か う じ の 木 の。
天野 景
初。
かつてロマン派の詩人バイロンと彼の侍医、そしてやはりロマン派の詩人シェリーとその妻がとある別荘に滞在したことがある。有名な話なので聞いた ことのある方もおられるかもしれない。退屈を紛らすため、彼らは物語を作ることを思いついた。怖い話を、ということでひとりひとりが考えることになる。結 果として出来上がったのは、バイロンの侍医ポリドリの「吸血鬼」(後にバイロンの名で発表される)と、シェリーの妻メアリーの「フランケンシュタイン」で あった。
このひそみに倣って、ということだろうか、K大の我がサークル地獄の合宿二日目において、七森部長閣下は、雨で外出できないこともあり、早朝、 「今日中に何か話を一本考えるように」というありがたいお言葉を下された。「この季節に合った話を」というおまけまでついていた。
本作は、その折の話である。
壱。
珍しくもないことだった。人がひとり、死んだだけだ。
弐。
私は大きく伸びをした。とりあえず朝方の激しい雨は上がり、青空が見えている。
他の連中の大半は、塚本、島田、茶園の北高トリオを中心として、体育館で身体を動かしているはずだった。後は、少々体調を崩した後輩小島が横に なっているくらいか。私はどことなく体が怠く、激しい運動をする気にはなれなかった。かといっていい天気になったのに部屋でごろごろしているというのも もったいない。ぶらりと外に出た。
来栖野市猫見にある合宿所。弥勒岳の麓から少し登ったところにあるこの施設は、近隣県の大学が合同で設置したもので、とてつもない宿泊料を提示し ていた。一泊百円、食費は別。K大の近場で一泊するのと、来栖野までの足代を加えてさらに二泊するのがほぼ同じという状態である。しかも、この施設、全室 冷暖房完備である。体育館に、テニスコートにソフトボールができるグラウンドまで付いている。少々山に入ったところにあるが、ちょっと下りたところに来栖 野の市街地があるし、コンビニだってある。車で来る分には何の問題もない。
だが、私たちの他に客は来ておらず、貸し切りだった。客が常に少ないせいだろうか。常駐の人はおらず、猫見でパートに雇われた主婦などが昼間通っ て食事の支度や施設の鍵を貸したりしてくれる。ちなみに合宿所の予約等は別の事務所でやっている。
合宿一日目は、部長の指揮の下、みっちりトレーニングが行われた。部員は皆へとへとになり、わずかな休息を挟んで、夜の飲み会に入った。
私は、もう一度大きく伸びをした。昨日の酒はもうすでに抜けているが、疲労は少々残っているようだった。こういうときには散歩でもしてリラックス した方がよい、と経験上私は知っていた。
外に出ると、弥勒岳がよく見える。名の由来は弥勒信仰に由来していて、土地の伝説では、かつて活発に活動していたこの山の煙に乗って兜率天へ昇る ことができ、弥勒菩薩が釈迦入滅後、5,670,000,000年の後、修行を終えて衆生救済のため、ここに降り立つのだという。これは合宿所に置いて あったパンフレットの受け売りだ。
私の車とレンタルのワゴンしかないがらがらの駐車場を抜け、散歩することにした。
途中、猫の姿を見たようにも思ったが、気のせいだったらしい。実際、猫見、という地名に相応しく、ここいらには猫が多い。合宿所にも住み着いてい るようで、妙に人に馴れている。昨夜もちょっと餌を与えてみようかとしたくらいだ。
歩いていると敷地の入り口で、森山が地図を片手に山を眺めているのにぶつかった。サークルの同期だ。
「やあ、ブンメー」
こちらに気づくと森山は片手を挙げて挨拶をしてきた。
「これからちょっと弥勒岳に登ってみようかと思ってるんだけど、一緒にどうだい」
私は森山の顔と弥勒岳を交互に見た。
空は朝の雨が嘘のように晴れ上がっている。まだ道は少し濡れていたが、登山道があるのなら問題ないだろう。すでにここは弥勒岳の途中にあたる。弥 勒岳は二つの山頂からなっている。ひとつは我々がここへ来る途中通った猫見峠と呼ばれる低いもので、もう一方が通常弥勒岳といわれるものだ。猫見は、猫見 峠と弥勒岳の間に広がっている形だ。昨日合宿所の人が説明してくれたところによると、ここから山頂までせいぜい片道一時間半もかからない。感じている少々 の疲れくらいは、山の景色などが消し去ってくれるだろう。
