シリーズ・天野景の言いたい放題
解説しよう。
このコーナーは、
私こと天野景が、
好き勝手なことをほざくという趣旨のもと、作成されるものである。
一応テーマは「ファンタジー」ということである。
題材は自由に選ぶ。
その辺問答無用である。
が、リクエストは受け付ける。
やるかどうかは別問題だが。
また、
本能と気分の赴くまま行動するB型であるから、
書き方、長さ、切り口、やり方、制限なしである。
その方が楽なんである。
ゆえに、
次にいきなりポエムのコーナーになっているかもしれない。
その次には読者投稿欄(どこにそんなものが……)に変わっているやもしれない。
さらにその次には、未訳本の紹介をするかもしれない。
すべては気分による。
とはいえ、評論のコーナーに分類されているわけであるから、
それっぽいことを書くことになるような気がしないでもない。
そうかもしれんし、そうでないかもしれん。
なお、
ここで展開される内容及び意見は、
すべて天野の経験と思考と独断と偏見と毒舌と
妄想と夢想の泥沼からすくいだしたものであり、
必ずしも普遍性を持っているわけでないことをお断りしておく。
内容に関する意見、質問、指摘等もちゃんと受け付けるので、
安心して文句なりいってもらいたい。
それでは、今回のお題は……
「ウィザードリィ」
「ワイヤーフレームの向こう側」
天野 景
1−1.きわめて一般的な。
さて、「ウィザードリィ」について一席ぶつわけであるが、「ウィザードリィ」を御存知ない方もいらっしゃるかもしれない。
簡単な説明をしておく。
「ウィザードリィ」は3Dダンジョン探索型のコンピュータRPGの傑作である。
説明終わり。
あいや、待たれよ。
もうちょっと説明を加えよう。
「ウィザードリィ」は1981年に発表された最初期のコンピュータRPGであり、アメリカのロバート・ウッドヘッドとかいうおっさんが作ったものである。後世のコンピュータRPGに与えた影響は大きく、当時英語版しかなかったにも関わらずアップルを買い、辞書片手にやっていた強者も多いと聞く。ちなみにそういった人たちの多くが、現在ゲームデザインをやっていたりする。もちろん、一般にも多くの中毒患者を出している。
例えば、日本では「ドラゴンクエスト」で有名な堀井雄二もそのひとりで、「ドラゴンクエスト」のTのみで出てくる呪文レミーラは、「ウィザードリィ」を意識しているし、同じ系統の呪文に分かりやすい活用をくっつけた(ホイミ、ベホイミ、ベホマなど)のも「ウィザードリィ」の手法である。さらに「ポートピア連続殺人事件」の後半で地下迷宮が出てくるが、そこで壁に「もんすたあ・さぷらいずど・ゆう」という落書きがあった。これもまた「ウィザードリィ」ファンにはお馴染みの悪夢のメッセージである。
背景となるストーリーは単純で、当時のハードの能力ゆえ、システムも単純である。しかし、模倣作を生み、影響を与え、続編が次々と出、日本では独自の展開をしたりもしている。
まあ、そんな作品である。
1−2.きわめて個人的な。
去年のことだったか、発売後、すぐにプレイステーション版「ウィザードリィ リルガミン・サーガ」(以下PS版)を購入した。これは「T 狂王の試練場」、「U ダイヤモンドの騎士」、「V リルガミンの遺産」をまとめてぶちこんだものである。
失望した。
たしかに、うまく移植はされているようだ。一歩一歩自分の縄張りを広げていくかのような感覚、ヒットポイントを削られる痛み、紛れもない「ウィザードリィ」である。
だが、同時に大いなる不満が私の中に存在していたこともまた、事実である。
そもそも、だ。
私はかねてよりエニックス社の「ドラゴンクエスト」シリーズ(以下DQ)より、スクウェア社の「ファイナルファンタジー」シリーズ(以下FF)よりも、「ウィザードリィ」の方が好きだった(ただ、Y以降は、個人的にあれは「ウィザードリィ」だとは思っていない)。その「ウィザードリィ」の初期三部作がPSに移植されるというので、ずいぶん喜んだものだった。
が。
うーむ。
文句ばかりいっても始まらないので、何故PS版「リルガミン」が失敗だったと思われるのか、そして「ウィザードリィ」が何故他のコンピュータRPGより面白いと感じられるのかを本稿では考察してみたい。
