天使とミルクと研究室
天野 景
1.その進路[Milk and Water]
児玉望は困っていた。とにかく困っていた。
K大文学部棟201号教室、後ろから三列目の中央。彼女は椅子に座り、ペンを手元でくるくる回しながら困っていた。
机の上にあるのは、一枚の紙。
文学科研究室志望予備調査票、とある。
一年次の後期、一月に行われるこの調査は、二月上旬に提出しなければならない志望書の前振りだ。
K大文学部生は、二年次から研究室に所属することになる。そのため一年のこの時期に志望を提出し、三月下旬には所属研究室が発表される。研究室に よって研究分野が違うし、雰囲気も違う。途中変更はきかないため、この選択が残りの大学生活の行く末を決めるといってもちっとも大げさではない。
志望書には第六志望まで記入することができる。予備調査も同様の形式で行われる。
児玉望が所属するK大文学部文学科には、研究室が七つあった。志望書に書かない研究室はひとつだけということだ。
七つあっても、人気と定員はまったく異なる。常に二倍以上の倍率を誇るAクラスの研究室、年によって倍率が上がったり下がったりするBクラス、毎 年のように定員割れを起こすCクラス。
定員を越える学生が集中した場合、一年次の成績で選抜されることになる。その成績は、すでに終わった前期試験と、もうすぐ、一月下旬から二月上旬 にかけて行われる後期試験で決まる。志望書はテスト期間終了直後段階で提出しなければならない。つまり、きちんとした成績が出ていない時期に内容を決めな くてはならないのだ。Aクラス狙いだとその辺りの駆け引きが微妙になってくる。成績が思わしくないと、とてつもない結果となる可能性が出てくる。
例えば、第一志望からAクラス、Aクラス、Bクラス、Bクラス、Bクラス、Cクラス、と書いた場合。最初のAクラスを落ちると、次のAクラスには まず入れない。そのAクラスを第一志望にした学生で埋まっているためである。とすると、三番目のBクラスに落ちる。ところがここはここで、第一志望、第二 志望に書いてくれた学生を当然すでに選んでいる。また滑る。以下、どんどん落ちた挙げ句、成績が悪いと最後の方にまで滑ってしまう結果になりかねない。下 手をすれば、まったくドイツ語を習ったことのない学生が、ドイツ語やドイツ文学専門の研究室に配属されたりするのだ。
予備調査は、年度によって多少変動のある学生たちの嗜好を確かめるためのリサーチである。予備調査で倍率が異常に高くなったところだと学生も考え る。あえてAクラスを諦め、Bクラスを第一志望に持ってきたりする。が、同じようなことを考える者が多い場合、あまり成績がよくなくても、Aクラスに当選 する者が出てくる。「逃げる」学生が多いせいだ。そこで研究室を変更して悔やむ者も現れる。残りの大学生活を楽しく過ごせるかどうかがこの時期にかかって くるだけに、水面下で様々な駆け引きが行われることもある。
「望ちゃん、まだ決めてないの?」
望は顔を上げた。鈴木香織だった。四月、たまたま隣の席に座ったことから仲良くなった学生だ。望はあまり友達を作るのが得意ではないのだが、鈴木 香織はおおらかで誰とでも付き合うことができる。性格はあまり似ていないが、意外に気が合った。
「ん」
先刻まで教授たちによるガイダンスがあっていたのだがそれも終わり、他の学生たちは皆予備調査票を書いて提出し、退室している。休み時間というこ とで廊下のざわめきがひどい。
「鈴木は、どこを志望したの」
「第一志望は、村雨研究室」
ふくよかな顔をほころばせ、鈴木香織が答える。言葉にするのが楽しいようだった。
村雨研、と望は口の中で繰り返す。たしか神経質そうな教授が説明をしていたっけ。
「光ちゃんはもう帰ったの」
鈴木香織は周りを見渡した。教室内にいる学生の数は、かなり少なくなっている。
光、というのは、望の双子の姉だった。高校は違ったのだが、今は同じ学部、同じ学科に所属している。
「ああ、幼稚園に弟を迎えに行かなくちゃいけないんでね。それにあいつは、研究室もう決めてるみたいだから」
児玉光は昔から日本の古典文学に興味があったらしい。望にはその感覚がちっとも分からなかったが、光はさっさと国語学や国文学を専攻する荒川・井 上研に決めたようだった。荒川教授は日本中世文学の権威として有名な人らしく、光は彼に教わることを目当てにK大文学部を志望したと聞いている。
