いかにして十一音の翼により世界は奏でられたか

 

天野 景

                   

 

Melkorに――

 

 1−A

 これは夢だ。

 荒野。答の出ぬままに、血族を捨て、居場所を捨て、同胞を捨て、私はこの場所に辿り着いた。ここには何もない。私は独りだ。空には夜が広がっており、星々さえも呑まれてしまったかのように見える。

 焚き火の向こう側には、闇が広がっている。そこから、老人は現れた。褐色の肌に白く長い髭が映えている。

 呪術師。

 老人は焚き火の向こう側に座った。猫のような目が、私を見つめる。

「何故に、世界の始まりなど知ろうとする」

「知りたいがゆえ」

 私は正直に答えた。この老人が、私の求めている人物ならば、呪術師ならば、私の求めている答を授けてくれるはずだ。

「私は知りたい。世界が何故、このようになったのか。世界は何故、かくあるのか。そして、私は――」

 老呪術師は、爬虫類めいた鱗のある片手を挙げて、私を制した。節くれ立った指先の鋭い爪が、火に照り返る。

「ならば、我が兄、我らに伝わる話をしよう――」

 老呪術師が触角を震わせ、語り出す。発された言葉は白や黒の臭気に変わり、周囲を漂う。

 これは夢だ。

 

 1−B

 一にして無数なる神あるいは無数にして一なる神がいた。

「在れ」

 と一にして無数なる神あるいは無数にして一なる神は音を発した。

 空が在った。

 一にして無数なる神あるいは無数にして一なる神は、広大な空間を前に、しばし自らの音を掻き鳴らした。

 しかし、そのうちにそれでは物足りなくなった。音はやがて空に呑まれてしまうからである。

「有数なる音よ、在れ」

 一にして無数なる神あるいは無数にして一なる神から、異なる翼を持つ、十一音の天使たちが現れた。原音天使たちの誕生である。

 一にして無数なる神あるいは無数にして一なる神は、十一音の原音天使たちに主題を与え、奏でさせた。

 空間を満たすものが生まれた。

 一にして無数なる神あるいは無数にして一なる神は、原音天使たちの奏でる曲を聞くうちに満ち足り、眠ってしまった。

 原音天使たちは、ただ空間を満たすだけでは物足りなくなってきた。そこで、一にして無数なる神あるいは無数にして一なる神がかれらに与えた主題を分け、発展させることにした。

 原音天使たちだけでは翼が足りなくなり、かれらは自らの音を分割し、単音天使たちを創った。さらに相性の良い原音天使同士で、複音天使たちをも創った。

 天使たちによって、空を満たす音の調和が生まれた。すなわち、宇宙の音楽であり、歌である。

 

 

 2−A

 老呪術師はどこからか取り出した長いパイプをうまそうに吸っている。パイプは蛇だった。

 老呪術師は、いつの間にか、少年に姿を変えていた。白い髭の代わりに、白い髪があり、肌の色はより濃くなり黒になっている。

 これは夢だ。

 煙を長々と吐き出し、眼柄の先についている横に裂けた山羊のような瞳が、私を見る。

「満足か」

 私は首を振った。まだ私の中の空洞は満ちていない。

「私はいったい――」

「されば、我が妹、さらに語ろう」

 老呪術師は蛇のパイプを打ち捨てた。ぬめりながら蛇は火の照らす範囲から去っていった。

「これなるは、また別の物語――」

 老人が獣じみた牙を剥き出しにして、語り出す。牙の間に、紫や黄色の泡が浮かんではつぶれた。

 これは夢だ。

 

 

 2−B

 あるとき、一音の原音天使が消えた。

 代わりに、乳海が在った。ひたすらに広大な白い海。それは空間を呑み込み、宇宙を呑み込もうとしていた。

 在ったからには、それが在るよう、なにものかによって奏でられたのである。

 残された原音天使たちは、単音天使、複音天使に尋ねたが、乳海の正体を知るものはいない。

 原音天使の一音が、不用意に乳海に近づき、呑まれた。その音が途絶えるのを、他の天使たちはたしかに聞いた。

 そのとき、眠っていた一にして無数なる神あるいは無数にして一なる神が音を発した。

「――……」

 それは、行方の知れぬ一音の原音天使の音だった。

 一にして無数なる神あるいは無数にして一なる神は、そのまま再び眠りに落ちていった。

 それから、一音の原音天使が、乳海を調べに出かけ、音を断った。

 さらに、もう一音が消えた。

 乳海は成長を続けており、すべての音、すべての奏でられたものを呑もうとするようだった。

 原音天使の音は、十一音階梯であった。四つの音がすでに欠け、それに伴って、関わっていた単音天使、複音天使もまたあるいは消滅し、あるいは力を失っていった。欠けた音だけを持っていたものは消えたし、別の音と複していたものはその分の音しか残らなかった。