その前に、私個人の考える「ウィザードリィ」ベスト3を挙げておこう。
1位 「ウィザードリィ 狂王の試練場」(ファミリーコンピュータ版)
2位 「ウィザードリィ外伝W 胎魔の鼓動」(スーパーファミコン版)
3位 「ウィザードリィX 災渦の中心」(スーパーファミコン版)
この三つに共通する「ウィザードリィ」の面白さとは何なのか。何故、これらが面白くて、PS版がダメなのか。そういったことどもを追及していけば、その魅力とともにPS版の失敗も分かろうというものである。
ということで「ウィザードリィ 狂王の試練場」を中心に話を進めていきたいと思う。
なお、以下機種についてはプレイステーション=PS同様、ファミリーコンピュータ=FC、スーパーファミコン=SFC、パソコン=PCと略させていただく。
2−1.コンピュータRPGにおける生と死
コンピュータRPGの多くは、ファンタジー世界を舞台にしている(違うのもある)。そこでは怪物など「敵」と戦い、目的を遂げていくことになる。危険も存在し、主人公たちに死がもたらされることもある。
よくゲーム批判などで聞いたのが、「ゲームではリセットしてやりなおしできるので、生命の重さを感じ取れなくなる」という言い分である。これがいかに間違っているのか、ということは、「たまごっち」などの育成物をプレイされた方ならば、理解できよう。対象に関わった時間と経験が、ディスプレイの中だけの存在であろうと、プレイヤーとの結びつきを深めてくれる。デジタルペットだろうと何だろうと、育てたものが死んだら悲しいのである。
だが、一方で、死というものがぞんざいに扱われているのも事実である。ことにコンピュータRPGにおいてはそれが顕著であろう。
DQでは、主人公たちが全滅したとしても、所持金半額というペナルティだけで復活する(主人公のみ)。
FFでは、全滅すればゲームオーバーとなり、セーブしたところからやり直す他ない。これだけ取れば、FFの方が死というものを厳粛に扱っているとも解釈できよう。
しかしながら、私にしてみれば、五十歩百歩である。どちらも呪文ひとつで死者は復活を遂げる。ことにFFシリーズにおいて、死の扱いというのは中途半端である。プレイヤーキャラクターはあっさり生き返る反面、シナリオの進行で実にあっさりと登場人物に死が訪れ、二度と生き返らなかったりもする。
死と生は表裏一体である。死を軽く扱うゲームにおいて、生もまた軽くなる。死んでも呪文ひとつで生き返るならば、誰も慎重な態度を取らなくなるだろう。FFでは、回復呪文を唱えつつ戦闘を行う(ケアルガケアルガ)という印象が強い。生命力を削られても削られても、あっさりと甦る。最新作のFF[においては回数無制限の「かいふく」で戦闘中に全快することも可能である。プレイヤーの誰がそこで痛みを感じるというのだろう。その上、FFではヒットポイントが鰻登りに上がっていき、同時に与えるダメージ及び与えられるダメージも上昇する。プレイヤーにしてみれば、ヒットポイントが10や20削られても屁でもないどころか、まったく実感が湧かないインフレ状態になってしまう。
いかにファンタジーが「何でもあり」的な要素を含んでいるからといって、これはズレているのではないか。難しく考えずに遊ぶこともできよう。ゲームという側面を取るならば、なるほどそれも大事であろう。しかし、私にとってこの生命への軽い扱いは、その物語世界を崩すだけに感じられるのである。私個人の感覚では、トールキンのいう「魔法が解け」た状態になってしまう。結果、私は物語を外から眺める羽目になる。
コンピュータRPGの元となったテーブルトークRPGでは、死というものがどのような扱いを受けているか。死者を復活させる手段は存在する。だが、それは無制限ではありえない。代償が必要になったり、コネが必要だったりと様々な枷があり、なかなか死者は生き返らない。だからこそ、生者の行動も現実味を帯びてくるし、面白くなってくる。死が力を強めれば強めるほどに、そこで人は必死に生きていくことになる。
