり、どうやら人間らしいということが分かると、村の入り口が開かれ、招き入れられた。
すでにその頃には少年は望楼から下りていた。こういうものは側で見なくてはしょうがないと分かっていたからだ。商人たちでさえ、土産話を歓迎され るのだ。毎日が繰り返される村において、彼らがもてなされたのも無理はなかった。入り口をくぐるなり、遠くから眺めていた村人たちが、大丈夫らしいと分 かってわっと押し寄せていった。少年もその中にいた。
少年は、壁のようになっている大人たちをかき分けて、旅人たちを見ようと前に出た。いつもの商人たちと違って、初めて見る顔ばかりだった。背の高 い大人たちだったが、少年の死んだ父親よりは若く見えた。一様に日に焼け、たくましい身体つきをしている。
真ん中に立っている男は、長い槍を手にしていた。変わった細工がしてあった。穂先のすぐ下から二方向に金属が伸び、半円を描いて柄の上部に着地し ていて、きれいな銀色の輪を作っていた。その金属部にはさらに三つずつ突起がついている。ちょうど、銀の輪を槍で貫いたように見える。金属部と穂先はきら きらと輝いている。先程少年が見た輝きは、この槍に反射した朝日だったのだろう。
「マーキウスではないか」
聞き覚えのある声だった。しわがれているが、それでいて力強い声は、少年の祖父のものだった。村にはほとんどいない年寄りだった。この村では、子 供は少ない。狙われるからだ。年長者もなかなかいない。それまで生き延びることができないからだ。少年の祖父は、まれな例のひとりだった。
祖父の声を聞いて、槍の男の表情が少し変わったのを少年は見た。少しばかり驚いたようだった。おそらく男の名前なのだろうが、少年が聞いたことも ないものだった。
「マーキウス……?」
「おい、マーキウスだってよ……」
ひそひそと囁きが交わされる。何か嫌な感じだ、と少年は思った。
「戻ってきおったのか」
祖父がいった。こくり、と男が頷いた。
3.
閉鎖的な環境であり、森からの脅威のこともある。村から出て行こうとする者も昔からいた。ことに血気盛んな若者にありがちで、普通は西を目指す。 山の向こうに消えていくのだった。
マーキウスもまた、そういう人間だったらしい。一度村を捨てた者が戻ってくるのはほとんどなく、たいていは二度と姿を見せない。こちらも消息を求 めるわけではない。結果として、外界とのつながりが増すということはない。
マーキウスとその友人たちが来たことで、村は大賑わいとなった。祭のような騒ぎである。夜になると、めったに開けられない酒が振る舞われ、料理が 出された。もっとも田舎の村ゆえ、山の向こうから来た者たちが、それを馳走だと思ったかどうかは分からなかった。
三人を囲んでの宴である。村のたいして大きくもない広場がそのために使われた。大きな火の周囲にさらにかがり火がいくつも焚かれ、まるで昼間のよ うな明るさだった。日頃の憂さを晴らすように、村人たちは騒いでいた。歌い、踊りだす者さえいた。昼間、マーキウスという名が囁やかれたときのどこか暗い 感じは消えていた。
そんな騒ぎの中にあって、マーキウスはあまり口を開こうとはしなかった。村人に何か尋ねられると、ぽつり、ぽつりと答えはしたものの、自分からは 何かしゃべろうとすることはないようだった。それでも村人は構わないようだった。彼の友人のひとりはしゃべるのが好きそうで、身振り手振りを交えて、外の 世界のことをおもしろおかしく語っていたからである。それを見るマーキウスの目はどこか冷めているようだった。
酒こそ飲ませてもらえなかったものの、果汁の入った杯を持った少年もその場にいた。おしゃべりな男の面白い話は、少年の興味を引いた。そもそも少 年は柵の外に出してもらったことはほとんどなかった。村で最後の子供になってからは、一度もない。だからこそ、望楼に登るくらいしか遊ぶ方法がなかったの である。これは村人たちには大目に見られていた。高い梯子を森から来たものたちが登るというのは考えにくかったからである。もっとも、少年の祖父はいつも 反対していた。もし連中が登ってきたならば、逃げ場がなくなるというわけである。
少年には、山の向こうの話よりももっと気になることがあった。そこで、マーキウスに近づいて、尋ねてみた。
「ねえ、山の向こうって、どんな風になってるの?」
酒を呑む手が止まった。驚いたような瞳が、少年を見つめ返してきた。
「……ここよりもずっと、ずっと広い世界だよ」
「そこでも森があって、怖い生き物がいるの?」
ちらり、とマーキウスは隣りの友人を見た。
「……いや」
少年には、やっぱりそのような場所は想像できなかった。森からやってくるものたち、柵を越えるものたち、そして赤く染まった部屋……。そういった ものがない場所など。少年は生まれてからずっと、森と隣り合った村に生きてきたのだった。そして、おそらくこれからもずっと。
「だったら、どうして、この村に戻ってきたの? 前、この村に住んでたんでしょ?」
尋ねてはならないことだったのだろうか。少年は、マーキウスの手がかすかに震えだしたのに気づいた。杯から酒がこぼれそうになっている。
「おい、マーキウス……」
心配そうに隣りの男が肩に手を置く。マーキウスはその手を振り払った。
「俺がこの村にどうして戻ってきたかって? 教えてやるよ」
すぐ目の前にいる少年に聞かせるにしては大きな声だった。少年はびくりとして後ずさった。
「俺は、森の王を殺しにきたんだ」
ざわり。一瞬、ざわめきが膨らんだかと思うと、次の瞬間静まり返っていた。沈黙が重たく垂れこめた。村の人たちの視線が集まっていた。
マーキウスの傍らで、二人の友人が剣の柄に手をかけるのが見えた。
「まだそのようなことをいうておったのか」
沈黙を破ったのは、少年の祖父だった。
4.
