Keep On Running

天野 景

 

プロローグ:古い写真 ふと見つけ

「これ、塚本くんだよね」

 示されたそれは卒業アルバムだ。

 いつもと変わらない朝、一限の授業前。

 ゴールデンウィークも明け、ようやく新入生も大学生活に慣れてきた頃のこと。さすがに授業で一緒になる学生とも顔見知りや友人が増えてくる。

 俺は、同じ文藝部に入った七森や幼なじみの京子と部誌を広げ、バカ話中。

 そこへ、呼び声が来る。

 女連中が数人集まって、卒業アルバムを見てたらしい。みんなで持ち寄ってるわけだ。

「ん」

 俺は席を立って、彼女らの方へ向かう。

 間違いない。北高のアルバムだ。てことは、

「待てこら」

 そろそろとその場から逃げ出そうとしてた女の襟を引っ捕まえる。

「ど・こ・行くのかな、茶園クン」

「いや、そりゃその、あははは。コーちゃん、女の子にはね、人にいえない秘密があるのよ」

 ちょっとばかし引きつった笑いを見せ、まん丸メガネの奥で目を反らしてるのは、北高からの同級生茶園朋美。

「ねえねえ、何でこんな顔してるの?」

 俺たちの間に流れる緊張感に気づかないのか、そいつが示したのはクラスの集合写真。よく晴れた夏の一日に撮ったものだ。バックには青空を切り取る 形で、大きな黒っぽい城がどかんと立ってる。烏城とも呼ばれるK市のシンボルだ。後列真ん中辺りに立ってるのが俺。隣のヤローと肩を組んで笑ってる。

 おそらく問題になっているのは、その男と俺の顔がなかなか豪快にボロボロになってることだろう。絆創膏があちこちにくっつき、隣の頭には包帯が巻 かれてるし、顔は腫れ上がって、目の辺りなど青あざになってる。

 それでも俺たちは笑っていた。

「ん、まあその何だ。階段で転んだんだ、ということにしておいてもらえるとありがたいと思う今日この頃なんだが如何に」

 俺は言葉を濁す。

 相手はあまり納得してるようには見えない。

 当然だろう。何が悲しゅうて、男二人階段で転ばにゃならんのか。それにこれだと顔から落ちたことになんじゃないか。ホントだったらかなりマヌケな 話だ。

「ま、いろいろあったのよ。若いっていいやね」

 アホのような言葉を継ぎ足す。ジト目で彼女らは見てたが、やがて興味を他へ移したらしい。アルバムのページがめくられる。

「認めたくないものだな、自分自身の、若さゆえの過ちというものを」

 俺はこっそり付け加える。

 アルバムにはグループ写真も載ってる。俺も、仲の良かったバカな友人どもと写ってる。今首根っこ捕まえている茶園もそうだし、さっきまでしゃべっ てた幼なじみの京子も同じだ。後は、集合写真でブサイクな面になってたバカ男と、他二人ほど。

 何人かあちこちにバラけはしたが、ついこないだゴールデンウィークに集まったばかりだ。今でも仲がいい。というよりも、その前最後に会ってからほ んの一ヶ月くらいでそう変わるはずもない。

 俺は写真を撮った、あの夏をふと思い出す。みんなバカで、何より若かった。

 だが、回想に入る前に、忘れずにしとくことがある。

「ちょ、ちょっとコーちゃん、その手は何? 何? 何?」

 昔の写真なぞ持ってきたバカ女の額に――

「痛ぁ〜っ」

 思い切りデコピンをかます。

 

 

1:思わずさ 懐かしさ 甦ってくるよ

 当時、といってもまだ一年経ってないわけだが、たったそれっぽっちの時間の経過で、見えてくるもんもある。人間は日々成長してるのだ。マイナス成 長という言葉もあるが、それはこの際考慮に入れないことにする。