死が厳粛であるほどに、なかなか現実において死を味わうことができない(←核家族化、医療の進歩などいろいろな原因があるわけだが)我々は、ゲームという世界で生と死を思うさま味わうことができるのではないか。「たまごっち」の死であれば、そこには生命と死、それを見つめる我々という図式が成立する。ならば主人公が人間であったならば、よりいっそうの感情移入、体験ができようというものだ。
2−2.「ウィザードリィ」における生と死
では、「ウィザードリィ」の世界では生と死は、どのように扱われているのかを見てみよう。
「ウィザードリィ」において、「死」とは圧倒的なものである。キャラクターは当初弱い。とにかく死にまくる。始めたばかりの頃など、十歩くらい歩いては一回戦闘をして地上に戻る、ということの繰り返しである。それでも死ぬ。死んだキャラを生き返らせるには、専用の呪文を唱えるか、寺院に担ぎ込んで生き返らせてもらうしかない。ところが、甦りの呪文は高度であり、寺を頼るにも金がかかる。
しかも、である。甦りに失敗することさえあるのだ。これがDQであったならば、マジックポイントの続く限り呪文を唱えればよいし、教会なら金さえ積めば一発で甦るところである。これはFFでも大して違いはない。
ところが。
「ウィザードリィ」では死から甦るのに失敗した場合、「灰」状態になる。これを生き返らせるには、さらなる高度な呪文が必要だし、寺院でやる場合、また金を積まねばならない。が、それで百パーセント生き返るわけではないところがまた尋常ではない。
「灰」状態で甦りに失敗した場合、キャラは「消滅(ロスト)」する。金も所持品も経験もすべて抹消されてしまうのである。こうなったら、生き返ることはできない。存在自体がロストしてしまうのだ。
ならレベルが上がるまで慎重に行って、ある程度強くなればこういった「消滅」の恐怖は関係なくなるか、といえばそうではない。
「ウィザードリィ」の敵には、「クリティカルヒット」を放つものが存在する。どれほどヒットポイントが高かろうと、レベルがすごかろうと、その攻撃を食らえば、一撃で即死である。高レベルのキャラでもあっさり首をはねられる。ぽんぽん飛ぶところは眉目飛刀と変わらない(←大量殺戮か暗殺かの違いはあるが)。
またこのゲームではヒットポイントがなかなか上がらない。全員のヒットポイントが三桁になるためには、かなり修業を積まねばならない。そのため、地下深くで敵の奇襲を食らって逃げるとか反撃とか考える間もなく、1ターンで全滅することもある(全員に40ポイント近いダメージを与える敵が複数出てきたりするので)。
まだある。
「ウィザードリィ」世界で見つかる宝箱の多くに罠が仕掛けられている。これを外さねば、中身を手に入れることは難しい。この罠のひとつに、「テレポーター」がある。引っかかった瞬間に、どこか別の場所にまとめて飛ばされるというものだ。どんなに高いレベルの盗賊であろうとも、引っかかる可能性がある。調べようとした瞬間に、悪夢のような音が響いたりもする。
レベルが上がっていれば、他の階に移動させられようと、生還できる可能性が高い。が、問題はそこではないのだ。壁の中に飛ばされた場合である。この瞬間、キャラクターたちは生き埋めになって全員即死する。即死したキャラのうち、運のよい者は、街へ飛ばされることになる。だが、運の悪い者は、それだけで「ロスト」してしまう。ついでにいうと、街に戻ってきた死体でも持っていたアイテムが失われていることもある。
毒食らって地上まで戻れなかったり、回復呪文を使い切ったり、閉じこめられたり、殺されたり、とにかく全滅の方法にはことかかない。
前述のように、FFの場合、全滅したらやり直しだ。DQでは主人公のみ生き返った状態で再開する。
「ウィザードリィ」では全滅すると墓のグラフィックが現れる。死体はそのまま迷宮の中に転がっている。アイテムもろともだ。死体を回収すれば生き返る可能性はある。貴重なアイテムを回収できる可能性もある。救助隊の派遣である。ところが、苦心惨憺全滅の現場に駆けつけると、死体がない場合がある。死体は残っていても、アイテムが失われている場合もある。おそらく、死体のいくつかは、モンスターにその場で食われたか、迷宮の奥に引きずり込まれたのだろう。もちろん、見つからなかった死体は「ロスト」である。
