樹海の葡萄

天野 景

 

 

 1.

 気を失っていたのは、わずかな時間だったらしい。カタナの刃にべっとりと付着した粘液も雨に流れきってはいなかった。

 痛みに顔をしかめる。腕が折れていた。落ちたときにやってしまったらしい。

 激痛を意志の力で押さえ込み、サブロウは天を見上げた。

 森の天蓋は破られ、激しい雨が降り注いでくる。

 木々に切り取られた視界の中に、しかし目指すものは見つからなかった。

 

 

 2.

 樹海の中をひとり歩いていると、自分が世界で最後の人間なのではないか、という錯覚を起こす。森に入ってから、ひとりの人間も見てはいない。それだけではなく、鳥も獣も気配すら感じさせない。

 ただ、ひたすらの雨音。 

 雨は止みそうになかった。

 樹海の中とて同じだ。厚く繁った葉や枝を伝って、滴が際限なく落ちてくる。傘を差していたが、元々それが古びたものであったため、ぽたりぽたりと漏れた滴がサブロウに当たる。

 ツユ、というらしい。かつて、サブロウの先祖たちが住んでいたちっぽけな島では、雨期のことをそう呼んでいたそうだ。

 住む場所が変わってからも、言葉だけは残っている。そういった知識だけは、サカモト家の人間として叩き込まれている。

 くだらぬ、と今では思う。

 サブロウはサカモト家の人間で、唯一、家名に重みを感じていない。にも関わらず、サカモトのお家芸であるカタナ鍛冶に優れるのも彼なのだ。実際、トウシュ、これはカタナの主、という意味らしいが、それをあざなとしてもらっている。

 彼はあざなを誇りに思ってはいたが、同時に家に縛られ、そのまま腐っていくような不安も覚えていた。ある女との出会いがなければ、サブロウの心は解放されず、カタナが持ちうる負の力に捕らわれてしまっただろう。

 ぽん、と腰のカタナを叩く。この「雷丸」は、彼自ら鍛えたカタナだ。これをもってサブロウはトウシュの名を得たのである。

 しかし、トウシュの座を得たとしても、サカモトの家はすでに落ちぶれている。カタナなど時代遅れであるといった風潮が蔓延している。たしかに武器としては銃の方が楽だし、誰が用いても威力は変わらず安定している。

 それでも、己を貫くという意味合いでサブロウはカタナを愛していた。カタナは主の意志を忠実に映し、意志を具現化しようとする。自分で打った最高傑作である「雷丸」をこの樹海にまで持ち込んだのもそのためだった。いかなる危険があったとて、この分身であるカタナがあればどうにかなる。

 樹海に道はない。どこまで行っても巨大な樹、細い木、様々な障害がサブロウの前に立ちはだかる。時には「雷丸」を抜き、倒木を斬って道を作ることもあった。

 そもそも、この樹海は人間たちにとって禁域である。ことにツユ時に樹海に侵入することは許されていない。 

 遙か西の土地では、猫と人間が協力して、森で狩りをするという。その獲物は選ばれた者だけしか狩ることができず、他の者は森にすら入れないのだと。

 森、というのはある程度以上に育つとそのように人を拒む雰囲気を持つ。

 樹海に入った者は、森の奥に棲むという怪物に食い殺されるともいうし、怪物に弄ばれた挙げ句にばらばらにされるともいう。また、ツユ時には、人に化けた怪物が森から現れ、郷の人間をさらっていくとも囁かれる。実際に、そうやって姿を消した人間が、家名喪失者の中には多いし、家名所有者の中にもいないことはないのだ。また、同時に樹海は家名喪失者などを追放する場所としても機能している。そうした追放者たちが森で生き延び、復讐に来るのだともいわれるが、その話には信憑性がないと断じられることがほとんどだった。まだ怪物の話の方が現実味がある。樹海のような場所で、何も持たず家名喪失者たちが生き延びるわけがない、というのが人々の認識だった。