 振り返ることのできる時期になってからは懐かしい話なのだが、当時は真剣であり、人並みに落ち込んだりもしたけれど、今は元気だ。

 問題は、結局のところ、単純だった。もちろん、単純だからって、簡単に解決できるとは限らないところがミソだ。それが人生ってやつだ。ほわっつ・ あ・わんだふる・らいふ。いかん、何だか表現に茶園が感染してるか。

 つまるところ、それは男と女の問題であり、人間と人間のコミュニケーションの問題だった。

 状況を少し整理してみようか。

 一年のとき、俺とツカサと城山は同じクラスだった。ツカサと城山は中学からの同級生と来ている。

 俺とツカサは仲のいい友人となり、三年間を通してずっと同じクラスだった。

 北高のシステムでは、一年のときには芸術や格技によってクラス分けされる。二年では、それがさらに文系理系に分かれ、三年になるとそれぞれが国公 立と私立に枝分かれする。このシステムだと、ごく単純に考えて、一クラス四十人としても三年間同じクラスになる者が十人くらいいる結果となる。

 俺たちは国公立文系だった。城山は国公立の理系。つまり、二年のときからクラスが分かれた。

 どこをどう間違ったものか、俺と城山は二年のときから付き合うようになった。仲介をしたのは、ツカサだ。

 これがまた困ったことに、俺はツカサが城山にヒソカな好意を寄せていることを知っていた。かてて加えて、ツカサは俺がそれを知っているってことを 知っていた。それでも告白の仲介をし、その上祝福するなんていう、外見はちょっとばかしコワモテのする男だが、底なしのバカで、いいやつだった。

「ツカ、こいつがお前のこと好きなんだと。ほら、お前も後ろに隠れてないでさ」

 二年の頭だ。俺はツカサに呼び出された。そこで城山に改めて引き合わされ、告白を受けたのだった。

 ここまでが前置きであり、状況設定だ。

 

 

2:ガムシャラで ムコウミズ

 ちょいと俺自身のことを考えてみよう。俺は問題の当事者であり、それが俺の性格に起因している部分もあるからだ。

 北高は進学校であり、結構偏差値は高い方だ。その中で俺は定期試験の結果などで上位者として張り出されることが多かった。

 しかし、俺は、自分のことを頭がいいなんて思ったことは一度もない。むしろ、バカな方だと思ってる。

 ただ、自分がバカだってことを知ってて、そこから這い上がろうとして、知識を吸収してる、と自覚してただけだ。バカだバカだといっているだけで、 そこを脱しようと努力もしなければ、それこそ一生バカのままだ。ある日突然機械仕掛けの神が舞い降りて来て、バカどもを救ってくれるなんて御都合主義が現 実にあるわきゃない。たとえそんなことがあるにせよ、俺だったら、自力で神さんのところまで上がって、引きずり下ろしてやる。

 俺にとって、どんなことでも学ぶのは楽しかった。学校の勉強が面白くない、なんて奴がよくいる。だが、俺にはそれがよく分からない。自分の知らな いことを知る、ってのは面白いことじゃないか。自分がバカから一歩一歩レベルアップしていく、ってのは喜びじゃないのか。受験勉強、なんて考えるからよく ない。機械的にやったり、義務感に縛られるとろくなことにならない。楽しもうと思えば、いくらでも楽しめるものだ。現に俺がそうだったんだから。これはア タリの先生にわりと恵まれたからこそいえるのかもしれない。世の中にはしょーもない先生、やる気を削ぐような先生だっている。そういう相手にアタったとき には、それはそれで自分で何かしら勝手にやっていたもんだ。自分で考えて判断できないやつには、脳ミソなんていらんだろう。

 もちろん、ひょっとしたらコワれているのは、俺の方だってこともありえる。周囲を見回してみるに、その可能性は低いもんじゃあるまい。まあ、俺は 気にするような性格をしてはいないから、自分がコワれてたって一向にかまわん。