かくも死と灰とロストの恐怖はついてまわる。「隣り合わせの灰と青春」とはよくいったものだ。
まだ恐怖はある。モンスターの特殊攻撃「エナジードレイン」だ。こちらが週単位、月単位で苦労しまくってせっせと上げたレベルを、いともあっさり下げてしまう。経験値を抜かれてしまうので、下げられたレベルは、また苦労して上げなければならない。「狂王の試練場」には最高4レベルのドレインを使う敵がいる。高レベルニンジャ(←レベル上げが死ぬほどきつい)が4レベルを食らったときには、さすがに泣けてきた。
「ウィザードリィ」未経験者、あるいはPS版のみをやった人には、あるいは「そんなにコワくないやい」という向きもあるかもしれない。
たしかにその通りである。PS版はコワくない。
しかし、私が1−2で挙げた「ウィザードリィ」はコワいのである。
何故か。
「ハードモード」(←「X」でたしかそんな表現をしていたと記憶するが、「ヘビーモード」であったやもしれぬ)の存在があるからである。
とにかく勝手にセーブされる。
キャンプの終わり、戦闘の終わり、地上で1コマンド打つごとにセーブされるのである。これを止めるには、その直前をとらえてリセットより他にない。ちなみに宝箱を見つけるのは戦闘が一段落してからであり、宝箱の扱いが終わってからようやく戦闘終了となる。テレポーターの結果が出た瞬間、戦闘で全滅した瞬間、逃げた瞬間にセーブされる。
すなわち。
やり直しがきかないのである。表示速度を上げていて、エナジードレイン食らっているのに気づかず戦闘を終了してしまい、レベルが下がっていた。リセットする前に壁の中にテレポートしてしまった。寺院でキャラがロストした。貴重なアイテムを売り払ってしまった。などなど、悲惨なことが起こっても、やり直すことはできないのである。
さらに苛酷な要素として。
前述のように「ウィザードリィ」では、ヒットポイントはなかなか3桁にはならない。レベルアップによってその能力値は上昇もするが、ときによって下降もする。1レベル上げるのに、後になれば何万、何十万と経験値が必要である。転職をすれば能力値は初期値(←えらい低い)に戻る。
まだある。「ウィザードリィ」のキャラには年齢がある。宿屋に泊まるとヒットポイントが回復するのだが、それも金次第。高い部屋だと一週間辺りの回復が早く、安い部屋だと一週間辺りの回復が遅い。ただの馬小屋だと呪文しか回復しない。で、50週ほど経つと、キャラクターは誕生日を迎える。さらに転職をした場合、5歳ほど老ける。で、50歳を越えると徐々に体力などが落ち始め(←要するに老いていき)、やがてロストすることになる、という話である。幸か不幸か私のキャラはそこまで生き延びたことはないので確証はないが、ありえそうな話ではある。
かほどにヘビーなゲームなのである。
もちろん、だからといって初心者がやれないほどカタいものではない。「X」や「外伝W」には、ハードではないモードもあったはずだ。
しかし、このゲームの本質はハードモードにある。
私が「リルガミンの遺産」ベスト3に挙げなかった原因のひとつには、戦闘がそれほどコワくなかった、というのがある。同じ理由で「ダイヤモンドの騎士」も挙がっていない。最強呪文ティルトウェイトを無制限でぶっ放せるなどというアイテムがえらい早い時期に手に入るせいだ。戦闘がインフレ化している。
ヘビーであるからこそ、プレイヤーはそこに没頭することができるし、死の裏返しとしての生を生きることが可能になってくると思う。
3−1 補完されず。
近年来、ハードの格段の進歩により、ゲーム等も様々な面で進歩を見た。もはや、ナゴヤ撃ちの時代は遠く、初めて見た地上絵に感動したのは昔のことである。あるいは、壁越しに剣を抜くナイト、火を吹いて壁をぶち破るドラゴン。輪を吐くモアイ。あるいは超能力少年が芋虫みたいな竜を相手に飛び回る。すでに今は昔。祇園精舎の鐘の声、おのれ頼朝、我地獄より甦りたり。ネタが分かった人は、結構な年かもしんない。
いかん。ついひたってしまった。