 樹海は罪に穢れているともいわれ、禁忌を犯した者にもその穢れは及ぶ。その樹海に許可なく踏み込むサブロウは、禁忌を犯していることになる。

 だけではない。

 サブロウは禁忌を犯すために樹海に入り、樹海に入ることでさらなる禁忌を犯しているのだから。

 キヨカどの。

 森の海に挫けそうになる都度、サブロウはその名を呟く。

 ねっとりと濃密な森のどこかに、キヨカがいるはずだった。

 カタナ鍛冶の修行が終わり、トウシュの称号を得たサブロウは郷に戻ってきた。キヨカと祝言を挙げるつもりだった。

 その祝言こそ、禁忌に触れるものだ。サブロウがサカモトの家名を持つのに対し、キヨカは家名喪失者だったからだ。家名所有者と家名喪失者が婚礼を執り行うことなど、許されることではない。血を交えてはいけないことになっていた。これは昔からのしきたりで、樹海が穢れているのと同様、家名喪失者の血もいまだ忌まれているのだ。

 家名喪失者とて、祖先までが家名を持たなかったわけではない。家名所有者たちが伝える口承では、かつてこの地に祖先たちが降り立ったとき、不始末をしでかしたか何かした者がいたそうだ。彼らの血は濁り、他の祖先たちにまで害を及ぼすようになった。ために、彼らは追放され、その家名は忌むべきものとして伏せられ、やがて忘れられていった。血の濁りは代を重ねるごとに薄れてきたともいわれているが、いまだに家名喪失者たちは住む場所を区別され、職業を区別され、家名所有者が受けるような教育も受けることができない。

 キヨカは、その家名喪失者だった。それでもサブロウはキヨカと結婚をするつもりでいた。キヨカとの関係は秘密にしていたものの、家中には気づかれていたらしかった。

 カタナ鍛冶の修行から戻ってみれば、キヨカは樹海に食糧を持つことさえ許されぬまま追放されていた。

 キヨカどの。

 必ず見つけだしてみせる。その決意を秘め、家の者が止めるのも聞かずに樹海に飛び込んだサブロウである。

 樹海は広い。常人であれば、迷った者と出会う可能性などないに等しい。

 しかし、サブロウはくじけない。彼には「雷丸」がある。意志を体現するカタナは、彼を探し求める者の所へ導くだろう。サブロウはそう信じている。信じることが「雷丸」に力を与え、さらに彼を導くことになる。

 ただ、キヨカを見つけて後、どうするのか。

 村に戻っても、どうしようもあるまい。たとえ一人前のカタナ鍛冶であっても、キヨカとの祝言は許されまい。サカモト家のような家名を持つ一族で、トウシュのあざなを持っていればなおさら。

 そのときは――

 樹海でともに暮らし、朽ち果てていくのもよいかもしれぬ。

 あるいは――

 二人で他のまだ見ぬ土地に赴き、生活を新たにする方法もある。

 すべては、彼女に会ってからだ。

 サブロウは彼女の姿を求めて、ひたすらに歩き続ける。

 

 

 3.

 前方にかすかな人の気配。

 音は雨垂れに消されて聞こえなかったものの、サブロウの感覚は、それを捉えている。

 キヨカどのか。

 喜色を表しながらも、カタナを鞘に納めなかったのは、トウシュならではだった。

 黒い、人型のものが上から雨に混じって降ってきたのは、突然のこと。傘を開いていたため頭上は完全に死角になっていたのだが、雨音の不自然さを感じたサブロウの身体が動いていた。

「――!」

 傘を投げ捨て、反射的に、「雷丸」を振るう。刃に力の入らぬままであったから、手に鈍い感触が残った。

 腰の辺りから真っ二つにされて泥に沈んでいるものを、サブロウは見下ろした。人間のようだ。だが、やせ衰え、眼は落ちくぼみ、骨の上に皮を直接貼り付けたようだった。サブロウが斬らなくとも、長くは保たなかったことだろう。黒く見えるのは、泥と汚れだけでなく何かの病にでもかかっているに違いない。細く、やたらと長い手には刃物が握られている。この男は、恐るべき跳躍力でサブロウの頭上へ跳び、襲ってきたのだ。