 ところで俺には、とあるささやかな野望があった。今もそれは変わってない。ただ、その野望を達成するのがちと難しい。

 そのためにも知識がまず必要だった。高校生なんてもんは、本人にしてみればもう大人だと思いがちだが、大人から見ればまだまだガキなのだ。知って るべきことを知らない。知らないことがあまりにも多すぎる。しかも自分が何を知っていて、何を知らないか、を知らない。

 だから、俺は知りたかった。手当たり次第いろんなものを見、いろんなことを聞き、いろんなものを読み、自分なりに考え、消化し、その中で有益なも のを得ようとした。

 知識とは、例えが悪いかもしれないが、カードみたいなもんだ。それを使って役を作る。手札が貧弱であれば、できる役にも制限がかかってくるはず だ。手元のカードを使って役に持っていく作り方、場の組み立て方が、知恵であり経験だろう。知恵やら経験やらがあれば、どんなカードだってそこそこのもの を作り出すこともできるだろうさ。しかし、その知恵も経験もないなら、まずいいカードを集めることから始めなきゃいかん。

 そのために、何をすべきか。俺はひたすら本を読み漁り、人の話を聞きまくり、知識を吸収したんである。

 高校生にしかできないこと、ってのもある。だから友達と遊んだりするのも大事だ、てな話だ。

 なるほどそいつはそいつでもっともなことだ。だがそれを免罪符に授業や勉強を放り出していいということにはならんだろう。

 俺は、授業中はひたすら集中して、やるべきことをやった。休み時間には全力を傾けて遊んだ。放課後は遊び、宿題をし、本を読んだ。そういう意味で は、俺は非常に欲張りだったのかもしれない。

 まあ、俺にしてみればやることやったという、ただ、それだけのことだ。高校生程度のレベルでは、完璧に、とは行かないまでも、おおよそ、そこそこ のラインをクリアすることはさほど難しくはない。要は集中と持続の二つだ。集中とリラックスのリズムをひたすら持続すること。何でも同じだ。集中しっぱな しじゃいずれ切れるし、リラックスしっぱなしじゃ効率はアップしない。

 てなわけで俺からすれば、すべて自然にやるべきときにやるべきことをやるべきようにやっているだけで、すごいことでも何でもない。むしろ、そうで ない人間の方が俺には不思議だった。十年の目標を達するために、一年ごとの小さな目標を定める。さらにそれを達成するために一ヶ月ごとの計画を決めてい く。たったそれだけのことだ。

 俺の生活には、俺的優先順位があり、それに従って行動規範が決められていた。ためにならない、と思ったら容赦なく切り捨てるだけのことはできた。 今は勉強すべきだと思ったら、遊びの誘惑をすっぱり断ち切ったし、遊びの優先度が高ければ遊んだ。考えようによっては、非常にシステマチックで、冷たい感 じがするのかもしれない。だが、俺は俺なりに楽しくやってた、と思ってる。

 そこに入ってきたのが、城山だった。

 

 

3:今日君と いられること

 ウィンタースポーツの好きな両親が出会ったのが、雪の日、雪山だったそうな。安易といえば安易だが、彼女にはいかにもふさわしい名前だ。しかも生 まれた日まで冬で、雪が舞っていたときてる。

 城山雪。

 それが、彼女の名だ。

 どうして俺を好きになったのか、付き合うようになってから聞いたことがある。「一年生の最初の頃、研修があったでしょう」と彼女が答えた。たしか に覚えている。何やら苛酷なオリエンテーリングなどあった。岩山の上にチェックポイントのひとつがあったのだが、俺たちの班は、反対側にちゃんとした道が あるのに気づかず、裏からロッククライミングする羽目に。なるほどハードだ。「オリエンテーリングで私が足を捻挫したとき」そんなこともあった。「塚本く ん、何もいわずに助けてくれたでしょう」それがきっかけ、らしい。彼女は静かに微笑んだ。

 俺的には、別に意識してやったことではなかったが、たしかに最後ゴールするまで城山をおぶっていたような記憶がある。

 きっかけはそれだったらしいんだが、城山は同じクラスにいた間は告白するだけの勇気がなかったのだという。たしかにツカサを仲介してきたのは、別 クラスになった二年のときだ。にしても、水臭いといえば水臭い。一年のとき、別に話をしないわけじゃなかったし、俺は普通にしゃべったりしていたのであ る。