 残された七音の原音天使たちのうち、五音が音を合わせ、壁を創ることにした。かれらの単音天使たち複音天使たちもそれに協力した。

 残りの二音の原音天使たちは、力を合わせることができなかった。欠けた四つの音によって、音階は分断されてしまったからである。

 かくして、音なる壁が奏でられ、乳海を取り囲んだ。が、なおも乳海は増え続け、ために壁は創り続けなければならなくなった。五音の原音天使たちとその眷属は、奏でることに集中するしかなくなった。

 残された二音の原音天使とその眷属は、この状況をどのようにしたらよいか悩んだ。しかし一にして無数なる神あるいは無数にして一なる神は、答えなかった。

 

 

 3−A

 これは夢だ。

「満ち足りたか」

 老呪術師は尻尾の位置を座りやすいように変えた。先端に棘のついた鱗ある尻尾は、それ自体意思を持っているかのように蠢いている。知らぬ間に若い女となった赤っぽい肌に、妙にその尻尾はなまめかしく見えた。

 私は首を振る。疑問はいくつもあった。

「乳海とは何なのです」

「天使たちは、壁を創って、それからどうしたのです」

「残された二音の天使たちは問題を解決したのですか」

「私は何故――」

 矢継ぎ早の言葉を老呪術師は制した。殻に包まれた指がぎこちなく動いた。

「されば、我が弟、さらに語らねばならぬ」

 口に二股に分かれた舌をちらつかせ、老呪術師が語り出す。その言葉は焚き火の炎に弾け、青や緑の粒となって夜空に舞い上がる。

「これなるは、さらなる乳海の物語――」

 これは夢だ。

 

 

 3−B

 白い乳の海は、すなわち、闇であった。同時に光でもある。

 空間をたゆたい、際限なく他を呑もうとする。

 天使たちは、音の壁でそれを妨げようとする。

 どちらに分があるかは、一聴瞭然だった。

 調和させるのと、調和を乱すのは、どちらが容易であるか。

 乳の海は、失われた四音をかすかに包含していた。対して、天使たちは四音を失っていた。奏でられたものの調和を乱すには、一音が狂うだけでよい。逆に調和させるためにはすべての音が揃わなければならない。しかも、二音の原音天使とその眷属が音の壁に加わっていない。かれらが加わっても、一層不協和音を増幅させてしまう。欠けた四音の代わりにはならない。

 ゆえに、二音の原音天使たちは、乳海を調べることにした。下手に手を出して、音を失うわけにはいかぬがため、慎重に。翼を用いて自らの音を囁き、その反響を確かめる。

 乳の海は、失われた四音を中に含んでいる。そのうちでも、最も濃く在ったのが、最初に消えた原音天使の音であった。他の三音は今やかの音を支えるに過ぎぬ。

 乳の海は、白い闇。

 乳の海は、調和した不協和音。

 乳の海は、単独では成り立たず、単独で在るもの。

 乳の海は、複数では成り立たず、複数で在るもの。

 それ自体成長し、他を成長させるもの。

 自己を肯定し、他を否定するものでありながら、他を肯定し、自己を否定するもの。

 何かを取り込むものでありながら、何かを生み出すもの。

 天使たちがかつて創り出したすべての奏でられるものの原型でありながら、それを越えるもの。

 天使たちがかつて創り出したすべての奏でられるものから生まれたものでありながら、それとは逆のもの。

 それが乳の海だった。

 そして、中心には、原音天使の音があった。

 

 

 4−A

「いかがか」

 老呪術師の肌はいつしか黄褐色に染まっている。肌には若々しい張りがある。それでいて、あくまでも老呪術師は老人なのだった。

 その首筋にある魚のような鰓から、しゅっと空気が噴き出す。

 これは夢だ。

「何故、中心に原音天使がいるというのです」

「そもそも乳海の中には何があるのです」

「そして私は――」

 私は少し寒くなってきたので、焚き火に近寄った。

 火が爆ぜ、甲虫のようなものになった。老呪術師の肉球のようなもののある手が閃き、虫をつかんだ。

「それを知るには、我が姉、さらに語らねばならぬ」

 老呪術師は手に握った甲虫のようなものを口に運び、咀嚼し、語り出した。口の中で虫のようなものは呪術師の言葉と混じり合い、赤や茶色の光となる。

 これは夢だ。

 

 

 4−B

 手の空いている原音天使の一音が、とうとう乳海の中へ潜っていく決心をした。しかし、そのまま無思慮に飛び込んでは、先に呑まれた原音天使の二の舞となる。そこで、もう一音の天使の助けを借りることにした。