一方、望は、何となく文学部にやってきた。中学のときにバスケ部を辞め、以来、趣味といったら読書になってしまった。その延長上で文学部に入学し たのだ。
たしかに読むこと自体は嫌いではない。しかし、「嫌いではない」と「好き」の間には少々隔たりがあったし、積極的に研究分野に選ぶとなると、まっ たく別の問題になってくるような気がする。ただだらだらと好きな本を読み散らかすのが、望は好きなのだ。研究、勉強、という言葉でくくられたくはない。
そのため、いざ研究室を選ぶということになるとためらいがあった。自分が何をしたいのか、分からないのである。
「明日から研究室訪問が始まるでしょ。一緒に行かない?」
研究室訪問は、各研究室が時間をいくつか設定し、文字通り学生たちが訪問するという形を取る。ガイダンスで話されなかったことを聞けたり、先輩学 生に会えたり、研究室の雰囲気を味わえたりできる、貴重な時間である。
「ま、考えとくよ」
望は予備調査の紙に適当に思い付いた研究室の名前から書き、立ち上がった。光や鈴木香織、あるいはさっさと退出した他の学生たちに比べて、何だか 自分がひどく薄っぺらい人間に思えて仕方がなかった。
2.その日々[Cry over spilt Milk]
児玉望は、バスケットをしていた。幼い頃からやっていたそれを辞めたのは、中学のときのことだ。
理由は二つ。自分自身の理由と、家庭の理由だった。
彼女が通っていた蔵武中は、毎年、隣町にある蔵ヶ丘中、通称「ヶ丘」と対校試合を行っていた。両校は直線距離にして三百メートルも離れていなかっ たのだが、間にK市の市境があり、蔵武中学略して蔵中が町立、ヶ丘は市立。生徒だけではなく、教師の間にも対抗意識があった。
男子バスケットはヶ丘が優勢で、女子バスケットは蔵中の方が強かった。現に望がレギュラーになった一年のとき、蔵中はヶ丘に圧勝している。
問題は二年生のときの試合だった。
望は小さい頃からずっとバスケをやってきた。経験を積み重ねてきた、といっていい。ゲーム慣れもしているつもりだった。一年生でレギュラーにもな れたし、二年生でキャプテンにもなった。背はちょっとばかり低かったが、それを充分に補うスピードと技があった。シュートの成功率も高かった。
はずだった。
試合にいつも通りスタメンで出た望は、ひとつの壁に行き当たる。ヶ丘で新しくレギュラーになった選手。この選手が、ことごとく望の活躍を邪魔して いった。フェイントは読まれ、速攻はつぶされ、シュートは止められ、といいところなしだった。
相手のスピードは、望とほぼ互角。技も同様。ただひとつ、明らかに背丈だけが違っていた。
その選手の名を、後になって望は知る。
ヶ丘中の板崎。
前半に板崎のマークを外そうとあがいたために、望の体力は後半底を突いていた。
ドリブルをする。目の前に板崎。右、左、どちらに走っても、止められる気がした。かといって、パスしようにもコースがつぶされている。味方を探す 余裕さえ、望にはなかった。ほんのわずかのためらい。すると次の瞬間、板崎は望のボールを鋭い動きでかすめ取っていく。そのまま板崎はコートを走り抜け、 得点する。
望のプライド、望の積み上げてきたもの、すべてが木っ端微塵だった。
試合は惨敗。
そのとき、いかに自分が無力なのか、薄っぺらい人間なのか、望は思い知ったのだ。ふと自分の中を覗いてみたとき、何もない、空っぽの穴がぽっかり と空いている、そんな感じだった。
背丈が足りないせいだ。そう、中学生の望は判断した。成長期にもかかわらず、彼女の身長はほとんど伸びようとしなかった。同じ遺伝子を持つ双子の 姉は、このときすでに彼女よりも頭半分ほど高くなっていた。
だから、ミルクを飲んだ。
それこそ親の敵のように、ひたすら朝昼晩。給食のときなど、余っている牛乳を残さずもらって片っ端から飲んでいた。家では親が心配するくらい水の ように飲み、冷蔵庫からは望専用の牛乳パックが毎日消費されていた。
ミルクを体内に取り込むことで、成長を促そうとしたのだった。次にやったときには、板崎に負けたくない。背が伸びれば、板崎に並ぶことだってでき る。
単に背が足りないというだけで負けることは、彼女にとって不条理だった。納得がいかなかった。あの壁を越えてやる。その一心だった。
結果、児玉望は身体を壊した。おそらくは牛乳の摂り過ぎと、過激すぎる練習のせいだったろう。
児玉望の母親が死んだのは、ちょうどそんな時期だった。産後の肥立ちが悪かったせいだ。望の認識では、母親がいなくなり、代わりに猿のような小さ な弟がやってきた、というだけのことだった。