「それもまた一興」
私は承諾し、二人して弥勒岳に入ることになった。
参。
私と森山は弥勒岳に入り、二時間後、きっちり道に迷っていた。
四。
もし本当に危険なことになれば、私が持っている携帯電話で救助を要請することもできる。電波が届くことは確認してある。
「とりあえず、歩いてみようか」
どんなときにもめげない森山がにこやかにいう。
私は苦笑するしかなかった。
「それもまた一興か」
とりあえず道はあるのだ。迷っただけで。どこで間違えたものやら見当もつかなかった。枝分かれするような道が多かったせいだ。だが、森山を見てい ると、歩けばどこかに到着できそうな気がしてくる。
朝方から感じていた怠さは、次第に重いものになっていた。おそらく、この「散歩」の疲労も上乗せされているのだろう。しかし、耐えきれないほどで はない。
森山の気楽さが伝染したのかもしれない。
まだ日暮れまで十分に時間がある。猫見峠の位置を確認し、そこから大雑把な位置を割り出し、おおよその方角を覚えて、私たちは歩き出した。
その結果、何やら寺のようなものを発見した。
五。
「誰かいませんかあ」
能天気な声にやや疲れをにじませ、森山が尋ねた。
返事はない。
とりあえず水でも飲ませてもらえないものかと私たちは、境内に入った。
あまり繁盛しているようには見えない。山の上にあるし、そこまでの道があまり整備されておらず、分かりにくいからだろうか。草はあちこちで茂みに なっているし、本堂の屋根は瓦が何枚も落ちている。ついでにいうと、障子も破れている。本格的な冬になったら、さぞ寒々としたものになるだろう。冬枯れの 中にある寺を思い浮かべ、それもまた一興かもと考えた。
「おい、ブンメー来てみろよ」
森山が建物の横で呼ぶので行ってみた。そちらに誰かいたのかもしれない。
その向こうは小さな中庭になっていた。中心に、一本の木が立っている。
「蜜柑か?」
その立派な木の周囲はぐるりと木の柵に囲まれていた。柵の柱は太さがまちまちで、しかも奇妙な形をしている。
近づいてみて分かった。柵の細長い柱になっているのは、木彫りの仏像だった。それに板をくっつけて無理矢理柵にしてある。しかも奇妙なことにそれ らは皆、内側を向いている。仏像は皆、かなり風化しているようで、すでに表情などは消えてしまっている。ところどころにはひびが入り、裂けたようになって いた。首がもげているのもある。こちらは何だかへし折ったように見えた。周囲を探したが、もげた首は見あたらなかった。代わりに、木の根本に黒ずんだ染み のようなものを見つけた。ほのかな柑橘系の匂いに混じって、別の臭気が漂っているようだったが、それが何なのか、私には分からなかった。思い出せそうで思 い出せないのがひどくもどかしい。
「ブンメー、この蜜柑、変な色してる」
つ、と顔を上げると蜜柑が視界に入った。なるほど、これまで仏像の方に気を取られていたから分からなかったが、もっと早くに気づいてもよかった。
たっぷりとついている蜜柑の実が、やけに赤いのだった。傾きかけた陽の光の加減かとも思ったが、どうもそうではないらしい。色だけを取ると、蜜柑 というよりも林檎に近い。だが、林檎よりももっとどろりとした、そう、いうならば血を凝り固めたような色をしていた。
森山が柵越しに手を伸ばし、蜜柑を取ろうとした。喉の渇きに耐えかねたのか、それとも好奇心からか。
そこへ、
「何をしているのです!」
鋭い声が後ろから浴びせられた。森山が飛び上がる。
振り向くと、高枝切り鋏みを持った老僧がいた。年齢はよく分からないが、とにかく六十くらいにはなっているだろう。皺の多さは人生の苦労を物語っ ているようだった。
「道に迷いまして、猫見の大学合宿所まで戻りたいのですが」
胸を押さえて動悸を鎮めている森山に代わって、私が説明した。
「それから、少々喉が渇いてまして――」
僧は厳しい顔つきを少し緩めたようだった。
「しばらくお待ち下さい。茶など進ぜましょう」
高枝切り鋏みを使って、赤い実をぱちん、ぱちんと切り落とし、足元に置いた籠に放り込む。老僧は小さい実すら残さず、すべて切り落としてしまっ た。その後、私たちは建物の中へ案内された。