 変わり果てたその顔にはどこか覚えがあった。昔、村で見たような記憶がある。家名喪失者の誰かであったろうか。しかし、即死したであろうこの男にもはや何の興味もなかった。もしかしたらキヨカの居場所を知っていたかもしれないが、死んでしまっては何もならない。

 ともかく、この樹海に人間がいる、少なくともこの男は生きていた。だとすれば、キヨカもまた生きている可能性があるということだ。希望は常にある。

 「雷丸」の刃に力を込める。刃にからみついた男の血が瞬時に煙となって消えた。

 キヨカどの。

 サブロウは呟く。この広大な森のどこかにいるのならば。この男のようになる前に。

 救い出さねば。

 傘を拾い、歩き出そうとしたとき、再び音がした。振り返ると、真っ二つにされた男の上半身が動いている。こちらに向いた眼には、ぎらぎらとした光があった。這いずって、サブロウに近づこうとする。短い刃物を握りしめ、それでサブロウを傷つけようというのだろうか。

 不気味な光景だった。サブロウの知識と経験では、男はとうに息絶えていなければならないのだ。腰から上だけになって生きていられるはずがない。

「迷うたか」

 「雷丸」の刃が輝く。動きの鈍い男の頭部に叩き込む。今度の感触は、先程よりも軽かった。

 男の頭部は粉砕された。

 

 

 4.

「これは……何だ」

 木々が少なくなったわけではない。だが、不思議に開けていた。同時に、樹海の天蓋は変わっておらず、鬱蒼とした、頭を押さえつけられるような感じは変わっていない。ぽっかりと空間が、樹海に包み込まれている。

 そこにあったのは、細長い巨大な鉄の塊だった。そこに蔦がからみついていて、碑のようにも、新たな樹のようにも見える。

 からまっている蔦には巨大な粒状の実が房となってくっついている。鉄塊の周囲にある房はそれこそ数え切れぬほどだった。それも一粒一粒が人間ほどもある。

「ブドウ……」

 昔、都で母なる故郷の資料を見たことがある。その植物に似ていた。また、樹海に踏み込むという禁忌を犯し、衰弱して生還した者がブドウの存在を告げて死んだという記録もあった。

 カタナ鍛冶のせいで、サブロウの目はあまりよくない。昔も今も、カタナ鍛冶は火を使い、鉄を鍛錬する。その火を見つめる作業が目を酷使するのだ。それだけではなく、カタナを打つときに飛び散る火花、あるいはそこへ混ぜ込むサクノ珠の光が目を削ることになる。

 そのサブロウの目にはブドウの実が半ば透けているように見えたが、細かいところまでは分からなかった。彼の知識はブドウが食用に耐えると告げていたが、いかに空腹であっても実そのものはかなり高い位置にあるため、手を伸ばしても届かない。それにサブロウの知識と今見えるブドウでは、大きさがまったく異なっている。同じ種とは限らない。サブロウは意識からブドウを追い出した。

 鉄塊の下部には、扉のようなものが口を開けていた。

 サブロウは誘われるようにそこに向かった。雨露をしのげる、とあらば、人がいる可能性がある。

 キヨカどの。

 中に入れば、傘は必要ない。閉じた傘を穴の口に立て掛ける。危険なものがいる可能性も考えて、「雷丸」を抜く。先程のように襲撃されるということも十分考えられる。もっとも今度は傘で視界を遮られることはない。

 内側は、驚いたことにほのかに明るかった。外に巻き付いていた蔦がこちらにもはびこっており、その細長い葉がぼんやりとした光を放ち、脈動する蔦がその拍子に合わせて明滅している。

 サブロウはブドウの実のひとつに近づいた。

 呻く。

 半ば透けた実の中には、裸の人間が入っていた。目を閉じ、眠っているように見える。

「何だ、これは」

 房になっている実のほとんどに、人が入っているようだった。中には果汁のごときものが詰まっているらしく、実の中の人間は浮かんでいた。外にあるブドウも考え合わせると、かなりの数になるはずだ。