母が死んだとき、姉の光は、ひたすら泣きじゃくっていた。父にすがり、望を抱きしめ、ただ泣いていた。
望は泣かなかった。ただ、傷ついた。まるで世の中の仕組みがすべて裏返ってしまったような、裏切られたような気分だった。それは不条理で、彼女に はどうしようもないことで、どうしようもないだけに、いかんともしがたかった。
ミルクを飲まなくなったのは、身体を壊したということもあったが、ひょっとしたら心のどこかでミルクが乳臭い弟に結びつき、それが死んだ母親を連 想させたのかもしれない。望が心のどこかで、母を失ったこと、世の中に裏切られたことの原因を、生まれたばかりの弟に押しつけていたのは否定できない。
父は、小さな息子を含めた子どもたちを食べさせるために、働かなければならない。望と光はまだ義務教育期間中。翼と名づけられた息子は乳飲み子。 皆で支え合って生きなければならない。母親という柱が抜けただけで、望の役割はまったく変わってしまった。
望は中卒で就職をして少しでも負担を軽くしようと思ったが、他ならぬ父に反対された。「アホか」と一蹴し、学生は学生らしく過ごせ、といつになく 父は強気に出たものだった。
父が働き、望たちが学校に通っている間、世話をしてくれるような親戚もいなかったため、ベビーシッターを雇った。ベビーシッターは、姉妹が帰って くると、入れ替わり。望と光は交代で食事当番、洗濯当番、掃除当番等々決め、律儀に守っていた。帰りに買い物をしてくるのも、当番制だった。
学生らしく過ごせ、といわれたものの、どうしても家族との生活の中に自分を埋め込まねばならなかった。だからだろう。自然、学校と家、近所のスー パーを往復する日々が続いた。
児玉望は、部活を辞めた。
もう、板崎と再対決することも諦めた。もっと大きな不条理の壁があった。短い時間をやりくりして、生きていかなければならない。支え合っていかな ければならない。そのためには、切り捨てなければいけないことも多々あった。部活も板崎との対決も望の中ではそういったことに含まれた。
そんな状況でありながらどうにか高校受験もクリアし、望と光は初めて別々の学校に通うことになった。環境が変わっても、家族は変わらない。望は部 活をしなかったし、光も同じだった。運動部になど入ったならば、どうしても時間を拘束される。そうなれば、小さな弟の翼はどうなってしまうか。
家事や世話があるため、望が自由に使える時間は有限だった。勉強は学校の授業時間を中心に。家に帰ったら家事をやらねばならない。プライベートの 時間には、予習復習をするか本を読んでいた。
やんちゃな弟のせいで、家に帰って勉強が落ち着いてできないこともあった。憎らしく思ったこともある。
ある夕方、学校から帰って勉強をしていた頃に、翼に邪魔をされたことがある。高校三年のときだった。受験生ということで、ストレスが溜まってもい たのだろう。翼を思わず怒鳴りつけた。翼は一瞬、きょとんとした表情だったが、すぐに泣き出した。一向に泣きやまないのが苛立たしく、つい望は翼を叩いて しまった。一層翼は声を張り上げて泣く。悪循環だ。憎たらしくて仕方がなかった。
何故、自分はこんな目に遭わなければならないのだろう。
他のみんなは、勉強をしてるし、遊んでもいる。
何故、自分はみんなと違うのだろう。
その日、望は家を飛び出した。帰ったのは、夜もずいぶん遅くなってからだった。
望は生きることに疲れていた。何をしても空しく、生きていることが不思議でならなかった。
それでも家に帰ったのは、彼女の居場所がそこにしかなかったからだ。
怒りに駆られようと、恨みに思おうと、それでもそこにいる人々は、家族だった。
翼が幼稚園に入る頃、望と光は同じ大学の同じ学部に入学した。
驚いたことに、入学してからかの板崎と思わぬところで再会することになる。板崎は隣の学部に入っていた。しかも大学も後期になる頃までには、しっ かりお友達になっていた。一方的にライバル視していたのは望の方だったが、板崎の方はそれほどでもなかったらしい。だけでなく、板崎は望を、自分の所属す るバスケサークルに入らないかと誘ってくれてさえいた。
もう一度バスケを始める、という誘惑には心揺れたが、弟はまだ園児なのだ。見ておかないと何をしでかすか分からない。母親代わりとしては過保護な のかもしれなかったが、あっけないほど人が簡単に死に、世界が変わることを身を持って望は知っている。何か起こってからでは遅いのだ。バスケをやる余裕は なかった。今のところは。