マーキウスたちは、村の外れにある納屋を与えられ、そこに泊まることになった。畑仕事に使う道具などをしまっておく建物で、そこに藁を持ち込んで あった。すぐ隣りには、やはりこれも共同で用いる材木や薪などが積んである。
その晩、白けきった宴が終わった後、ぞろぞろと村の主だった者たちが少年の家に集まってきた。
少年は自室に追いやられたものの、こっそり抜け出して、村人たちの話を聞いていた。いったい何が起こったのか分からなかった。あの村人たちの沈黙 は嫌なものだということは感じとれた。
「即刻追い出すべきだ!」
誰かが叫んだ。賛同の声があがる。
「森の連中に刃向かったということになってみろ、俺たちが巻き添えを食らっちまう。冗談じゃねえぞ」
「いくら、あいつが村に住んでたからって、山の向こうから災いを持ってくることはねえだろうに」
「あいつらが死ぬのは勝手だが、俺たちに迷惑をかけてほしくねぇや」
興奮した声のほとんどは、マーキウスたちを追い出すことに熱心だった。そして、集まった者のほとんどが、そういった意見だった。
「……明日にでも村を出ていってもらおう」
最後に祖父が締めくくるのが聞こえた。
少年は、どきどきしていた。何かとてつもないことが起こりそうな予感があった。
窓からこっそり抜け出して、少年は村の外れにある納屋へと向かった。
納屋では、ぼそぼそと話し声がしていた。
「すまんな、つい興奮しちまって」
「まあ、しょうがないさ。お前にとっちゃ、忘れられないことだからな」
「いつかはばれたはずだ。そのために私たちは来たのだからな」
「まったく、この村は変わっちゃいない。俺をいらつかせるところもな。大方、今ごろ俺たちを追い出す相談でもしているに違いないさ」
「分かってもらうために戻ってきたのではないだろう?」
「そりゃそうだがな」
「それはそうと――誰だ!」
突然納屋の戸が開かれ、少年は腰を抜かしそうになった。顔を出したのは、例の口数の多い男だった。手に剣を持っている。
「なんだ、子供か……どうした、少年?」
「えっと、その……ちょっと聞きたいことがあって」
「父ちゃんに黙ってきちまったのか? 心配してるぞ、きっと」
「……父さん、死んじゃったんだ」
赤い部屋。むっと立ちこめる甘ったるい臭い。手に持った、濡れていない短剣。
「う……悪いこといったかな。ま、立ち話もなんだ、入れよ」
男は少年を納屋に入れた後、外を見回し、戸を閉めた。
納屋は薄暗く、ほこりっぽかった。天井に明かりがあった。不思議な、冷たいむき出しの光だった。松明とも違っている。少年は目を丸くした。
「山の向こうには、こんなものもあるの?」
「そうだよ」
「それで――」
納屋の置くに座っていたマーキウスが口を開いた。
「聞きたいことってのは?」
「うん、あのね、どうして森の王を殺そうと思ったの?」
5.