 奇妙なことに、サブロウが見た人間は微笑んでいるようにも見えた。見間違いかと思い、サブロウは別のブドウを覗き込む。するとそこには苦悶の表情を浮かべた人間が胎児のように身体を丸めて浮かんでいた。

 悪い予感が頭をかすめる。

「キヨカどのももしや……」

 不安げに「雷丸」の刃が瞬いた。

 笑んでいる男のブドウに近づき、皮に触れた。中の果汁や人間を閉じこめておくだけの弾力が指先に感じられた。

 「雷丸」を一閃する。

 ブドウの皮は、しかし予想よりも遙かに弱かった。ほとんど手応えもなく皮が破れる。最初線でしかなかった切り口は広がり、中の男が液体とともに種のようにぬるりとひねり出された。

 ブドウの汁にまみれた男の首筋に脈を取る。男は幸せそうな笑みを浮かべたまま、死んでいた。

 「雷丸」がかっ、と光り、刃に付着した液体が蒸発した。液体の正体を知りたいとは思わなかった。血なのかもしれないし、ブドウの果汁なのかもしれない。興味はなかった。

 サブロウはカタナを抜いたまま、歩き出した。

 通路は奥へと続いている。緻密な計算の下に作られたようで、四角い穴がずっと続いている。途中、何度か枝分かれをしていたり上がったり下がったりしていたが、サブロウは勘の命ずるままに歩いていく。

 通路には、壁といわず天井といわず床といわずブドウの蔦が這い回っていた。そのため歩きにくいことおびただしい。絡み合った蔦が通路を完全に塞いでいることもあった。蔦はみな定期的に収縮脈動し、生きていることを主張していた。

 時折、通路は広くなり、そうした空間には必ずといってよいほどブドウの実が房となっていた。それらには、これまでサブロウが見てきた実のように、人間が閉じこめられている。

 果実のひとつひとつを覗き込み、そこに見知った顔のないことを確認する都度、サブロウは安堵する。が、次の実が現れると心を締め付けられるような思いに駆られてしまう。

 次こそ、キヨカが入っているかもしれないのだ。

 不安と焦りにさいなまれ、闇雲に「雷丸」を振るいたくなってしまう。

 それでもブドウを調べながら、次第に通路の奥へとサブロウは進んでいく。

 

 

 5.

 どのくらい歩いたのだろうか。通路の先に動くものがあった。人影のように見えた。

 疲労と同じような景色の連続で半ば朦朧となっていたサブロウは意識を瞬時に覚醒させ、床の蔦に足を取られぬよう注意しながらそれを追った。

 後ろ姿を見る限り、樹海で襲ってきた痩せた男を連想させる。

 走りながら、サブロウはいぶかしむ。まるで誘導されているようだった。男はいくつもの角を曲がり通路を駆けていく。ブドウの房の近くを通ることが何度もあったが、中をひとつひとつ覗いている余裕は、今のサブロウにはなかった。そこにキヨカが閉じこめられていないことを祈るばかりだ。

 と――

 これまででもっとも大きな部屋に出た。

 太い蔦があちこちで絡み合い、大きな実をつけていた。

 まるでこの部屋自体が生きているようにも見えた。蔦は血管だ。脈打ちながら、一番奥に続いている。途中途中には大きな実がなっている。

 人影は奥へ進んでいく。もはや逃げるような調子ではない。案内人のように見えた。

 サブロウはためらわない。いかなる罠が仕掛けられていようとも、それをカタナとともに切り破ってみせる。

 最奥にあったのは、これまでとは比べものにならぬほどの巨大な一粒のブドウだった。つるりとした表面はどうかするとあまり磨かれていない鏡のようにも見えた。ブドウには大小無数の蔦が絡み合い、接続されている。ブドウ自体が脈動に応じていた。蔦の中を流れているものが何であれ、この巨大な実に吸い込まれ、吐き出されているようだった。