六。
「昔話をしてしんぜましょう」
その住職は、茶を私たちに勧めると、こう切り出した。私があの仏像や赤い蜜柑のことなどを尋ねた後のことだ。話をそらされているようで、何だか気 に食わなかったが、とりあえず拝聴することにした。
寺はしんと静まり返り、他に人の気配は皆無だった。どうやら、住職ひとりでやっているらしい。どうやって維持しているのか。没落した寺だろうか。
茶請けのつもりなのか、老僧は奥の部屋からかの赤い蜜柑をひとつ持ってきて、テーブルに置いた。かなり大ぶりの実だ。森山は、何だか薄気味悪そう にそれをつついている。茶を一口飲んだら好奇心もやや落ち着いたらしい。
「昔、あるところに……」
Once upon a time、英語ならそういう出だしになるのだろう。
「チスイの鬼がおりました」
治水の鬼、と頭の中で変換して、誤変換に気づいて吹き出しそうになった。
「血を吸う鬼、ですか?」
吸血鬼、といってしまえば簡単だが、鬼、という部分を強調すれば、何となく違和感がある。
「そうです。血吸いの鬼がおりました。この鬼は、たいそうな悪さをしでかし、近隣一帯に恐れられていました。もちろん、血吸い、というからには血を 吸うわけで、この鬼めに血を吸われた者は、次第に衰弱し、死に至るのです。しかも、鬼の呪力か、一度吸われると拒むこともできなくなるとか。こうして全滅 させられた村もあったそうです」
茶を老人はすすった。話だけ聞くと、西洋の吸血鬼伝説そのままだ。いや、口の悪い塚本などにいわせれば、ブラム・ストーカーが築き上げた後、映画 によって定着させられた吸血鬼像に似ている、というべきか。
「……ところが、あるとき、旅の法師が通りかかり、鬼めの所業を知りました」
仏教説話にはよくある話だ。その通りに、住職の話は展開していく。すなわち、旅の法師が、鬼を成敗する、と。
「その法師は、鬼を大地に封じ、さらには鬼の力を浄化するために、持っていた杖で鬼を封じた地面を突きなさいました。すると見る間にそこから木が生 えてきたのです。聞いたことがあるのではないですか。桜の木の下には、何があります?」
「人骨が」
いったのは、平安時代末、西行法師だったか。「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」という辞世で知られている。桜は死者の念を 吸い上げて美しい花を咲かせるという。あるいは、柳田の採集した話の中に、乳母桜というものがあったはずだ。子どもを誤って殺してしまった乳母が主に斬り 殺され、桜の下に埋められる。すると桜は血の色をした花を咲かせたという。
「柑子の木の下には、鬼が眠っている、というわけです」
柑子――蜜柑。
蜜柑は古くから、祝福の実として知られている。太陽の色。太陽そのものが魔に対するものだから、それを蓄える蜜柑は魔を払う。正月の飾りに蜜柑を 使うのもそのためだ。土地によっては意味合いが違うところもあるが。
「ところが、鬼の力は死してなお、衰えませんでした。というよりも、復活しようとさえしています」
住職が現在形を使ったことに、私は眉をひそめた。
「しようとさえして、いる?」
「そうです」
深々と頷く。
「そこで旅の法師はさらに木彫りの仏像を持って、柑子の木を取り巻きました」
ぞくり、とした。まるで、それは私たちが先程見た、蜜柑の木のようではないか。私は、この部屋の隅に積んである、あの仏像と同じような大きさに切 られた丸太に私はすでに気づいていた。
「鬼はさらに上を行きました。かの鬼の呪は強烈で、猫を使い、血をすすり続けました。猫は鬼めの意思を汲み取り、村の者の血を吸い、それを鬼に運び 続けました。魔となった猫どもは、悪さをなし続けたのです」
猫が魔の使い、というイメージは、いかにも西洋風だ。いや、日本でも土地柄を考えれば鍋島騒動があるか。
「しかし、それがここのことだって――」
森山の言葉は、後半もごもごと小さくなった。もっともな発言ではある。老僧の「昔話」がここに結びつくなど。だが、よくよく思い出してみれば、仏 像の柵などについて由来を尋ねたことからこの話が始まったのだ。