マーキウスは黙ってしまった。二人の友達も顔を見合わせ、マーキウスの様子をうかがう。
「……俺がこの村に住んでたことは知ってるな」
しばらくして、ぼそりとマーキウスがいった。ほっとしたような空気が流れた。
「俺がいた頃もこの村はこんな村だった。森はもう少しだけ近く、やつらはしょっちゅうやってきては俺たちを襲った。今もそうだろう?」
マーキウスの言葉に少年は頷いた。
「話は簡単だ。ある女がいた。その女が食われた。俺の……言い交わした女だった」
他の二人はもう知っている話らしかった。居心地が悪そうにしている。口数の多い方は戸口に立ち、外の様子をうかがっているようだった。
マーキウスは感情が高ぶってきたようだった。次第に声が荒くなっていく。少年は、なんだか怖くなってきた。
「俺は悲しんだ。嫌だった。信じたくなかった。そう、信じたくなかったんだ。村の者が襲われ、、引き裂かれ、殺され、食われていくのはしょうがない さと諦めてた。それがこの村なんだと。だけど、その実あいつが食われるなんて、これっぽっちも思っちゃいなかったのさ」
どんな具合だったのだろう、と少年は思った。赤い部屋をこの人も見たのだろうか。あの、鼻の奥にねっとりとからみつくような臭いを嗅いだのだろう か。
「俺は怒った。こんなことが許されていいはずはない、と思った。ひとりではやつらにかなうわけはなかったからな、武器を持ってみんなに呼びかけた よ。殺されたのはあいつだけじゃなかったし、みんな誰かしら殺されてた。だから、俺は呼びかけた。武器を取って森のやつらを倒そうと。仇を討とうと。村を 守ろうと。昔の人たちがやったみたいに戦おうと」
昔の人たちが森の王に刃向かったなどという話を少年は聞いたことがなかった。ただ自分の身を守るだけ、襲われるのにおびえるだけの村なのだと思っ ていた。
「……だけど、誰も聞いてくれなかった。『無理だ』『やつらを怒らせるだけだ』『そうすれば余計に人死にが出る』それが連中の言い分だった。俺は怒 り、そして絶望した。自分ひとりではどうにもならないことがあると知った」
マーキウスは言葉を切って、唇を噛んだ。目が潤んで見えたのは、不思議な明かりのせいだったのだろうか。
おそるおそる少年がいった。
「それで……?」
「……俺は村を出た。こいつらと戻ってきた。やつらを倒すためだ」
声がかなり落ち着いてきたので、少年はほっとした。
「それだけさ。それだけのことさ」
少年は、マーキウスに聞いた話を噛みしめていた。少年には、彼の気持ちが分かるような気がした。例えようもなく自分が小さく、無力であると知らさ れる。そのまま流されて、押しつぶされそうになる。
「……僕の父さんも殺されちゃったんだ。僕が悪かったんだ……」
あの日、父親の短剣を借りた。村の者は、一定の年齢になれば、身を守る物をもらう。父親が大事にしていた短剣を少年はねだったのだった。
少年はうれしくなって、納屋の方へ向かった。手ごろな木片を削って遊ぼうと思ったのだ。
騒ぎを聞いて駆け戻ったとき、すべては終わっていた。少年は、父親と一緒に食べたものをすべて吐いた。泣きながら、吐いた。しかし、村人たちの反 応は違っていた。
「僕が短剣をねだらなかったら……」
慰めの言葉をかけるわけでもなかった。マーキウスが、ぽんと少年の肩を叩いて頷いた。
「……そうか」
少年は涙を必死にこらえていた。
あのとき、祖父は、父の死を当たり前のようにとらえていた。村の人たちは諦めたように、ちょっと前まで父だったかけらを土に埋めた。
「泣いておけ。そして、その心、忘れるな」
ぐっ、と抱き寄せられた。少年は我慢するのをやめた。
6.