 その中に浮かんでいるのは、裸の女だった。

 キヨカではないことを、素早くサブロウは確認する。

 女の長い髪がブドウの中で海藻のように広がっていた。これまでサブロウが見てきたブドウの中身と異なって、女は目を開いている。

 こちらを見おろしている。サブロウを見ている。

 ブドウ前の床には、一本のカタナが突き刺さっていた。刃が黒ずんでいるのは錆びているためだろうか。カタナの後ろに黒い塊がいくつか転がっている。丸いものがあり、棒状のものがあり、曲線で形作られたものがあり、サブロウには、骨、に見えた。

 先程サブロウを導いてきた痩せこけた男は、ブドウの横に控えていた。こちらは女と違って目を伏せていたが、その手には、旧式の熱線銃があった。

《よう参った、我が子よ》

 頭の中にこだまするような声がした。思わず、サブロウはカタナを落としそうになる。

 女だ。サブロウは直観した。女は口を開くことなくこちらを見つめているだけだ。それでも分かった。この女だ。

「私は、おぬしの子ではない」

 女の笑い声が響いた。

《そなたが人である限り、私の子には違いない。何故ならば、ここは始源の地であり、降臨の場所であるがゆえ》

 サブロウの頭の中で、かつて学んだ知識が甦ってくる。

 その昔、サブロウの先祖たちは天翔る船に乗ってこの地に降り立ったのだと。その場所はすでに失われ、「始源の地」と伝説にいうのみ。

 まさかそのようなものが、こんな樹海の中にあろうとは。樹海は、人が住むべき場所ではないというのに。

《ここからすべては始まったのだ。そなたが、サカモトの名を持つ以上、私の子には違いない》

 家名を当てられ、サブロウはよろめいた。何故、この女がそんなことを知っているのか。

《そなたがサブロウ・サカモトであることは、すぐに分かった。なるほど、よう似ておるし……》

 女が言葉を切る。

「おぬしが私の祖先であるというならば、教えていただきたい。このブドウの群は何なのだ。何故ここに人が含まれている」

《そなたの刀と同じく、この樹海では意志の力がすべてを定める。この中では、人は夢を見続けることができる。その夢は意志を司っている。人の意志を具現化せんがため、この樹海、そして葡萄は存在しているのだ》

「何をいっているのかよく分からぬ。が……」

 サブロウは女の言葉が含む意味を考えた。ブドウの中で人々が夢を見ている。それはまあ納得しよう。たしかに幸福そうな笑みを浮かべている者も多かった。だが、悪夢を見ている者もいたようではないか。それに、ブドウの実から出た者は死んでしまった。何のために、そこまでして、夢を見るのか。女とはどういう関係があるのか。

 それにあの人々はブドウの中に捕らわれているのではないのか。サブロウにはそう思われてならなかった。

 そう指摘すると、女の声は笑った。

《然り。葡萄の中に入った者は夢の楽園にとっぷりと浸りきる。だがそこに適合せぬ者もまれにある。そういった者については、悪夢の王国となろう。だが、それをいうのならば、この大地、そなたらが生きるこの世界とて、巨大な牢獄に過ぎぬ。そなたら多くの者どもはそれに気づきもせず、生きているがの》

「牢獄だと」

 サブロウは女の言葉をそのまま返す。

《然り。我らはここに捕らわれている。この大地に降り立った瞬間より。これまで、ずっと。私は――》

 女の声に悲痛なものが混じった。

《帰りたいのだ。そのために、私は夢みる者の力を用いて、意志を用いて、葡萄を創り上げた。私の夢を叶えるために》

「夢、だと」

《私は帰りたいのだ。遠い、故郷へ。我が母なる大地へ。このような牢獄ではなく。見るがいい》

 女の視線を追って、サブロウの目が動く。壁だと思っていたものの一部がゆっくりと開いた。扉、だったらしい。その先は巨大な露台のようになっていて、外の景色が今サブロウがいる場所からも見えた。