板崎に対する個人的感情はいつの間にか解決してしまったものの、どうにも空虚な感じは否めなかった。いったい、あの日々は何だったのか。板崎に負 けたときに感じた不条理さの壁。母が死んだときの。弟が夜泣きしたときの。弟を叩き、家を飛び出し、すべてに絶望していたときの。
あれから自分がどれくらい成長したのか、望には分からない。板崎との再会から九ヶ月近くが過ぎようとしているが、望はミルクを飲めないままだっ た。
3.その研究室[It's no use crying over spilt Milk]
児玉望は、一歩村雨研の中に入るなり、困惑した。
先客がいたことにではない。研究室の天井からぶら下がったものがいきなり視界に入ってきたからである。
天井からリボンによって下げられているのは、小さなぬいぐるみたちだった。クレーンゲームなどで取れるようなタイプだ。アニメのキャラクターやペ ンギンやらが宙を泳いでいる。リボンの位置が悪い人形は逆さ吊りになっていたり、首をくくっていたりもしている。一際目を引くのは、天使たちだった。六、 七つの天使たちが円を描くようにしてぶら下げられている。円の中心でゆっくり揺れているのは、どうしたことか巨大なマンボウのぬいぐるみだった。
ぱっと見、変な光景だった、といってよい。
呆然としていると、後ろから押された。鈴木香織だった。結局望は、香織とともに研究室訪問をすることにしたのだった。村雨研に来る前、引きずられ るようにして別の研究室も訪問した。その荒川・井上研には光もいて、一緒に説明を聞いたのだが、どうにも、そこは図書館のように少し暗く、堅苦しい雰囲気 で好きになれなかった。
それに比べると村雨研は採光はよいし、雰囲気は変だし、でまったく異なっている。これはたしかに訪問してみなければ分からないことだ。
「ありゃ、のぞみんにしーちゃん」
声をあげたのは、先客のひとりで、茶園朋美。他に茶園と同じ高校出身の二人がすでに来ていた。三人は、スペースの中心にあるテーブルの反対側に 並んで座っている。その後ろにはパソコンが二台。隅っこには、電子レンジを載せた冷蔵庫があった。部屋が暖かいのは、入ってすぐ右手に大きな電気ストーブ が鎮座しているため。冷蔵庫の隣、食器棚の上に置かれたCDラジカセからは、どこかで聞いたような曲が静かに流れていた。しばらく考えて、望はそれが 「ゴースト」という映画の主題歌であることをしばらくして思い出した。
募集定員六人の研究室はそれほど大きくはない。ドアは部屋の左隅にあり、右手に研究室が広がっているのだが、その半分ほどは本棚で埋め尽くされて いるので、端っこから入った気がしない。本棚は、雑多な本で埋め尽くされている。古文、漢文、ペーパーバックに雑誌、文庫本、写真集、辞書類などもあって カラフルだった。
本棚の辺りを見ると、研究室っぽいのだが、よくよく見ると本の種類がばらばらでカタい本から怪しげなものまで揃っている。全体として見ると、ぬい ぐるみの群もそれほど変には見えないのが、不思議だった。無秩序な感じに統一されている、とでもいうような。
入り口から見て左の壁には黒板があり、その前に村雨教授が座っていた。望たちの方をちらり、と見ると、入るように促す。
他に二人ほど、研究室内には人がいた。ひとりは茶園からひとつ離れた席でフランス語の辞書を引きながら、ノートに書き留めている女子学生。
もうひとりは、望のすぐ右手、水道があるところで鼻歌混じりに大量のカップを洗っている髭面の男。鼻歌が、ベートーベンの第九であることに、望は 気づいた。変な人、と素直に思う。
この時間帯の訪問者は、望、鈴木香織、茶園ら三人組の、全部で五人だけのようだった。どうやら、すでに他の時間帯に訪問をすませている者が多いら しい。それは、村雨教授が回した訪問者リストに記名するときに明らかになった。文学科七十人のうち、五十人近い学生が、話を聞きにすでに訪問しているの だ。さすがはAクラスの研究室だった。
「こないだ話したことがほとんどなんだけれど……」
と前置きして、村雨教授が説明を始める。神妙な顔をして新入り候補たちが教授の顔を見つめる。いくつか補足説明や質疑応答の後、