 静かな雰囲気の女で、少々シャイなとこがあった。しかし、俺はそんな雰囲気がキライではなかった。むしろ、城山と話していると楽しかった。俺の周 囲には、女っ気がなかったわけじゃない。仲のいい女はどっちかというと多かった方だろう。別にうぬぼれでも何でもない。だが、その反面、八方美人的なとこ ろがあり、彼女にする、とまではいったことがなかった。

 ツカサや俺と仲のいい友人で、新田ってのがいる。この男、妙なやつで、さすらいのハーモニカ使いを自称する。何がさすらいなのかよく分からんが、 一年の自己紹介の折り、ポケットから取り出したハーモニカを吹きまくったこともあった。その新田には彼女がいる。中学からの付き合いで、この女も三年間俺 たちと同じクラスだった。板崎という名字を縮めて、ザキ。女バスのエースだ。この二人、べたべたするわけでもない。それぞれよくひとりでうろちょろしてる し、だからといって仲が悪いわけじゃない。性格は正反対だ。文化系の新田はのほほんとしているし、ザキは体育会系のノリでしゃきしゃきしてる。それでも自 然に、付き合ってる。そういう形もあるもんだ、と俺はこいつらに会って初めて思った。

 かといって、他の独り身の連中のうち、幾人かがそうしていたように、彼女を作るためにがっついた真似をするわけじゃなかった。特に彼女にする、と まで思う女が周囲にいなかったのだろう。

 例えば、幼なじみの京子は、同い年の姉みたいなもんだ。時として妹みたいだが。そうでなければ、同志、という感じの友人だ。

 一年のときからよくツルんでる茶園は、同い年の弟みたいなもんだ。女だと意識したことはまったくない。

 城山は別だ。二年のときに、別になった。

 何故、城山だったんだろう。人が人を好きになる場合、自分に似ているか、まったく逆かのどちらかが多いと聞いたことがある。俺の場合、たしかにツ ルんで楽しいのは、明るく元気なタイプだろう。しかし、一緒にいて心が安らかになる、というのとはちょっと違うと思う。何となく一緒の空気の中で呼吸を し、生きている、という感じの方が、俺は落ち着くようだった。単に大人しい、というんじゃなくて、ともにいると和む、てなタイプでだ。

 俺の優先順位は多少変更をきたし、城山に関するものがかなりの上位に来た。最上位は野望の達成に関することだ。冷たい、と他人は思うかもしれない が、ほぼこれと同格に並んだ、というだけでも俺にしてみりゃ城山の存在の大きかったわけだ。

 実際、キザな表現を使うなら、俺の運命の糸と、城山の糸が結ばれた、という感じさえあった。

 休みになると、城山と遊びに出かけたりした。城山は臆するのか、自分からデートに誘うことはなかったし、何か強く望むということが少なかった。む しろ、俺の方が熱心だった。

 大人しい女だった。といって、奥の奥までそうだったとはいえない。なかなか自分を出さない女だったってことだ。まあ、誰かしら、そんな部分はある だろう。精神的露出狂なんてのは、そういるもんじゃない。

 俺たちは、休みのたびに遊んで、夜は夜で長電話したりした。それでも、俺はやるべきことはやってた。成績を落とすようなマネはしなかったし、遊び と同じくらい集中して勉強もやった。もちろん、前と比べたら、絶対的な時間は多少削られはしたが、城山との付き合いの中から得るもので、差し引きプラスに なったと思っている。