 ひたすらな、樹海。

 歩いているうちに、いつの間にか鉄塊のかなり上部まで来ていたらしい。森の天蓋ぎりぎりの辺りまでの高さだった。

《この樹の海。牢獄の中に作った牢獄。この中で私は力を蓄える。そして、故郷へ帰るのだ。穢れた大地を捨て、穢れたものたちを捨てて。この船で私は故郷へ帰るのだ》

「これは船なのか」

 さすがにサブロウは驚いた。中を歩いた感触では、まるでひとつの街のようだった。

《然り。この船より生えている葡萄は、夢を意識を連結させ力を生み出し、集めるもの。私はその力を用いて、故郷へ帰るのだ》

「そのために、この人たちを利用しているというわけか」

 部屋の中にあるブドウの実を見やり、サブロウは怒りが身体の奥からじわりと噴き上がってくるのを感じた。

 何も分からず、ブドウが破れたら死ぬだけの人間たち。

「そもそも、この人たちはどうやって、ここへやってきた。まさか進んでやってきて、ブドウの中に入ったわけではあるまい」

 問いながら、サブロウにはその答が分かっていた。迷いこんだり、追放されたりした人々がいる。家名喪失者のように人間扱いされていない者も多かろう。一度樹海に入った者は、あの痩せ衰えた男たちが、ここへ誘い込む、という仕組みだ。それに、樹海に人が入らぬ、ということになれば、ああいった男たちが外に出て、さらってくるということも考えられる。樹海に怪物が棲む、あるいは樹海から来た怪物に子どもなりがさらわれる、という噂の正体がこれだ。いかにもありそうなことだったし、そうでもしなければあれだけの人数を集め、捕らえることはできまい。

「いかに祖先であろうと、そのような真似、断じて許すわけにはいかぬ」

 サブロウは「雷丸」の切っ先を女に向けた。

《愚かなこと》

 ブドウの皮膜を透かして、女が嘲った。

《そなたが持っているトウシュというあざな……》

 カタナの主、と聞いている。そのあざなを得た者の定めとして、サブロウはカタナを打ち続けてきた。

《そなたは勘違いをしている。否、そなただけではない。そなたの家に伝わるトウシュ、というあざなは》

 女の目は冷たい光を放ちながら、サブロウを見ている。あるいはサブロウに代表される子孫たちを。

《刀の主、ではない。そなたは、私たちを守ってきた護衛。その一族の末裔。すなわち刀持つ舟の一族。そなたは、私たちの側の人間。私を守るべき人間。何故、私に刀を向ける》

「私は、おぬしを守るためにやってきたのではない。おぬしに従うためにやってきのたでもない。おぬしの側で夢を見るためでもない。私は、心に決めたおなごを捜し求めて来たのだ」

《すでにそなたの求める女の心は、壊れておるわ》

 女が笑った。

 瞬間、「雷丸」の刃が燃えた。サブロウの激昂に反応してのことだ。

《そなたの祖たる私に刃を向けるか》

「キヨカどのをどうした――!」

《あの娘もまた、願望と現実の乖離に苦しみ、夢に溺れておる。それだけのこと。所詮栄えある家名を失った者の末。我が夢の糧になるのがせいぜいのところ》

 女の言葉がますますサブロウの怒りを増す。

「斬るっ」

《ほう。あくまでこの私に刀を向けるというのならば、我が護衛の刃を受けることになろう》

 ブドウの中で女が口を歪めた。笑った、ようだった。

 同時に床にあった骨が組み合わさって、立ち上がる。黒い骨の手が突き立ててあったカタナをつかみ、引き抜いた。その動きはぎこちなかったが、虚ろな眼窩がたしかにサブロウを捉えた。

 カタナに光が宿る。

《不肖なる子よ、真なる刀舟の力を受けてみるがいい》

 女の言葉と同時に、トウシュウが動いた。今度は驚くほど滑らかな動きだった。カタナの軌跡を眼で追いつつ、サブロウはそれをかわす。壁の内側にある蔦が数本、斬られて蒸発した。