住職は立ち上がって、奥の部屋から何かを持ってきた。一抱えもある大きなガラスの瓶だ。ちらりと見えたのだが、奥の部屋にはいくつもの棚がしつら えられ、同じようなガラス瓶が無数に並んでいる様子だ。まるで理科か何かの実験室のようだ。
住職が持ってきたその中に赤いものが入っている。卓に置かれて、ようやくその中身が分かった。ひっ、と隣で森山が息を呑む。
猫が、瓶に入っていた。瓶一杯の赤い液体――血とともに、首を切断された猫が。張り付いた猫の目が恨めしげにこちらを睨んでいる。
異常だ。これは異常だった。猫を殺し、瓶詰めにして取っておくなど。
「旅の法師はこの地に留まり、柑子の木を見張らんがため、寺を築きました。そして鬼めの使い魔たる猫を狩ったのです。それでも猫たちは生まれ続け、 血を吸い続けました。鬼の力は強まり、仏像を打ち砕かんほどにもなったのです。その都度法師一族は像を新たに築き、猫を狩り続けました」
森山が吐きそうな顔をしていることを見て取ったようだった。
「こうして取っておくのは、これで猫が甦ってしまうのを避けるためと、同時に猫が集めた血を鬼に渡さないためです」
住職は猫入りの瓶を奥へ戻しに行った。その拍子にまた隣室が少し見るた。並んだ瓶すべてに猫が入っているのだと思うと、私まで気持ち悪くなりそう だった。
「この山が弥勒岳と呼ばれるようになった時期よりも後の話です。あの鬼がこの地に封じられたのは、いつか弥勒菩薩が降臨されたとき、真っ先にあの鬼 めを浄化して下さるだろうと思ってのことだと伝えられています」
だが、この地で実際に「修行」をしているのは、鬼に他ならない。力を蓄え、法師の死後、何十年だか何百年だか経過して復活せんがため。
私は首を振った。どうにも私の理性では理解できない話だった。物語としては面白いかもしれないが。
「以来、この地は猫見、と呼ばれるようになりました。猫見は猫魅、そして寝込み。猫に魅入られた者は血を吸われ、寝込み、弱っていくことになりま す。血を何度も吸われ、拒むこともできずに。まさしく猫たちはかの鬼と同じ力を持っているのです」
まるで、西洋の吸血鬼のように。同期の塚本ならば、専門が19世紀末イギリスだから、もっと詳しいことを知っているだろうが、私には映画や聞きか じりの知識しかない。
「今も、なお」
「その鬼が現れたのは、いつ頃なんです」
ふと興味を覚えて尋ねた。
「戦国時代の終わりだとか」
どうやら塚本に毒されたらしい。変な話が浮かんだ。もしくはある有名文学作家の短編を連想したからだろうか。キリスト教と一緒に、外国から吸血鬼 が入ってきたのではないか。時代的には辻褄が合わないこともない。
そういえば、この地は隠れキリシタンの牙城となったとか。私はそのことを指摘し、
「来栖野の来栖というのは、クルス、つまり十字架のことではないですか」
住職がわずかに相好を崩した。
「その通りです。この地の弥勒信仰は、元からあったものですが、そこにキリスト教の救世主信仰が習合されたようです。来栖野、というのはその折りの 名残あるとか。たしかにキリスト教の受容時期と鬼の伝承は重なるところがあるようです」
たしか江戸時代に入ってからだったか、一大弾圧を受けて、キリスト教の勢いは沈静化する。地下に潜って習合したとしても、それは鬼にとって好都合 だったのではないか。鬼が西洋からやってきたのならば、邪魔をする者が減ったということだ。もちろん、今の話が本当だったら、のことだが。
茶を入れ直す、といって住職が席を外した。その隙に、というわけでもないのだろうが、今まで黙っていた森山が私をつついた。
「な、なあ、ブンメー」
森山の顔には紛れもない恐怖があった。
「今の話を真に受けてるんじゃないだろうな」
「だってさ、俺、見たんだよ」
「何をだ」
「小島さんの首にさ、二つの小さな傷があるのをさ。まだ血が出そうなくらい新しいやつを、今朝」
具合を悪くしている後輩の名を、森山は口にした。
「それは偶然だろう。虫にでも刺されたのかもしれない」
住職が戻ってきた。茶を注ぎ直し、森山を見る。そして怪談さながらに、尋ねた。
「それはこんな痕ではありませんでしたか」
住職の首に真新しい傷跡が、二つ、私にも見えた。