 そのうちに、城山は最初なかなかいえなかったようなことを口にするようになってきた。これはまあ、俺が信頼されてき、彼女が心を開いてきた、って いうことだろう。

 俺の方も、おそらく同様だったと思っている。

 俺のささやかな野望についても、少し語ったことがある。

 あれは、彼女を家まで送っていった夜のこと。何となく別れるのが惜しくて、家の門のところでしゃべっていた。

 俺の野望、ってのは、あるひとつの物語を書くことだ。

 それは、ずいぶん昔に夢見た物語。

 たったそれだけなんだが、これがまた俺的には非常に難しい。十数年をかけて練り上げてきた話だ。まだ足りない、と思ってる。何度か書きかけはした ものの、満足いかずに、書き直しの連続だ。死ぬまでに書けるかどうかって気はしてるし、一生の課題にする覚悟もある。心技体すべてが揃わないと難しかろ う。中途半端な形には絶対したくない。

 ぽつり、ぽつり、と話す俺の言葉を、彼女は熱心に聞いてくれた。

 嬉しかった。

 彼女も自分の夢を語ってくれた。

 イギリス留学。

「お兄ちゃんとよく話したの」

 と彼女はいう。その兄は、高校に上がった頃、数年前交通事故で亡くなったらしい。

 兄と妹は、小さい頃からイギリスの童話、アイルランドの民話などが好きだったのだという。小さい頃にはそれがイギリスやアイルランドのものだとは 分からなかったし、さらにアイルランドとイギリスの関係も知らなかった。

 いつの間にか、イギリスに対する憧れは強くなり、いつかかの国に留学するつもりだという。英語は好きだったし、ラジオ放送などで勉強もしているっ てのは聞いてたが、留学の夢とつながってたのか、と謎が解けた思いだった。

 それぞれの夢を語った晩のことは、今でも覚えている。空が高く、星がとても綺麗だったっけ。

 

 

4:今日君と いられること/あしたには もうすでに 過去になってしまう

 約四百日。

 それが俺と城山の付き合った時間だった。

 破局は徐々に訪れていたんだろうけど、俺にはなかなか分からなかった。分かったときには決定的になってた。

 俺を愕然とさせた言葉が、城山によって発せられたんだ。三年生の、六月の終わり頃だったか。

「塚本くんは、勉強できるし、頭がいいからいいよね」

 大学への進路の話をしていたときのことだ。どうやら、彼女は進学のことやら勉強のことで少し行き詰まりを感じてたらしい。その文脈で出てきた言葉 だ。

 何気ない言葉。だが、それは俺の中に突き刺さった。

 別に俺は頭がいいとは思っちゃいない。ただ授業やテストに備えて、それなりのことをやってただけのことだ。それにどの大学を受験するか、俺が悩ん でいなかったわけじゃない。どういった研究をやってる先生が、どの大学にいて、その大学に入るためにはどれくらいの成績が必要で……等々、俺なりに情報収 集、分析に努め、そのために何をすればいいのか考えているとこだった。

 俺は俺なりに悩んでいたのであり、それは城山のものとは違ってたかもしれないが、悩みは悩みだ。それを、「頭がいい」の一言ですまされた。

 だから、かちんときた。

 後になって思えば、このとき気に障ったのは、城山の言葉そのものじゃなかったのかもしれない。

 彼女は、俺を理解していなかった。俺は、そのことに気づいた。気づいてしまった。今まで多くの時を過ごし、言葉を交わし、あるいは肌を重ねてき た。それでもお互いを理解することはかなわなかった。

 この時期、城山は勉強のことだけじゃなく、家庭内での問題まで抱え込んでいた。彼女の兄は高校のときに事故死した。その辺りから、両親の仲が冷え てきていて、離婚寸前だったらしい。だけではなく、父親の転勤の話までくっついてきており、城山を引き取る引き取らないで揉めていたようだ。こういったこ とは、城山が俺の前からいなくなった後で、ツカサから聞いたことだった。