 手練れだ。

 そうサブロウは判断した。

 だけではない。ブドウの女を守る、という意志が、トウシュウとそのカタナに力を与えている。

 サブロウは「雷丸」をかまえた。彼も、負けるわけにはいかないのだ。覚悟を決めると、たちまち「雷丸」の刃が青白い光に包まれた。

「サブロウ・トウシュ・サカモト、参る」

 光の尾を引きながら、カタナとカタナが激突する。右に左に、上に下に。あらゆる技を駆使して、サブロウは相手のカタナを払い、受け、流し、止め、突き、切り、薙いだ。

 ほとんど互角。

 打ち合いを続けながら、両者の位置はめまぐるしく変わり、気がつくと、先程開いた扉から露台に出ていた。

 露台には柵などない。落ちれば樹海の底まで真っ逆様だ。

 カタナとカタナがぶつかるたび、光が散った。竜を材料にして作り出すサクノ珠がカタナの刃には混じっている。それが持ち主の意志に反応して発光し、カタナを強くする。

 すなわち、カタナとカタナの激突は、意志と意志の激突でもある。

 サブロウとトウシュウの意志がぶつかりあって、火花を散らしているのだ。女を求めるサブロウ、女を守るトウシュウ。

 しかし、生身と骨だけの違いが出た。わずかな隙を突いて、サブロウの「雷丸」がトウシュウの利き手を断ち割った。カタナが落ちたところを見過ごすことなく、サブロウはトウシュウの頭部を撃砕した。

 勝負あった。

 崩れたトウシュウの骨を避けて、サブロウは扉をくぐって中に戻った。

 

 

 6.

 再びサブロウは刃を女に向ける。

「おぬしを許すわけにはいかぬ」

《何故だ》

 ブドウの中で、女は泣いているようにも見えた。また、サブロウを嘲笑しているようにも見えた。

《私は帰りたいだけなのだ》

 女の言葉ははまるで駄々をこねている子どものそれだった。そう思ってよくよく見れば、女はサブロウよりも若く、幼い感じがした。

《それのどこが悪いというのだ、名の意味も忘れた不肖なる子よ》

「人の想いを踏みにじり、人の夢を食いつぶしてまでも自らの想いに執着する。人はそれを――」

 カタナを二度、回転させる。

「妄執というのだ」

 ぴたり、と止めたカタナの切っ先が真っ直ぐに女の方に向けられた。

「己の夢のために、他人の夢を利用し、他人を巻き込み、他人を呑み込み、他人を不幸にしてもよいというのか。己のために、どれほどの人間が狂わされていったと思っている」

 サブロウは船が微妙に揺れだしたのを感じていた。女の不安、恐怖、焦燥に同調しているかのようだった。

 ちらり、と視線を走らせる。先程の扉から外の景色が見えた。明らかに揺れている。

《そんなことは知らぬ。私は私の想いのまま、生きているのみ。皆、そうなのだ。その想いが強い者が勝つ。それだけのこと》

 女が叫ぶ。

《私は、帰りたいだけなのだ――!》

 同時に、揺れが激しくなる。

《見よ、不肖なる子よ、我が船は、我が故郷へと向かい出す》

 先程激闘開いた扉から見える景色がゆっくりと下に動いていた。船が、上昇を開始している。

 サブロウは、声にならぬ悲鳴もまた聞き取っていた。周囲の樹海と絡み合っていたブドウが引きちぎられ、中身を噴き出しながら、落ちていく。それは、同時にたくさんの人間たちの想いが壊れていくことを意味していた。