とまれ。音響やグラフィックの面では、昔と比べものにならないくらい立派になっている。それは私も認めるところである。
映画のようなキャラが動き回る。夜中にひとりでやってた日には怖くてたまらなくなるような効果音を弾き出す。
それはそれで楽しいことである。見ていて面白いものである。
だが、果たして、ゲームはこれでいいのか。ものによっては、ふとそんな疑問も生じてくることもある。
例えば、FFシリーズは映画を目指すと公言してはばからない。なるほど、グラフィックは凄いものである。しかし、何故映画を目指すのだろう。ゲームではいかんのか。ゲームは映画に劣るもんであるのか。
はっきりいって、映画的なFFを買ってやるよりも、同じ金で山のように借りられるビデオを観た方が何倍もお得だろう。何千円も払って何十時間かけてやるよりも、古今の名画でも鑑賞した方が面白いような気がするぞ、私は。
ゲームとしてやるからには、他のメディアに太刀打ちできないであろうフィールドでも勝負すべきである。最近のゲームはそれを忘れてしまっているものも多い気がしてならない。
グラフィックがちゃちかろうと、音が入ってなかろうと、有名人が作ってものでなくても、面白いものは存在している。「超大作」である必要はどこにもない。ディスクいっぱい使って、後になるほど内容が薄っぺらになっていくようなゲームは少なくとも私の好みではない。
たしかに華麗なグラフィックもすっごいBGMもすんばらしい効果音も、ひとつの要素である。だが、絶対に必要かといわれると、私は首を傾げてしまう。
何しろ、そういった類のものというのは、上限がない。新しいものが次から次に出てくる。その刺激に慣れてしまえば、受け取り手はもっと上のものを求めてしまう。そのイタチゴッコの果てに何があるのか。新しいハードの開発? 技術の革新? 改良し調整したニューバージョン? 解説書がないと分からないくらいのアイテム、イベント? 一般ユーザーを置いてけぼりにする一方、ついていくためにかかる負担は大きくなるばかりではないか。
また、映像などにとらわれすぎて、肝心のストーリーに矛盾があったりするゲームも存在する。
一例を挙げる。(以下、某有名RPGの矛盾点などを突きまくる。読み返してみて非常にうっとーしかったので削除)こういった破綻した物語をグラフィックや音楽などで飾り立てているだけ、というものが結構存在しているような気がする。
私が昨年やって面白いと思ったゲームに、「大作」と呼ばれたものはひとつもなかった。また、昨今の「大作RPG」が中古市場で見せる大暴落はカッコ悪すぎるかぎりである。コイン一枚で買えるものとかもあったぞ。N社のアレとか、S社のアレとか、E社のアレのことだよ、おい。ゲームを「作品」ではなく、「商品」としてとらえているのだろう。プロフェッショナルの態度ではないわな、そんなん売りつけるというのは。
そもそも、ゲームの面白さとは奈辺にあるのだろうか。
次項で、「ウィザードリィ」に話を戻して、こういった点について見てみることにする。
3−2 補完さる。
「ウィザードリィ」における中毒性というのはどこから来るのだろう。
これを考えてみると、現在のコンピュータRPG(ことに大作と呼ばれるもの)にない要素が上がってくる。
1.あってなきがごとしのストーリー
2.いるのかいないのか分からない存在感の希薄なボスキャラ
3.シンプルすぎるワイヤーフレームの画面
4.姿形の分からないキャラクター(違うのもある)
1について。御存知ない方もおられるだろうから、一応説明しておく。「ウィザードリィ 狂王の試練場」のストーリーは、以下の通りである。「いやー、ワードナっちゅう魔法使いに宝物の護符を奪われちゃったのよ。迷宮に立てこもっとるから、取り戻したきたら金やら何やらやるぞい」とトレボーとかいうおっさんのたわごとに冒険者たちが乗せられ、徒党を組んで挑むというもの。
これだけなんである。地下迷宮は十階までで、その迷宮と街の往復でゲームは進められる。さらわれる姫も、葛藤も、ライバルも、挫折も、物語上存在しない。