 俺は、何も知らなかった。切り出しにくかったのかもしれない。俺に負担をかけたくなかったのかもしれない。

 約四百日。

 学校なども含めて、一日の四分の一をともに過ごしたとしても、864万秒。充分と見るか、足りないと見るか。

 俺もまた、彼女のことを理解していなかったのだ。短絡的と人はいうかもしれないが、俺にとっては十分すぎるほどミゾができるきっかけになった。

 二人の齟齬は次第に大きくなった。もしもっと年を重ねていたなら、大人だったなら、違った展開を見せたかもしれない。

 だが、俺たちは、耐えられなかった。

 ちょっしたことで口喧嘩が多くなった。その中で、彼女が俺を死んだ兄と重ねていることを知った。彼女を見守ってくれる存在、支えてくれる兄のよう な男。それが彼女の理想だったんだろう。

 結局、俺が見ていたのは、俺が見ていたかった彼女なのだ。同じように、彼女が見ていたのは俺じゃなくて、彼女が見ていたかった俺だ。鏡に映った自 分の理想であり、相手そのものじゃない。

 お互いの姿を見ようとしてなかった。そこに現実と幻想のズレが生じた。そのギャップが見えたときには、手遅れだ。

 人の運命を糸にたとえることがある。俺たち二人の糸は、すでに結ばれるのでもなく、交わるのでもなく、寄り添うのでさえなく、絡み合ってほどけな くなってしまったのだ。いわゆる、お祭り状態。もつれあった二人の糸を簡単にほどいて、元のすっきりした状態に戻すことは不可能に近かった。そこまで俺た ちは来てしまってた。

「別れよう」

 切り出したのは、俺だった。このまま付き合ってても、どちらのためにもならない。そう判断してのことだった。俺は彼女を傷つけるだけだろうし、彼 女は俺を傷つけるだろう。真に理解することがあるとしても、それまでは。

 城山は泣いた。

 俺も、泣いた。

 ぽっかりと胸に穴が空いた気分だった。存在の一部をもぎ取られてしまったような喪失感だった。

 夏休みになって、彼女は父親とともに、引っ越していった。遠くへ、他県へ。

 俺には分からなかった。果たして、俺はどうすべきだったのか。あれで良かったのか。ベストな言葉、態度、そういったものがどこかにあったんじゃな いか。しかし、答は俺には見えなかった。

 いつかまた、城山に会えるときが来たら、その答は見つかるだろうか。見つかってるだろうか。

 いつかまた、俺たちは笑って話し合えるだろうか。そんな日が来るんだろうか。

 俺には分からなかった。

 

 

5:とにかくさ ひたむきに 走っていたんだ

 城山と別れた翌日は土曜だった。集中力に欠けたまま午前中をこなし、気乗りしないまま昼飯を食い、ぼんやりと自分の席で午後課外の準備などしてる と、ツカサがやってきた。

 ツカサは俺を睨み下ろした。

「塚本、ちょっと付き合え」

 くいっ、と顎で外を示す。なるほど、城山の騎士殿のお出まし、というわけだ。心が急速に引き締まってく。

「分かった」

 言葉少なに立ち上がり、後に続く。

「あれ、どこ行くのさ」

 ドアの所で、ザキとぶつかりそうになった。ハーモニカ使い新田の彼女だ。ツカサは何もいわずに、ザキの横をすり抜けた。

「もうセンセがそこまで来てるよ。さっきこっち来るの見かけた――」

 俺の表情に何を感じ取ったものか、ザキは口をつぐみ、大人しく道を空けた。

 玄関を抜け、外に出る。辿り着いた先は、入り口から見ると掘り下げになってる駐輪場。しかし周りの土地に段差があるため、採光はいい。上はドーム 付きハンドボール場になっていて、隣はテニスコートだ。

 課外が始まろうという時間帯のせいで、他に誰もいない。珍しくテニス部もやってなかった。

 ズラリと自転車が並んだ三年生の区画を通り抜ける。土曜課外のない一、二年のスペースはちらほらと自転車があるだけで、だだっ広い空間が広がって いる。ここは邪魔も入りにくい。