 サブロウの中に怒りが噴き上げる。

「そこまでして、己の夢をかなえたいか」

《私は、帰りたいだけなのだ。それが何故いけない》

「だが、おぬしのような強い想いや夢を他の者も持っているかもしれぬと何故気づかぬ。おぬしには想いはあっても、思いやりはない」

《私は私だ。他の者など知ったことではない。この世界の中心は私なのだ。私の想いなのだ》

 「雷丸」の刃に文字通りの雷が宿る。

「てめえはもう人間じゃねえ」

 ばちばちと強烈な青白い火花が跳ね狂う刃をサブロウはかまえた。

「叩き斬ってやるぁ」

 カタナを振り上げ、振り下ろす。大ブドウの皮は、他のブドウよりも遙かに弾力に富んでいた。それでも大ブドウの皮膜は破れ、中の液体が噴き出した。

 だが、浅い。

 女の横に控えていた痩せた男が熱線銃の銃口をサブロウに向ける。

 熱線が宙を走った瞬間、サブロウのカタナが動き、それを弾いた。弾いた熱線はまっすぐ男の額を打ち抜いた。倒れる男の指が引き金をさらに動かす。二発目をサブロウはまたも弾く。今度は女のブドウに刺さった。どろりと果汁がさらにこぼれ落ち、女の口が悲鳴を形作る。

 もう一撃、止めをとかまえたところに、横合いから別の何かが飛びかかってきた。

 トウシュウだった。頭部を失っても、まだ自分の使命を果たそうというつもりらしい。

 もつれあいながら、サブロウとトウシュウは、開いた扉から露台に出た。すでにトウシュウはカタナを持っていない。丸腰だったが、それでも扉とサブロウの間に立ちはだかる。

「哀れな……」

 サブロウは、もはやトウシュウが妄執のみで動いていることを察していた。否、実際にはトウシュウの意志など滅んでいる。骨だけの身体を動かしているのは、意志の抜け殻、残りかすにすぎない。

「そうまでして己を貫くか」

 「雷丸」をかまえ、何の引っかけもなく、真っ向から振り下ろした。

 背骨に沿って左右に分かれたトウシュウの身体は、「雷丸」の力によって燃え落ちた。

 だが、トウシュウは、時間を稼いだ。サブロウは扉に向かって走ったが、扉は閉まり出す。

 船は鳴動を止めない。

 樹海全体が騒いでいる。そう、サブロウには思えた。樹海が、巻きつけた蔦で去ろうとする船を留めようとしているようだった。だが、船の力の方が強力で、あちこちで蔦の引きちぎれる太い音がしていた。

 あと少しで手が届く、というところで扉の隙間から見えたのは、痩せた男の銃口がこちらを向いている光景。男の首はがくりと垂れ、表情は隠れている。

 サブロウは身を捻った。熱線がかすめて、痛みが走る。

 瞬間、扉が閉まった。

 揺れは次第に激しくなる。サブロウは「雷丸」を床に突き立てて、姿勢を保った。が、それにも限界があった。

 露台は今や変形を開始し、船の翼へと変わろうとしていた。

 カタナが不意に抜け、サブロウはそこから転がり落ちた。

 落ちながらサブロウは見た。樹海の天蓋が船によって破られていく。そこから降り注ぐ梅雨の土砂降りや、折れた枝などによって船外にある無数のブドウが次々に傷つけられ、引きちぎられ、裂かれ、落ちて行く光景だった。

 

 

 7.

 気を失っていたのは、わずかな時間だったらしい。カタナの刃にべっとりと付着した粘液も雨に流れきってはいなかった。

 痛みに顔をしかめる。腕が折れていた。落ちたときにやってしまったらしい。

 激痛を意志の力で押さえ込み、サブロウは、天を見上げた。

 森の天蓋は破られ、激しい雨が降り注いでくる。

 木々に切り取られた視界の中に、しかし目指すものは見つからなかった。

 船は行ってしまったのか。

 ふと周囲を見回すと、船のあった場所が広大な空き地になっている。樹海に開いた広い穴だ。そこかしこにブドウという楽園から追い出された死体が転がっていた。冷たいツユの激しい雨は容赦なく彼らを打ちのめす。

 キヨカの姿は、ない。

 のろのろとサブロウは立ち上がった。転がっていた自分の破れ傘を拾う。

 まだ、彼にはやるべきことが残っている。

「キヨカ……どの」

 彼女はまだ生きているはずだ。サブロウはそう信じている。

 探さなければならない。

 彼の意志が彼を動かす。彼の意志は終わってはいなかった。

 サブロウにとっての樹海の夢はまだ覚めてはいない。

 

Ver.1.4. 2000.7.10.

 

「樹海の夢」へ

その他TOPへ

天野景TOPへ