さらに2の要素がからんでくる。最終ボスたるワードナは、冒険者たちのレベルが13もあれば、倒すことができる。これはかなり早い時期である。
それ以降、ストーリーがない。
続ける。
3はいささか特殊で、選択可能なことではある。私はもっぱらワイヤーフレーム表示でプレイすることにしている。
ワイヤーフレームとは、針金めいた直線のみで構成された画像である。囲まれた部分はのっぺりした黒。迷宮の壁、床、天井さえもがワイヤーで表示される。壁なんて横からみたらぺらんぺらんなのだ。
さらに付け加わるのが、4である。
キャラのグラフィックというものが存在しない。あるのは、データだけである。つまり数字でのみ構成されたキャラをプレイヤーは操作することになる。
昨今のゲームに慣れたプレイヤーには、「いったいそれで感情移入できるのか? それって面白いのか? 物足りなくないのか?」と思われるやもしれん。
ところが。
これらが合わさると、化ける。
キャラの情報が薄い。付け加えてキャラを表現するはずのストーリーが希薄である。かてて加えて、やたら早い時期にラスボスが殺せる。
するとどうなるか。
プレイヤーは、自分で「物語」を作っていくことになる。初期「ウィザードリィ」には男女の性別もキャラに存在しない。名前で分けるしかないのだ。パーティーのイメージ、そこで起こるであろう会話、戦闘シーン、迷宮を歩いていて起こるドラマ(毒で死にかけるとか)、すべて、プレイヤーが補完しなければならないのだ。しかも、苛酷な環境を生き延びたキャラクターにプレイヤーは感情移入している。
で、自分で作る物語に従って、キャラたちに迷宮探索の動機が生まれる。究極のアイテムを探す、ワードナの護符を百個集める(……)、倒せなかった敵を倒せるようになる、そして、行き着くことのできぬ最強の座へ。その過程において、転職をしたり、年をとったり、能力値が上下したりする。転職をすると5歳ほど年齢がかさむ、そこにもまたドラマが生まれうる。
さらにちゃちいワイヤーフレームが、想像を助ける。何も、豪華なグラフィックだけが想像力を養うわけではない。むしろ、欠けている方が、自分の思うような物語を作ることにつながろう。
プレイヤーは、自分の物語を完成させるために、ワードナを倒した後も、ひたすら迷宮に潜り続け、レベルアップをし、宝箱を漁り、そして死んでいく。
現在、ちらほらと見られる「目的のないゲーム」の元祖ともいえよう。そういったプレイヤー側からの補完がなされ、「ウィザードリィ」は完成する。ただ相手からもたらされる情報を消化するだけの、「見せられるだけの」ゲームに比べて、どれほど意欲をそそるものであるか。
「ウィザードリィ」には華麗なグラフィックは存在しない。FC版からは末弥純氏がイラストを担当されている。私は末弥純氏の絵、好きだし、昨年「ウィザードリィ」のCD−ROM画集を買ったくらいなのだが、これは「ウィザードリィ」を決定づけるものではない。昔の「ウィザードリィ」のバブリースライムなんかもあれはあれで味があってよいと思うし、あれでも十分だったのである。
音も絵も、「ウィザードリィ」の要素ではあっても、本質とはなりえない。それらはゲームの、物語の、主役ではないのだから。
4−1 メモリーカードの誘惑。
PS版「ウィザードリィ」に対する不満の原因を探っていくのが本稿の目的であった。それを通じて、「ウィザードリィ」の魅力について考えてみたわけである。
PS版の失敗――私個人にとって、あれは失敗である――、この原因のひとつは、つまるところ、PSというハードを用いたことそのものにある。
メモリーカードの存在である。
カードを用いてセーブ、ロードを行うPSは、そう頻繁にデータの出し入れをするわけにはいかない。結構時間が掛かるものなのである。
当然のことながら、それがために、オートセーブをもっぱらとするハードモードが実現されなかった。
テレポートしても、ロストしてもセーブデータから復活できる「ウィザードリィ」は、その魅力を大幅に減じてしまったのだ。たとえロードしてやりなおしなどしないと心に決めても、「いざとなったら」と心に思うのを止められはしないだろう。