「この研究室では、自分の好きな分野のことを、まあ、研究できる。それは他の研究室みたいに、分野が限定されているわけじゃないから、面白い。で も、それは諸刃の剣なんだよ。最後は自分ひとりなんだからね。他の人は手助けをしてくれるかもしれない。でも、最後の最後に決めるのは自分なんだ。好きな ことをしていい、となったら、まず何をするか、自分で選ばなければならない。だから何をしていいか分からず途方に暮れる学生もいる。選ぶ、という行為は自 分のものだからね」
たしかにその通りだろう、と望は思った。自分なんかも、とまどってしまうのではないか。
「それでも、ここに来て、自分の言葉で何かを語りたい、と思った人は来てほしい。自分の責任で、自分の考えで、自分の言葉で、ここは何かをするとこ ろなんだ。結局、うちの芸風はここに着くと思う。これはそこにいる中田先輩がまとめてくれたものなんだけど」
教授はカップを洗っている髭面の学生を示してから、過去の卒論のリストを配った。見ると、音楽をやっている者、文化史をやっている者、絵画関連の 芸術、あるいは哲学、思想、宗教、文学、語学、マンガ、推理小説、SF、ファンタジー、雑誌の変遷、様々だった。国別や地域別に分けても、日本、中国、台 湾、インド、アメリカ、南米、ドイツ、イギリス、フランス、イタリア、デンマーク、アイルランドにポーランド。時代なら神話の時代から古典、中世、近代、 現代まで雑多な感じで並んでいる。一言でいえば節操がない。しかし、みんな好き勝手にやっている、という感じが、無機質なリストから滲み出てくるようだっ た。
ひょい、と村雨教授は立ち上がり、カップを洗ってる男に、一声かけた。
「じゃ、中田、あとよろしく」
それから望たち一年生を振り返る。
「後は、この先輩たちがいろいろと話してくれるでしょう。学生からの視点や体験談の方が、きみたちの参考になるだろうし。ああ、あと最後にもうひと ついっておくと、どこの研究室でもそうだけど、最終的に僕たちが学生を選別するときに基準にするのは成績だからね、後期試験は頑張ってほしい」
そういって、村雨教授は研究室を出ていった。
中田、と呼ばれた男は、水をやかんにたっぷり注いで、コンロに火を点けた。
「さて――」
もったいぶった声を出す。
「何を飲むかね、諸君」
「中田氏、私、ダージリン」
フランス語を勉強していた女が顔を上げないまま、素早く手を挙げる。
ちょっと間を置いて、
「俺はコーヒーを下さい」
「紅茶をお願いします」
三人組の塚本と島田。
「あたしは――」
「却下」
茶園の言葉を、中田が遮る。
「何で〜」
「お前、絶対ろくでもないこといおうとしただろう。そういう目をしてた」
「にゅ〜」
こっそり島田が望に耳打ちしてくれたところによれば、中田は、島田らが入っているサークルの先輩なのだという。その縁で、研究室にもこれまで何度 か顔を出したそうだった。
なるほどサークルに入っていればそういうこともあるのだな、と望は少し感心した。部活は中学で辞めたきりなので、あまり先輩後輩、ことに自分の進 路をアドバイスしてくれたり、話を聞いてくれたり、紹介してくれたりという関係には縁がなかった。
「茶園、お前白湯決定」
にやにやしながら中田がいい、茶園が頬を膨らませる。
「そっちの二人は? 遠慮はいらんよ」
「そうそう。ここは学科の喫茶室だから。他の研究室からも飲みにくるくらいなんだよ。中田氏、お茶淹れるのうまいしね。あ、私はこれと同期で三年の 藤崎。よろしく」
ノートから顔を上げて、女がいった。中田が肩をすくめる。
「……というわけだ。何がいい。紅茶、緑茶、玄米茶、コーヒー、ココア、いろいろあるよ」
「私は玄米茶がいいです」
鈴木香織が答えた。中田が目で問いかけてきたため、望はコーヒーと答えた。
「おっけーおっけー」
それぞれの準備をしながら、中田は話し始めた。人数分の、洗ったばかりのカップが賑やかに鳴る。
「先生がいってたように、たしかにうちは好き勝手なことはやれる。その結果、みんなばらばらなことをやるから、それぞれに刺激し合えるんだな。自分 がやっていることとまったく関係ない分野から、教えてもらえることがある。たとえば俺は神話が文学に及ぼす影響、みたいなもので卒論書こうかと思ってるん だけど、国文系やってるやつから日本におけるギリシア神話の受容形態とか教わったりしたした。神話は現代文学にも当然影を落としてるからな。それぞれやっ てる作家なり文化なりでどういう形式を取っているか、聞いてみる中で発見したりもする。逆に自分のやっていた研究が、違う人の役に立つこともある。お互い に磨き合える。授業でも、周りにいる連中の意見を聞いてれば、物事のいろんな側面が見えてくるし、思考に幅も出てくるわな」