隣で森山が卒倒しかけるのが分かった。
七。
「どうやらこれも御仏の導きかもしれません」
住職はどこか寂しげに見える笑みを浮かべた。
「すでに仏像は朽ちかけております」
たしかにそうだった。私の見た限りでは、風雨にやられたように見えたが、何かに壊されたような跡もあった。
「新しく作ればいいではないですか」
私はつとめて冷静に指摘した。住職の話を信じれば、それまで代々やってきたことだろう。
しかし、住職は首を振った。
「今の世には、木の中に御仏はおりません。拙僧らは代々信仰と御仏の力をもって、御仏の姿を木の中に見、鑿をその縁に当てる。それで徐々に御仏の姿 を削り出してきました。ところが今の世には、木中に御仏はおりません。世の信仰がすたれてきたのか、拙僧らが未熟なのか。今この世界が乱れる由縁でもあり ましょう。あるいは因果は逆なのかもしれませんが」
部屋の隅で、彫りかけて止められた木の塊が山をなしている。
「それに拙僧には後継がおりません。自身の気力も衰え、猫狩りも精一杯。そして、とうとう先日、猫に魅入られる羽目になりました」
首の傷をまた見せる。
「おそらく、あなた方がお泊まりの合宿所も、客寄せをして、猫に血を与えるためのものでしょう。猫たちに皆逆らえませんから」
合宿所には、たしかに猫がいた。しかも、夜になったら客だけしかいなくなる。何も知らない客たちだけに。
「てことは、小島さんは……」
森山が口を挟む。
「……おそらく、その通りでしょう」
老人はかすかな溜息とともに頷いた。
「もはや、拙僧も長くはありません。あなた方がここを訪れたのも、何かのお導きでしょう。早く友人方のところへ戻られ、来栖野を離れられることで す」
だが、私にはまだ信じられなかった。その不審を、表情から読みとったのだろう。
「その柑子の実をむいてごらんなさい」
真っ赤な実――住職の話を信じるなら鬼を封じた木の実だ――を手に取る。ずぶり、と立てた指の隙間から血の色をした果汁が漏れる。
「う……」
横から見ていた森山が口を押さえた。私も見た。見てしまった。皮をむいた実の中に、紛れもない、小さな目玉を持った何かが入っていた。
「猫見は猫魅、寝込み、そして――猫実」
私は、住職が何故小さい蜜柑の実まで切り落とすのか、理由を知った。
いつの間にか、日が暮れかかっているのを私はぼんやりと知覚する。
「拙僧がいかに猫に魅入られようとも、いまだ猫を狩る役目を怠ってはおりません。しかし、それもいつまで続くことか。早う、来栖野から出られたがよ い」
アルコール中毒患者のごとく、老僧の手が小刻みに震えている。
「血を吸われ、身体は弱ってゆきます」
震える手を、住職はぐっと握り込んだ。だが、その力はいかにも弱々しかった。
「拙僧の力が衰えるということは、鬼めにとって好都合ということ。御覧なされ」
老僧は庭を指差した。その先に、蜜柑の木がある。
黄昏時。
私は目を見張った。逆光だったのでしかとは分からないが、何かが立っている。囲いの、中に。
誰そ彼時。
手にぶらさげていた何かを、それは顔の当たりまで上げた。
誰は彼時。
「鬼めの、影です」
ぐしゃり、と握りつぶす。だらだらと液体が木の根本に注いだ。
猫の形をした、血袋。
大禍刻。大いなる災いの時刻。
先にあの根本で感じた臭い、それから根本にあった黒い染みの正体がやっと分かった。
「ああして、血を吸わせるのです。しかし、影がああもはっきり姿を見せるようになったのは、つい最近のこと――」
逢魔ヶ刻。魔に、逢う、刻。
猫を放り、手をなめていたその影が、こちらを見た。
私は、悲鳴をあげた。
八。
何が何だか分からなかった。私は、ひたすら駆けていた。
あれは何だったのだ。
「早う、来栖野を離れなされ」
老僧の言葉が耳に残っている。
「じき、鬼めは甦りましょう。拙僧は、代々伝わっている、最後の法を行うことにします。浄化の法を。外部の方がやって来られたのは、御仏のお導きで しょうゆえ――早う、お逃げなされ。あなたも、今ならまだ間に合うでしょう」
住職は、私を真っ直ぐに見た。いや、それは正確ではない。その視線は、私の首に向けられていたのだった。それからじくじくと首の根本辺りが痛む。 触ると、腫れているのが分かった。怪我? 傷?