「分かってるな、塚本」

 前を歩いてたツカサが振り返った。

 対峙。

「もちろんだ、千堂」

 いきなり、ツカサの拳が顔に入った。俺は歯を食いしばって、一撃に耐えた。

「来いよ」

 両手を広げて、ツカサ。

 俺は少しばかり血の混じった唾を吐き捨て、殴りかかった。

「この、バカ猿がっ」

 ツカサもまともに一発食らってよろめいた。

 一旦距離を置く。

 課外の始まりを告げるチャイムが鳴った。それが、俺たちのゴングだ。

 俺は三段跳びのように踏み込み、両手をツカサの肩に置いた。ぐい、と引き寄せざまに膝を飛ばし、思い切り腹に叩き込む。さらにツカサの後頭部に肘 を打ち込もうとして、一瞬ためらった。

 傷が見えたからだ。

 俺はこの傷を覚えている。二年の体育でラグビーをやったときのこと。俺たちは同じチームだった。同じ相手に同時に左右から猛烈なタックルに行っ た。結果、左右から俺たちは敵の足下で、強烈極まりないカウンターで頭突きをかましあった。目の前に星が散る、というマンガ的表現が実は正しかったことを 俺は知った。俺は右目の上がぼこりと腫れ上がっただけだったが、ツカサは六針縫う怪我をした。「大丈夫か、ツカ」血をだらだら流しながら、ツカサが立ち上 がり、ふらふらしていた俺に手を貸してくれた。

 そのときの、傷だ。

 一瞬のためらいの後、力一杯肘を落としたときには、すでにツカサの頭はそこにはない。姿勢を低くしたヤローは、そのまま俺を押し倒した。

 粗いアスファルトに背中をしたたかにぶつけ、息が詰まった。ツカサは俺をひっくり返し、足を取った。

 スコーピオン・デスロック。いわゆる、サソリ固め。

「アホか、このバカ猿がっ」

 足をバタつかせると同時に上半身を捻って手を振り回し、殴る。手が緩んだところを、俺は抜け出した。

 立ち上がって、また向き合う。

 俺から動いた。

「死ねや、バカ猿」

 右の回し蹴りで腹を狙った。ツカサは防御の構えを取った。

 フェイント。俺はそのまま足を空振り、右足をアスファルトに付き、勢いそのままでローリングソバットに移行。揺さぶりで空いたツカサの腹に左足を ぶち込む。

 ツカサは腹に当たった俺の足を抱え、右足を刈った。

 洒落にならん。俺は見事にすっ転んだ。

「おら、立て、ツカ」

 いつの間にか、呼び方が元に戻っている。

 俺は立ち上がって、唾を吐いた。混じった血の量が少し増えている。

「行くぞ、ツカサ」

 暗黙の諒解でもあるかのように、俺たちは交互に殴り合った。一発一発が重い。想いの込められた拳だった。

 ツカサは、俺たちの事情を知っている。

 俺は、ツカサの感情を知っている。

 だから、殴り合った。お互いの痛み。自分の痛み。殴り合うことでしか、語れないことがある。少なくとも俺たちは不器用で、それしかなかったのだろ う。何発も何発も、俺たちは拳を交わし、受け合った。

 俺たちもまた、他に答を見つけることができなかったのだ。思えば、俺とヤローもお祭り状態だったんだろう。

 気がつけば、ツカサは大の字になって倒れ、俺は俺でハンドボール場を支える柱にもたれて座り込んでいた。

 息が荒い。殴られた顔だけじゃなく、全身が熱くて、疼いてた。

 多分、心も熱く、疼いてた。痛みで。

「おい、生きてっか、ツカサ」

「当たり前だ」

「……すまんな」

「……何がだ」

「いろいろと、だ」

「……ふん」

 たったそれだけの会話。俺たちは拳で語った。だから、それほど言葉はいらなかった。そう思った。

 

 

6:Everytime Keep on running

「課外、サボっちまったな」

「荷物置いてきたままだぞ。まだ終わるのにゃ時間がある」

「置いて帰るか、別に大したもん入ってないだろ」

「一応取りに行くか。今日千歳サンの課外だったろ、心配してっかもしれねえぞ」

 二人してよろめきながら駐輪場を出ると、ハーモニカの音が聞こえてきた。俺たちは顔を見合わせる。

「新田だ」

 聞き覚えのある曲だった。俺はつい口ずさむ。‘Let it be’だ。

 