「そうね」
と賛同したのは、藤崎と名乗った女だった。彼女は後期試験のために追い込みをしているところらしい。
「私は越境文学ってのをやってるけど、この中田氏のやってる神話のことなんか聞くと、勉強になるのよ。越境文学って、分類的には近代以降なんだけ ど、神話はそういうもの吹き飛ばすみたいなとこがあるから。国境って境がなかった頃からものもあるしね。他に村雨先生の授業なんだけど、1930年代に関 するものを発表する演習があったの。みんな発表する内容が違ってて、日本でこんなことがあってるとき、フランスではこういうことが起こってて、そのとき南 米では、とか勉強になったよ」
にやり、と中田が笑った。
「こんな感じで、お互い刺激し合えるってもんだ。だけど、そうなるためには、自分を確立しなくちゃいけないわな」
やかんの具合をちょっと見て、中田は続ける。神妙に望は聞いていた。
「うちの研究室は、他の研究室と違って、自分の意見を重視する。他人が、偉い先生だろうと何だろうと、いってたからって、それを鵜呑みにするととん でもないことになる。誰それがいってたからって、絶対に正しい、とは限らないし、ホントに納得、理解できてるかっていったら別問題だろ。意見に賛成すると しても、自分なりの分析をした上でなければ、先生のツッコミに耐えられないしな。村雨先生のツッコミの厳しさは、学部一だからね。毎年泣くやつは必ず出て くるくらいさ。俺なんか、ツッコミを丸々一時間食らって、汗だく、疲労困憊したことがあったよ。けど、その分鍛えられる。一年経てば、まったくの別物にな るさ」
そういって、中田が体験談を披露する。中田は今年度の前期、村雨教授の講義を受けた。これは他の研究室からも二十人以上が受講していた。教授は与 えた課題図書について毎回意見をいわせる。このときに当然ツッコミを入れたりするのだが、中田ら村雨研の者には「他の研究室の学生にはさすがの先生も甘い 甘い」としか思えなかったツッコミだったのだが、耐えきれなくてみるみる受講生が減り、前期が終わる頃には他研究室の学生は数人になったという。
「そんなあとがきに書いてありそうなことじゃなくてさ、結局君はどう思うわけ?」
「んー、よく分からないな。もう少し他人が理解できる日本語でいってみてくれない?」
テーブルをこつこつと叩きながら、中田がいった。教授の真似らしい。
「これが村雨研相手ならさ、『結局何がいいたいわけ?』でバッサリ。『せめて中学生程度の日本語でまとめてくんない? 大学生になって、年々馬鹿に
なっていってどうするの。君たち、小学生くらいのときの方がまだマシだったんじゃないか』『他人とまったく同じ言葉しかしゃべれないんだったら、あえて君
が加える必要ある?』だもんな」
「そうそう」
と藤崎が頷く。これまた教授の真似なのか、ボールペンをくるくる回しながら、
「『……といわれているって、一体誰がいってるわけ』『らしいって、推測でいわれても困るんだよ』なんてね。発表とかでも、一時間以上ツッコミ続けて、そ
の挙げ句、『じゃあ、来週また最初からやって』ってパターンもあったよね」
「あったあった」
中田が笑った。
「逆に発表がなってないって、四十五分の持ち時間を十五分で強制終了させられて、別の人の発表が繰り上がったりでパニック起こったり。課題研究指導っての
があって、各学年、発表が近づくとみんな必死だったな」
「あたし、二週間で相当痩せたよ、課研ダイエットだね」
望は何となく部活を連想した。それからやや神経質そうな村雨教授を。
さらに体験談が続いたが、厳しい話や勉強の話ばかりではカタすぎると思ったのだろうか。授業中の馬鹿話、研究室でのエピソードが披露される。
村雨教授の授業を学年全部ですっぽかして海に行った話。
村雨教授がまじめな顔をして椅子に座った途端、背もたれが崩壊してひっくり返るという事件が一週間に三度も重なった話。
研究室の強力な電気ストーブで焼き芋を焼いたのはいいが、同じ階中に臭いが広まって怒られた話。
研究室で行われた落ち物ゲームの大会をこっそり開いているところへ村雨教授がやってきて、特別参加になった話。
研究室の合宿で中田たちの代が推理劇「村雨研殺人事件」を行い、このときのために直前に髭を剃って眼鏡をかけた中田が毒殺される教授を怪演し、 「誰だよ、俺を殺したのは」と観客だった当の村雨教授を苦笑させた話。