弾けるように記憶が甦る。否、記憶の欠落が分かった。昨夜、私は合宿所にいた猫に、飲み会で残った菓子を与えようとし――それからどうしたのか。
気がつくと朝だった。あのときは、酒が過ぎて記憶を失ったとばかり思っていたが、本当にそうだったのか。
猫が菓子を食べたかどうか――私は覚えていない。手を伸ばしたところまでは鮮やかすぎるくらい覚えているのに。やけに赤い舌と、対照的にやけに白 い牙。
昨日、トレーニングのときには明らかになかった首の傷は、いつついたのか。
襟に隠れていて、森山はまだ私のそれに気づいていないようだった。私でさえ忘れていたのだ。
朝からずっと感じていた、身体の重さ。
森山が隣を走っている。二人して、必死に山を下っている。果たして、この道は、合宿所に通じているのか。私は森山に尋ねる余裕などなかったし、あ ちらもそうだろう。
ただ恐怖に駆られているだけだ。
と、二人同時に転んだ。坂道であったから、ずいぶんと派手に。
そこで初めて、地面が揺れていることに気づいた。空気がどことなく嫌な感じをはらんでいる。
「じ、地震……?」
「分からない。とにかく、急ごう」
私は首の付け根にに触れた。老僧が見ていたもの。そこに傷跡があった。二つ。
再び立ち上がり、走り出す。揺れは治まることなく続き、不安定な状態のまま、私たちは合宿所を目指した。
黄昏色の、夜につながる道を。
逢魔ヶ刻の中を。
九。
合宿所の駐車場に部長たちの姿を見たときの安堵感は、筆舌に尽くしがたいものだった。
何かいいかける部長に、
「大変です」
と畳みかける。
「こちらもだ」
「小島の具合がちと悪くなってな。それに――」
部長と一緒にいた中田さんが頬の髭を撫でた。ひっきりなしの揺れを感じながら、私は中田さんの視線を追い、ぽかんと阿呆のように口を開いた。
弥勒岳の上部が赤く染まっていた。
「どうも、何だか嫌な予感がする」
部長がいう。
同感だった。
「ここを出た方がいいです」
私は無理矢理呼吸を整えて進言する。森山はへたり込み、まだ話せる状態ではなかった。
あの住職の言葉――
「代々伝わっている、最後の法」
部長にこちらの呟きが聞こえたとは思えなかった。しかし、ひとつ頷くと、部長は指示を飛ばす。
「三十六計逃ぐるに――だな。中田さんと私は、他の連中を呼んでくる。北原と森山は、車のエンジンを掛けて待機しておけ。ドアは開けておけよ」
中田さんがレンタカーの鍵を森山に押しつけた。私はポケットを探り、自分の車の鍵を確認する。
五分とかからなかった。部長や中田さんが蹴り出すように他の部員たちを合宿所から追い出した。中田さんは毛布にくるまった小島を抱いている。彼女 はまだ気分が悪いのか、毛布の中で震えていた。
合宿所の人たちは、すでにいないようだった。日が暮れたので自宅に戻ったのだろう。昨日もそうだったから。その自宅にも猫がいるのだろうか。
「清澄さんは北原の車に私とお願いします」
先輩の清澄さんが助手席に乗ってきた。後部には部長と会計の島田、後輩の森枝が乗った。
一際大きな衝撃。まるで空気に殴られたような感じがした。びりびりと窓が震えている。私は咄嗟に、弥勒岳を見、悲鳴に似た声を出した。
弥勒岳が、長い眠りから覚めていた。轟きとともに火を噴き上げている。
「出せ、北原」
部長の鋭い命令に私は視線を弥勒岳から引き剥がし、すぐに車を出した。レンタカーのワゴンが続くのが、ミラー越しに見えた。あちらは中田さんが運 転している。
「私だ」
後ろで部長が携帯電話を握っている。
「こちらに清澄さんがいらっしゃるから、こちらで先導する。こちらも注意しているが、はぐれたら、私の携帯にかけろ」