 二つの音を結びつけ、それを命綱にして、乳海へ潜る。相方の音が在る限り、自分の音が呑まれることはないし、相対化することで自らを確立することもできる。

 乳海に飛び込んだ原音天使が見たものは、小さな世界。それは失われた四音によって形創られた不完全な世界。そこには小さな生命が息づき、発展をしていた。

 原音天使は、音の中心を探る。そうする間にも世界は成長し、発展し、衰退し、滅亡し、誕生し、成長していった。

 天使は耳を澄ます。かの原音がどこかにあるはずだった。原音天使は、その不完全な世界の中の生命体に着目した。音に耳を澄ます。

 天使から音なる翼を取り去ったようなその生命体は、社会を形成し、発展している様子だった。失われた四音はその世界に満ちていたが、中でもその生命体に最初に失われた音がよく響いているようだった。

 明らかに、その生命体は不完全だった。だが、不完全なりに成長をしようとしていた。生命の響きは短く、次々に世代交代がなされる。世代交代をなすことによって音が引き継がれ、生命の響きは数を増していく。

 こういった奏で方があることを、初めて原音天使は知った。

 生命体は耳を澄まし、生命の音を聴く、生命の音を奏でる。

 生命体たちは、自らの来し方行く末を常に求めているようだった。神という概念を発明した。あるいは学問をなすことによって、世界の構造を探ろうとした。無数の生命の営みによって、そういった知識は少しずつ蓄積されていく。だが、すべてが解明されることはない。

 何故ならば、その世界には四つの音しかなかったからである。乳海に呑まれていない原音天使たちの音は、この中にまで響いてこない。だからこそ不完全であり、不完全であるがために、解は出ない。

 何を彼らは求めているのか。

 原音天使は疑問に思った。

 自らの音を世界に響かせ、反応をうかがう。新たに持ち込まれた五つ目の音は、小さな不完全な世界に響きわたり、すぐに消失した。

 その小さな不完全な世界は怯えていた。

 不完全であるがゆえに完全を目指し、完全でないがゆえに完全になることを恐れている。

 その小さく不完全な生命体は怯えていた。

 他と調和し、世界と響き合いたいと思いつつ、自ら壁を創り、調和を拒んでいる。

 調和は、個でありながら、全であること。全をなす個でありながら、全によってなされる個であること。

 それがなされえぬ限り、調和の音は響きわたらぬ。

 同時に原音天使は、天使の奏でるものにもこれが当てはまると知った。

 

 

 5.

 これは夢だ。

「解は得られようか」

 老呪術師の姿は、無数の色の粒に溶け、朧になっていた。その色は、臭いであり、味であり、光であり、そして音であった。万色であると同時に無色。それが老呪術師の姿だった。

「解は得られぬという解を得ました」

 私は答える。血族を捨て、所属していた場所を捨て、放浪し、己を失い、己を探し、さまよい続けた。

 昔から疑問だった。集団の中に調和するのならば、埋没するのならば、私が私である意味はどこにあるのか。私は、私であるためにさまよい、解を探していたのだ。その行為が他を受け付けずに呑み込んでいく不協和音を創っていった。私は私であるために見えざる壁を築いて他を拒み、同時に私を見失ってしまったのだ。

 現状では、解は得られぬ。それが解。

 老呪術師は天使の翼を広げ、立ち上がった。今やその姿は音に満ちた若者となっている。

「されば――我が友」

 老呪術師の姿をした原音天使が、人に似た微笑みを広げる。その彩られた笑みもまた、音。

「我らは奏でねばならぬ」

 私は空を見上げた。牛乳を溶かし、染めたような空から、天使の音が降ってくる。耳を澄ませば、世界は音に満ちている。不完全な、調和。目の前の天使から、空の向こうの天使から、この世界のすべてから、音が響いてくる。

 これは夢だ。

 私は目覚め、自分の翼を広げ、立ち上がり、私の音を発した。

 

 

 6.

 そして乳海の大攪拌が始まった。

 内側より五音。中間より一音。外側より五音。

 九音の原音天使の奏でる十一音によって、乳海はかき混ぜられていく。その成分はあるいは凝り固まり、あるいは流動し、あるいは薄められていく。

 飛び散った滴は星となった。鋭く輝く音の塊は飛び出して太陽となり、大きな塊がいくつも分離し、惑星を形作った。やや小さい塊は、冷え固まって乾酪化し、月となった。中心部は、音とともに奏でられて変形し、美しい世界となった。発酵した乳は海となり、乳酪は大地となった。乳海が持っていた成分は諸々の生命を創った。

 それは、かつてある原音天使が己と他との調和、己の存在する意味の解を見つけるために夢見た世界に似て非なるものだった。

 これは夢ではない。

 かくして、天使たちの翼により十一音の世界は奏でられた。

 

Ver.1.4. 2000.5.31.
Ver.1.41. 2005.1.20.



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