そういったものがいくつか公開されるうちに、望を含め、一年生たちはずいぶんリラックスしてきた。これは中田や藤崎の話が面白かったせいもあるだ ろうし、彼らがあけっぴろげに研究室のいいところだけでなく、少々厳しい面を見せたせいもあるだろう。
「うちに来る連中はみんな、他の研究室ではやっていけないようなアウトサイダーが多いんだな。そういう人、自分で何かやりたい人には、うってつけの 場所じゃある。上下の仲もいいし。もし壁にぶちあたって行き詰まったとしても、周囲からの助けがあるしな。壁を乗り越えるのを下から支えてくれたり、横に 抜け道がないか一緒に探してくれたり、ぶち壊すためのハンマーを貸してくれたり。うちは結局、スペシャリストの集まりに近い。だけど専門馬鹿じゃない。い ろんな考えや立場が世の中にあるってことを知ってるし、足りない部分を補い合える仲間がいるし、全体でオールマイティになれればいいんだ。しかも好きなこ とやりながらな」
と中田がまとめる頃には、やかんがしゅんしゅんと音を立てていた。
ラジカセにかかっていたCDは、いつの間にか一回りしたらしい。「ゴースト」のテーマがまた流れている。
コーヒーや紅茶や玄米茶が準備される間、望はここで聞いた話を反芻していた。天使のぬいぐるみがぶらさがっている研究室。喫茶室、と呼ばれた研究 室。自分を磨き、他人を磨き、他人に磨かれる研究室。
自分で何かをやる、というのは魅力的なことだ。しかし、望はずっとそれを放棄してきたような気がする。少なくとも、胸の空虚さを抱えるようになっ てから、積極的に何かに取り組んだり、我を出したりすることはほとんどなかったように思う。
磨かれる、と教授も中田もいった。磨かれるためには、まず自分を磨かねばならない。
「先輩」
自然、口を突いて出た。
「ん」
「何をしたらいいか分からなくても、ここに来ていいんですか。やっていけますか」
湯を注ぐ手を止め、中田が望を見つめる。
「そういうやつも結構研究室に来るよ。藤崎嬢とかはわりかしテーマが決まってたけど、俺なんかばらばらでね。今でこそ文学における神話、みたいなこ とになってるけど、二年で入ってきたときは、現代ファンタジーだったよ。毎年専攻内容を変える人もいるし。入ってきたときにテーマが決まっていなかったか らといって、びくつくことはないって。教授だって先輩たちだって周りの学生だって助けてくれるさ。何をしたらいいか分からなかったら、好きなことからとり あえず始めてみたらどうかな。そこからやっていくやつも多いし、あるいは、ここで磨かれていくうちに、何かを見つけることだってできるさ」
カップに注がれたコーヒーが差し出された。
「こっから始めてみな」
何だか、望はじんときた。
少し沈黙が下りた。
「中田氏、あんましシリアスは似合わないよ。あ、そうだ」
藤崎の明るい声で、沈黙がほどけた。
「へっへー、今日は私がお茶菓子買ってきたよん」
ごそごそと机の下から箱を出す。
「じゃーん」
色とりどりの七個のショートケーキ。全部種類が違う。数がきっちりなので、教授がいたときに出さなかったらしい。
「藤崎嬢、後でレシート出しとけよ。研究室費で落とすから」
「はいはい、会計様」
「好きなの取ってよ」
中田は他の一年生にもそれぞれの飲み物が入ったカップを配る。茶園はカフェ・オ・レだった。
「ミルクと砂糖は適当に入れてくれ」
中田が砂糖壷とミルク、それから箸入れ等の乗った盆を押しやった。
「……じゃあ、ミルクを」
望は、ミルクを手に取った。何となく、そういう気になったのだ。ここから始める、という言葉に刺激されたのかもしれない。最初の一歩を踏み出さな いと、どうにもならないことというのはある。
ミルクをコーヒーに垂らす。白いミルクは細い渦を巻いていく。きれいだ、と彼女は思った。コーヒーは次第に色を変えていく。こうやって、胸の隙間 も少しずつミルクを注いで埋めていけたらいいのに、と思った。
4.その心[the Milk of Human Kindness]
児玉望は愛車の車体を傾け、角を曲がった。ブレーキを掛ける。それだけでは足りずに、両足を使って、赤い自転車を無理矢理止めた。
幼稚園の前。
研究室訪問が終わり、望は村雨研を出た。食べたケーキも飲んだコーヒーもおいしかった。学食にでも行って駄弁らないかという茶園らの誘いを断り、 望は弟を迎えに来た。
途中で夕飯の買い物もしてきたから、もう夕方近い。園内では迎えを待っているのだろう、子どもたちが砂場や遊戯施設で遊んでいる。
自転車を門の所に止め、中に入った。