朝になった。村人はマーキウスたちに詰め寄った。マーキウスたちが予想していた通りの反応だった。
どうせマーキウスたちが殺されるのは目に見えている。問題は、そのとき森の怒りが村に向けられるのではないかということだった。余計なことはする な、というわけである。
「村に災いをなすつもりか、マーキウス。かつては、お前もここの住人だっただろうに」
少年の祖父がいう。マーキウスが答える。
「昔の話だ。ここの住人だったから、ここを出た」
槍を抱え直す。きらきらと穂先が光った。
「俺は俺のやりたいことをする。あんたたちには関係ない」
「森がそう考えると思ってか」
「俺は森の敵だ。森の考えることまでは分からない」
少年は、少しばかり離れた所で、それを聞いていた。まだマーキウスにいいたいことがあった。手を振ってみたが、果たして向こうに伝わったのだろう か。マーキウスが、こちらを見た。
「……忘れ物をした。ちょっと取りに行ってくる」
マーキウスは二人を伴って、踵を返した。
彼らが入ってきたとき、すでに少年は納屋で待っていた。
「どうした、少年?」
少年は用意してきたものを見せた。食べ物が詰まった袋と水袋があった。おそらく、村からは何も援助はないだろうと知っていたからである。
「お、こりゃ助かるぜ」
「でもいいのか?」
少年はこくりと頷いた。少年と祖父は今や二人で暮らしていた。食事は少年が作っていたから、ごまかすのはさほど難しいことではなかった。見つかっ たならば、祖父に大目玉を食らうだろうが、別に構わなかった。何かをしなければならないと少年は思っていた。
「すまんな」
彼らは袋を受け取った。森では満足に食糧など確保できないだろし、飲み水も人間の口に合うとは限らなかった。森の近くに育った少年は、そういった 話を聞いたことがあった。それゆえの準備である。
袋をしまうと男たちは納屋から出ようとした。
「あの……」
少年の呼びかけに彼らは振り向いた。
「これ……」
少年が差し出したのは、一本の短剣だった。よく手入れがしてある。
「ん?」
「父さんの短剣なんだ。持っていってほしいんだ」
じっとマーキウスが覗きこんでくる。
「父さんの仇を討ってほしんだ」
マーキウスは首を振った。
「それは俺たちの仕事じゃない。お前がやるべきことだ」
しかし、少年は村から出たこともない。武術の心得もなかった。
「僕がもう少し強かったら、きっと……」
「……分かった。これはありがたく預かっておこう。その気持ちは忘れるなよ。自分でやるんだ、いつの日にかな。こんな村の連中みたいにはなるなよ、 諦めるなよ。偉そうなことはいえないがな」
マーキウスの大きな手が、短剣を握った。少年は大きく頷いた。
少年は彼らが納屋を出てから、しばらく間を置いて続いた。慌てて出口に走る。もう彼らは村を出るところだった。
「ふん、きっとすぐに殺されちまうさ」
そう呟いた男を少年はにらみつけた。マーキウスたちの姿は東へと遠ざかっていく。太陽の光が、槍に届き、きらきらしているのがまだ見えた。しか し、見つめているうちに、その光は徐々に小さくなっていく。
「さ、もう中に入るぞ」
柵の外にいると、いつ何があるか分からない。村の大人でも木を採りに行ったり、畑に行くときくらいしか出ないのだ。ましてや村に残されたたったひ とりの子供が長い時間外に出してもらえるわけがなかった。
少年の頭に閃くものがあった。急いで駆け戻り、望楼の梯子に取り付く。登って東を見たときには、すでに三人の旅人の姿は森の中に消えていた。
7.
一日目。昼頃から、森は騒がしかった。彼らは戻ってこなかった。
「ほら、見たことか。もう殺されちまったに決まってら」
夕方になると大人たちはそういい、柵の点検を行なった。いつ森から敵がやってくるか分からなかったからだ。
少年はいつものように食事の支度をし、祖父と二人で夕食を食べた。祖父は、旅人たちのことは何もいわなかった。寝る時間になってもまだ森は騒がし かった。
二日目になった。前日から続いていた森のざわめきが途絶えた。それまでのことと比べると、不気味なまでの静まりようだった。
「何事だ?」
大人たちはいった。身を守る物を手放さない。女たちは家に隠し、固く戸を閉ざしてあった。
夕方になり、祖父と食事をしながらも少年は、森に消えた男たちのことを考えていた。彼らはまだ戦っているのだろうか。食事をしているのだろうか。 それとも、もう森の王を倒しただろうか。
夜になった。再び、森の声がひどくなった。明かりを消し、村人たちは家の中で震えていた。森は今にも襲ってくるだろう。
「あいつらが森を怒らせたに違いねえ」
そういう囁きがあちこちでなされた。しかし、少年は信じていた。おそらく村でたったひとり。
そして――三日目の朝。彼らが戻ってきた。