結果として、興を削がれることになる。戦闘の恐怖、罠の恐怖、エナジードレイン、生還できないかもしれないという恐怖、ロストへの恐怖、そういったものがすべて帳消しになってしまった。
これが、PS版失敗の原因の一である。
4−2 ガイドブックの限界線。
もうひとつ、私がPS版に不満を感じた要素を挙げることができる。これを外してはならないだろう。
美術館と博物館の存在である。
その存在意義は理解できる。モンスターやアイテムなどを自由に表示し、コレクションを眺めたいというのは、誰にでもある欲望であろう。それは別にかまわない。なるほど、思い出なりとからめつつ、眺めたいと思うのは自然な感情だ。
では、何がいけないのか。美術館と博物館それぞれに、残りアイテム数と残りモンスター数を表示したことである。
迷宮を探索する目的を「ウィザードリィ」では自ら定めることになるとは前述した通りである。村正を求め、盗賊の短刀を求め、君主の鎧を求め、迷宮をさまよう。どれほどのアイテムが存在するのか。解説本などには書いてあるのだろうが、そんなものを見ない方が楽しめる。もっとあるかもしれない、もっとスゴい宝が眠っているかもしれない。強敵が存在するかもしれない。それは、迷宮を探索する強烈な動機になりうる。
しかし、残りアイテム数、残りモンスター数が表示されたらどうだろう。あくなき探索は、単なるクリアのための過程に堕してしまう。すべてアイテムを集め終わったら、すべての敵を倒したら、そのことがはっきりしたら、それでも続けるだろうか。
美術館と博物館は、その数字を表示することによって、迷宮の奥に限界をこしらえてしまったのである。
欲しかったのは、思い出にひたるためのアルバムであって、どこになにがあると詳細に示すガイドブックではない。
ユーザーに親切であれとし、未知への探索に道標をつけてしまったのが、PS版の失敗であったと思える。
5.ワイヤーフレームの向こう側
「ウィザードリィ」は、プレイヤーに協力を要請するという意味では、親切ではないかもしれない。
だが、プレイヤーを置き去りにするよりもよほどいい。何故ならば、ゲームというのはあくまでもプレイヤーが参加して成り立つものであるからだ。もちろん、「観戦」という言葉も存在するが、やはり自分でやった方が面白いということもある。
RPGは観戦モードよりも参戦モードが確実に面白い類のゲームだ。「ウィザードリィ」は冒険の目的、スタイル、主人公のイメージまでもプレイヤーに委ねる。それは古きパソコンの時代であったればこそだったのかもしれないが、今でも十分通用する手法だろう。
プレイヤーはその世界に没入する。そして、ディスプレイの中に広がる世界に潜っていくことになる。単調な戦闘、単調な探索の中で自分で物語を紡いでいく。
ワイヤーフレームの向こう側にひそむ何か、それを越えたところにある何かを目指す。生と死、栄光と挫折、そしてそれらの枠でくくれない何か。それは未知のものであり、闇の中にあり、我々の想像力をひたすら刺激するものだ。我々は考える。各々が考える。そこにはプレイヤーの思考、好み、空想、人生観そういったものまで当然反映される。我々が見るのは、人間のドラマであり、人間そのものなのであろう。
それゆえにこそ、「ウィザードリィ」はプレイヤーひとりひとりの物語を生むゲームになったのである。
P.S.(プレイステーションにあらず)
この文章の根幹は、ずいぶん前に考えていたものである。
これを書いてる時期、ゲーム雑誌を立ち読みしたところ、SFC書き換え用ソフトとして「ウィザードリィ1.2.3.」が発売されるという記事を発見して愕然とした。バックアップカートリッジである。セーブに時間がかからないのである。
ふと思い返してみるに、私のSFCは、現在弟とともに沖縄にある。買うべきか、買わざるべきか、それが問題だ。いや、SFC本体を、である。ソフトに関しては、決まっている。機会を見て必ず買うことになるだろう。結果、FC版、PS版、SFC版が揃うことになる。あとは、PC版だけか?
とまれ、期待してハズれようが、「ウィザードリィ」がかつて体験させてくれたものを、再び手に入れるべく、また私は奥深い迷宮に入っていくのだろう。
ワイヤーフレームの、迷宮に。