探すまでもない。相手の方からこちらを見つけてきた。
「おねーちゃーん」
とてとてと走ってくる園児。手や膝が砂まみれなのは、これまで遊んでいた証拠だった。
「翼、そろそろ帰ろう」
抱きついてきた弟を抱え上げ、洗い場へ向かう。手の中では翼がじたばたしていたが、嫌がっている様子ではない。むしろきゃっきゃっと喜んでいた。
綺麗に手足を洗ってやり、靴を履かせる。
「お世話になりました」
保母らに頭を下げ、門を出た。
「ほら、帰るぞ」
まだ小さな弟を抱え上げると、望は自転車の幼児用後部座席に乗せ、ベルトを締めた。
「おねーちゃん、ばんごはん、なぁに」
「カレーだよ」
あっさりと答え、望は自転車に跨った。風を切って走り出す。幼稚園児くらいなら、大した負担にもならない。翼はまだ幼いのだ。こんなに小さいの に、光り輝いている。私とは大違いだ、と望は思った。やりたいことがいっぱいあっていっぱいあって、仕方がないように見えた。それに比べて、望は時間をこ れまで浪費してしまっていたような気がする。
昔、母が死んだことを、翼のせいのように思ったことがあった。
翼が来たせいで、生活が一変してしまったと思ったことがあった。
翼が負担だと思ったことがあった。
けれど。
今の望には、翼のいない生活など考えられない。翼が初めて言葉をしゃべったときの感動を、彼女は覚えている。家を飛び出した夜、家に帰ってみる と、翼が玄関でタオルケットにくるまって泣き寝入りしていた。「望ちゃんが帰ってくるまで待ってるって、聞かないのよ」出迎えた光が説明した。声を聞いた のか翼は起きて、望を見つけるとまた顔をくしゃくしゃにして謝ったものだった。あのとき、望も泣いてしまった。
翼は、たしかに望から何かを奪ったかもしれない。
しかし同時に翼は、望に様々なものを与えてくれたのだ。
それを望は理解している。
私の天使。
そう、望は翼を呼ぶ。恥ずかしくてさすがに口にしたことはない。内心では、たしかにそう思っている。翼も自分を慕っている。それで十分だった。
すべては、心の持ちようだ。
中学のバスケの試合で、自分は板崎を敵視していた。が、板崎はそうではなかった。むしろ、試合を楽しんでいた、と聞いている。
翼のこともそうだ。
物事にはいろいろな側面がある。そう、村雨研究室で聞いた言葉。だったら、不条理な面、悲観的な面ばかり見ていることはない。
「かれーかれー」
手をばたばたさせて、後ろで翼が喜んでいる。速度にはもう慣れっこだ。光と違って、望はいつも飛ばす。
「翼、カレー、好きか」
少し速度を緩め、望は肩越しに尋ねた。
「すきぃ」
ふむ、と前部の籠を覗く。途中で買ってきたカレールーがスーパーの袋に入っている。買ってきた甲斐があった。
漕ぎながら、研究室のことを思い返す。
悪くない、と思った。ああいう場所なら、また新しくやり直せるかもしれない。
いや。やり直すのは、研究室に入ってからじゃない。今からだ。
前に板崎と一緒にカラオケに行ったときの、伸びのある彼女の声をふと思い出す。
You can find yourself.
君の中にすべての答がある
You can make it, You can make it.
出口はいつも見えない
探し始めた時、見つけ出せる
Just, Way Out!
たしかにそうなのかもしれない。壁にぶちあたっても、そこで止まらず、どうすればいいか考えればいい。何事もやってみなければ分からない。
とりあえず、後期試験を頑張らないといけない。望は、前期試験の成績はあまりいい方ではなかった。村雨研に入るにせよ、他を目指すにせよ、成績が いいに越したことはない。
ここから、まず始めよう。胸の隙間を埋めていこう。
「いい感じ、かも」
ペダルを踏む足に力を入れ、望は翼を背負うようにして、疾走した。
5.その場所[The Land of Milk and Honey]
○○○−L2406 池田 哲信
○○○−L3418 児玉 望
○○○−L3422 島田 京子
○○○−L3428 鈴木亜由美
○○○−L3429 鈴木 香織
○○○−L3436 茶園 朋美
○○○−L3438 塚本 光輝
○○○−L3458 松島 菊華
上記の者は、次年度より当研究室の所属となる。研究室前の掲示板にて、ガイダンス等の日時を追って知らせるので、各自確認しておくこと。以上。
M.Murasame.
B.G.M.‘Way Out’By M.Nagai
Ver.1.5. 2000.5.30.