清澄さんは今回参加された唯一の院生だが、特殊な能力を持っている。すなわち、一度通った道は忘れないこと、そして地図を見ただけで記憶し、いつ でもイメージできるということだ。
すでに日は暮れているというのに、後方がやけに明るい。それに、赤い。
「清澄さん、お願いします」
「任せて」
色白の頬が赤く見えたのは、照り返しのせいだった。噴火は止む気配もなく続いている。ねっとりとした溶岩がゆっくりと山頂で盛り上がっている。流 れ落ちるのも時間の問題だった。清澄さんはそちらをしばらく見て、目を閉じた。おそらく頭の中の地図を参照し、もっともよい道を検索しているのだろう。清 澄さんが目を開き、指示を出すまでに大した時間はかからなかった。
私はただ清澄さんの指示通りに動く機械となった。その方が楽だったからだ。山寺で起こったことなど、考えたくもなかった。真っ黒で真っ赤な世界の 中を、ひたすらに運転することで忘れようとしていた。
どれくらい運転していたのか。果たして、安全な場所まで逃げることができたのか。すでに猫見峠は抜けたのか。
そのとき、私の意識は部長の言葉をとらえた。心臓が、大きく収縮するのが分かった。
「猫? こんなときに何をいっている」
私に向けられたものではない。携帯電話だ。
「落ち着け、森山――何、窓の外だと?」
私は思わず見てしまった。車を追い越していく、小さな影たち。道の両端には木が覆い被さるように立っていて、暗がりでよく見えなかったが、それは 猫に見えた。
そして、もうひとつ――
猫に混じって、大きな影。人の形をした影は、私の視線を感じたようにこちらを向いた。にっ、と笑ったように見えた一瞬後、速度をさらに上げて、影 たちは去っていった。すぐさま見えなくなる。くらり、とハンドルを持つ手が重くなった。疲労が私の中で突然目を覚まし、襲いかかってきた。
「何だったんだ、いったい――おい、北原どうした、大丈夫か」
部長の心配そうな声が、私にかけられた。鎖骨の辺りに血が流れているのを感じながらも、私は甘美な眠りに落ちる、という誘惑に耐えていた。
終。
珍しくもないことだった。人がひとり、死んだだけだ。
実際、日本で一日に何人が死んでいるかを考えると、珍しいことではない。
ニュースを賑わした弥勒岳の噴火は、火山灰を近隣県にばらまき、今も続いている。かの合宿所も被害に遭った。山寺は、最初の噴火で溶岩に呑み込ま れた。住職は、死亡したと見られている。今にいたるまで、遺体は発見されていない。骨まで燃えてしまったのだろう。
死は、珍しいものではない。だが、その死が何を意味しているのかは別の問題だ。
火と熱による浄化。あれが最後の法だったのか。
すでに私には答える方法も、尋ねる方法もない。
果たして、あのとき山から下りたのは、何だったのか。人に似た影。影だけが逃げ出してきたとでも。
答は出ない。すべてがどうでもいいような気怠い感覚。首の傷はまだふさがることなく、生々しい。
「それもまた、一興……」
弥勒――そして、鬼。
救済――あるいは、終末。
私は目を閉じ、ぼんやりと考える。どこからともなく届く、子どものそれに似た猫たちの鳴き声を聞きながら。
(K大文藝部冊子「Mosaic!!」第34号掲載)
Ver.1.5. 2000.1.24.
Ver.1.51. 2002.7.1.
ここより先は、本作に目を通した者のみの閲覧ということでお願いします。条件を満たさずして読み、健康な通読、あるいは読後感を阻害されたとして も、当方では一切の責任を負いかねます。自らの意志をもって、先へ行かれますよう。