村は大騒ぎとなった。マーキウスが持っていたのは、大きな獅子に似たものの首だった。鱗に縁取られた目は虚ろで、角のある額には深い傷がつけられ ていた。
「森の王だ」
どさり、と彼は首を投げだした。村人たちは震え上がった。
「なんてことを……」
本当にやってのけるなどと信じていたのは、少年以外にはいなかっただろう。
「これで当分は安心ですね」
そういったのは、もうひとりだった。例の口数の多い男の姿はなかった。誰もそのことに触れなかった。戻ってきた二人もあちこちに怪我をしていた。 マーキウスの槍は、手元まで血みどろになっていた。
宴となった。獣王を殺したマーキウスは英雄となっていた。森が復讐に来るかもしれぬという者もあったが、あれ以来森は静まり返っていた。まるで王 と一緒に死んでしまったかのようだった。
だが、その一方で違うことも口に登っていた。少年はたまたまそのことを耳にした。
「長よ、あいつら、何か俺たちに要求するんじゃねえのか。森の王を殺しちまったんだから、金とか食い物とか」
「そのような余裕がこの村にあるか?」
宴の席で、それに触れた者がいた。村には礼として差し出せるものがないのだが、と。 先日のときのように、沈黙が舞い降りた。
マーキウスは、冷たくいった。
「俺たちは、あんたらのために戦ったんじゃない。この村のためでもない」
ちらり、と視線が少年の方に向けられた。
「俺たちは俺たちのためにやった。それだけだ」
こくり、と少年にしか分からぬほどに、少年に向かって頷く。誰も他に気づかなかったようだった。
「……だから、礼をもらう筋合いはない」
翌日、彼ら二人は西へ去った。村の出口で村人と言葉を交わす彼らを少年は見つめていた。朝日が槍の輪に反射して、まるで太陽を捕らえたかのよう だった。
彼らが村を出てから、すぐに少年は望楼に登った。返してもらった短剣を抱きしめて、望楼からそれを眺めていた。
「預かり物を返す」
宴が終わったとき、少年を呼び止めてマーキウスは短剣を差し出したのだった。
「これがなければ、俺もやられていただろう」
さっ、と鞘から抜く。刃が赤黒く染まっていた。
「獣の王、森の王の血だ……魔除や護符代わりにはなるだろう」
もうひとりの男も微笑んでいた。
「うん」
少年は頷いて受け取った。
「こないだいったこと、忘れるなよ。自分でやるんだ、自分からは諦めるな。そして、山の向こう、世界が見たければ、いつでも出ろ」
マーキウスはそういって、少年の頭を撫でてくれた。その手が、とても大きく感じられた。
昨夜のそういったささやかな会話を思い出しながら、少年は去り行く旅人を見つめていた。
小さな太陽を宿らせた槍は、次第に遠ざかっていった。山へ。小さな村から、山の向こう側の世界へ。
少年はそれをいつまでも見つめていた。
8.
ひとつの伝説がある。
その王の名を取って名づけられたある王国で、建国二十年の大祭があった。王自身は華美な性格ではなかったのだが、英雄王を戴く国民たちは、浮かれ 騒いだようである。
国王の御前で、有名無名二十人を越える詩人たちによる歌の披露、競演がが行なわれた。歌のほとんどが、国王の偉業を讃えるものであったのは、むし ろ当然のことである。王がどのような生い立ちを持っていたのかは不明であったが、後にメルキスと呼ばれることになる地方に、一本の槍を携えて現れてからの 活躍はめざましいものだった。ひとつの国を興すほどだったのである。国を樹ててからも様々なことを行っている。何しろ東方は獣人たちの方が勢力が強いの だ。戦いの連続であったといってもよい。詩人たちは、それらをひとつの絵巻物のように王の御前で語った。
ところが、ある竪琴弾きだけが異なる歌を奏でた。それは、忘れられた名の村を舞台にしたひとりの若者の復讐譚であり、それを見つめる少年の歌だっ た。さらに歌は続き、少年の成長を語った。血生臭い、めでたい席にはそぐわないような部分もまたあった。
大部分の者は、眉をひそめた。王の不興を買うだろうと思ったらしい。
王は、その竪琴弾きを呼び寄せて直答を許した。
「何故?」
この王は常に冷静で、戦場にてもむやみに興奮することはなかった、という。口数も少なかったようだ。何故このような場にそぐわぬ歌を歌ったのだ、 と王の言葉を周囲の者は受け取った。だが、竪琴弾きの答は奇妙なものだった。
「同じ故郷を持つ身なれば」
そういって、竪琴弾きは一振りの短剣を差し出したという。別の話によれば、短剣を差し出しながら「このような魔除けを持っておりますれば」といっ たことになっている。
これに対して、王は何か呟いたらしい。竪琴弾きにしか聞こえなかったようである。「そうか」とも「来たか」であったともいう。
ひとつの伝説である。その竪琴弾きの名は伝わっていない。
(初出:熊本大学文芸部「Mojizuke!!」第29号)