And when the broken hearted people

Living in the world agree

There will be an answer

Let it be

For though they may be parted

There is still a chance that they will see

There will be an answer

Let it be

 

 ビートルズのナンバーが心に染みた。

 それから曲は、アップテンポのものになった。曲名は忘れたが、ザキがカラオケでよく歌ってるやつだ。おそらく彼女に聞かせるために、レパートリー を増やしてるんだろう。実際、一年のときよりも格段に曲は増えてる。頭の中でザキの声が曲にオーバーラップする。

 

Everyday Time is going 空を見れば

Everytime Keep on running 今日も青い

そう 今ここで伝えたい

まだまだゴールじゃない

 

 校舎玄関口の階段に腰掛け、新田がハーモニカを吹いてた。変な光景だ。やつは、こっちに気づくとハーモニカを口から離した。

「遅いよ」

「何してやがる」

 ハーモニカを二度ほど振って、新田はそれをしまった。

「せっかく荷物持ってきてあげたのにさ。七森センセにも断っといたよ」

 たしかに新田の足下に三人分の鞄が置いてある。

「お、こりゃすまんの、新田先生」

「悪い悪い」

「別にいいけどね」

 新田は、それから俺たちの顔をまじまじと見つめた。

「それよりいいの? 明日、アルバムの撮影っしょ」

 ツカサの顔には青あざあり、たんこぶあり、擦り傷あり。ひどいもんだ。俺も人のことはいえないだろうが。

 俺とツカサは顔を見合わせ、同時に噴き出した。ホームルームで、翌日の日曜、俺たちは卒業アルバムの集合写真を撮ることになったんだった。そのこ とをすっかり忘れてた。

 二人とも、考えなしだ。

 釣られて、新田も笑う。

 三人して涙が出るくらい笑った。

「課外もサボっちまったことだし、北熊でラーメンでも食ってかねえか」

「いいねえ」

「じゃあ、新田のオゴりだな」

「ちょっと何でまた。俺は鞄持って待ってたんだよ」

「ハーモニカ練習するついでだったじゃねえか。いいだろ」

 新田は腕組みをし、俺たちの顔を交互に眺めた後、わざとらしく溜息をついた。

「……分かったよ。昨日バイト代入ったばかりだし。でも、今度はオゴってよね」

「そのうちな」

「気が向いたらな」

 俺たちは自転車を取りに駐輪場に戻った。そして、吸い込まれそうなくらい鮮やかな夏空の下、俺たちは北熊方面に突撃した。

 翌日の日曜日、担任の千歳サンが連絡し忘れていたせいで、俺たちは全員私服で集まった。クラス写真や集合写真を私服でやったのは、俺たちのクラス だけだった。

 もちろん、俺とツカサはぼこぼこの顔で写った。

 それでも俺たちは肩を組み、笑っていた。

 この日も、空がやけに青かったのを覚えてる。

 

 

エピローグ:Everyday Time is flying

Toバカ猿

 まだ生きてやがるか?

 ゴールデンウィークんときの写真ができたのでくれてやる。写真代はいらん。ただ、次戻ってくるときに全財産土産に注ぎ込んで来い。

 そうそう、夏には城山も引っ張って来い。せっかく同じ大学なんだからよ。他のバカどもも会いたがっている。遠慮することはねえ。何だったら、お前 はいらん。ただしその場合、土産は事前に送るように。

 楽しみにしている。

 じゃ、またな。

From俺様

 

B.G.M.:‘Keep On Running’by M. Nagai

&       

‘LET IT BE’by THE BEATLES

 

Ver.1.5. 2000.3.11.
Ver.1.5b. 2004.6.13.

 

 

もう「螺旋の時」を読んだ物好きはこっちへ。

まだなら、次はこっちだ。

ひとつよろしく。


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