2016年4月。


中旬。


 まあ、こう思うわけですよ。これ読んでる人が、今この4月中旬のネタに何を期待しているのかと。うん、あれですよね、あれ。


 てなわけで、地震の話。つーか、それ以外書いてもどうかという気もするわけでございます。まあ掲示板にも書きましたが、生存報告も兼ねましてつらつらと展開させてみましょうかねえ。ただし、注意点としまして、あくまで個人的な感想です。付け加えて、わりと恵まれた位置にいます


 4月14日。この日は、昼から肉体労働系のミッションが入っておりましてね。翌日は早くからトークに鳥栖市に行かなければならないので、細かい依頼書を持って肉体労働に入りました。へとへとになって、この日は直帰。直帰するために翌日の依頼書をあらかじめもらってたのですな。んで、9時過ぎに帰宅しまして、シャワーを浴びてる真っ最中。


 21:26、1発目襲来


 うわんうわん横揺れしまくって、とりあえずバスタオル巻いて風呂場から出ました。横揺れはしばらくしたら止まりました。着替えて、テレビ点けて、ようやく今の地震がめちゃめちゃ大きかったと知る。大地震。この日は父親は外泊、母親と祖母がいました。家の中をざっくり点検。私の部屋は本が雪崩を起こしてえらいことになっておりました。うーん。まあ、メシ食うか。晩御飯を食らっていると、友達からがんがんメールが舞い込んできたので、メシ食いながら返信。同時にニュースも見ていく。思ったよりもかなりひどい地震のようで、こっちからも近場の友達や先輩などにメールしまくる。


 この日から数日、一番よく書いたメールの文章。「こっち大丈夫。そっち大丈夫?」一番親しい系の、例えば月イチのペーパー読んでるような研究室がらみの人たちのほとんどと連絡が付く。ほとんど? そう3人ほど連絡がつかず、ひとりは多分猛烈に忙しいんだろう。つーか、メールが弾かれる。地震のせいか。あと2人は自宅の電話。かけるのを遠慮していた次第。


 で、寝るためにベッドの上に散乱してるといいますか存在を主張しまくっております本を片付け始める。いくつものタワーを再構成し、どうにかベッドを寝れる状態にした途端、ぐらぐらぐら。余震。積み上げたものがまた崩壊する。ぐわ。つーか、えらく余震が多い。これは、本の片付けは今やってもダメな気がする。ので、放置。2Fの自室で寝るのを諦め、1Fの茶の間に下りる。母親もそこで寝るといっているので、テレビを点け、電気を点けたまま、毛布をかぶって横になる。テレビが頻繁に情報を繰り返す。時々メールが来る。送り返す。うとうとしそうになっては、余震で目を覚ます。ひどい夜。


 4月15日。鳥栖に行くために使用する高速の一部が使えないことは前もって分かっておりました。ものすごい朝っぱらから、鳥栖へ向かう。南関インターまで下の道を通り、そっから高速で鳥栖へ。ミッション現場にかなり早く到着したので、待ち時間の間、連絡のついてない3人に連絡を試みる。つーか、2人は自宅直電。ひとりは大学の先生だったのですが、何事もなかったようで。もうひとりは先輩で、こちらも問題なさそう。ただ、職場が南の方なので、高速使えないのがイタイとこぼしておられた。ひとり連絡がつく都度、他のメンツに安否情報を回す。で、最後のひとり。この人、猛烈に忙しいんだろうと書きましたが、放送関係の仕事をされてるはずなので、多分中継とか行ってる可能性が高いのです。ケータイがつながらなかったので、ショートメールを送る。しばらくしたら安否情報が送り返されてきたので、問題なしと判断。「〇〇さん確認。これでフルコンプ」というメールを皆に回しておく。


 鳥栖のミッションを終え、次は福岡市内へ。そこでもトークを終えた後、前日と同じ作業系ミッションに入るため、熊本市西区を目指す。が、前日と違う点としまして、高速が南関インターまでしか通ってない。うーん、下の道行くしかないか。南関までしか通ってない時点で、渋滞は覚悟の上ですよ。高速をひたすら飛ばして南関付近。渋滞中。まあ、熊本以南を目指す車みんなここで下りるわけですよ。そりゃ混むわいな。みんなして走行車線に並んでいると、何やらバスやら一部の車が追い越し車線を走り出す。うわ、これ、多分前方で割り込むつもりなんだろうなあ。こーゆーのやめてくれんかのう、迷惑な。で、南関出口分岐に入った時点で、あれ? と思う。何台かの車がそのまま走っていきました。え、これ、ついさっき電話で情報確認したときには確実に南関まで通行止めだったんですが、解除された? もうその確認ができたときには下りるしかない状況で、下りたら下りたで渋滞中のため、Uターンもできず。そのまんま西区を目指す。おそらく福岡から通常であれば13時くらいに着くはずが、14:30に到着する。がー。


 で、作業ミッションでへとへとになった状態で事務所に戻り、翌日分の自分がいく現場の依頼書を回収しまして、帰宅。そういや前夜はなんだかんだでシャワー途中まででした。今日はゆっくり浴びる。晩御飯を食べて、寝る。ぐう。翌日は熊本回りなんですが、結構早いのですよ。しかも前の晩、あまり眠れてないので、そりゃもうぐっすり。


 翌日というか、気分的に同日01:25、2発目直撃


 いきなりな覚醒。反射的に跳ね起きようとしたときには猛烈な横揺れが始まっており、立ち上がれずにうつ伏せになったままベッドの布団にしがみつく。目の前で文庫本をみっしり詰め込んだアマゾン箱が吹っ飛ぶ×2。父の「外逃げるぞ!」という怒鳴り声。揺れがやや消えたので立ち上がり、ケータイだけ引っつかんでサンダル履きで外に飛び出す。前に、よろよろしている祖母を誘導。先の地震とはまるっきりレベルの違う揺れでした。とりあえず車に乗れ、ということで父の車に4人で乗る。揺れが鎮まってから何度か父が中に入り、私も中に入り、毛布などを獲ってくる。近所に公園があったので、そこに車で移動。近所の人たちも車だったり徒歩だったりと違いはあったものの、そこを目指す。つまるところ、そこには、崩れてくるものがない、から。冷えてきた空気の中、公園で空を見上げる。星が見える。星は変わらないのだな、と思う。誰かが公園でラジオを点けている。地震のニュースが繰り返されている。車に乗る。ラジオがこちらでも点けてあった。長い夜の始まり。ひたすらにケータイからメールを飛ばす。安否確認。安否確認。私からのメールにほっとしたように県外の友人たちからもメールが届く。深夜。にもかかわらず、ほとんどのメンツと連絡が取れる。余震が来る。ケータイで警報が鳴る。町内の放送も鳴る。ニュース。テレビからの情報。メールを伝わってくる情報。いろいろな情報が錯綜する。熊大そばの龍神橋が落ちたという話は東京の管理系OLさんのメールから。この人、初日の地震を出張先の宮城で知って血の気が引いたといってました。鹿児島県にあった実家が今熊本市にあります。家族は無事なようです。さらに立野で土砂崩れ、57号線が通れなくなっているそうで。福岡は大丈夫かと福岡在住のデザイナー氏に問えば、エレベーターが止まったので6Fから歩きで下りているところ。さらに東京OLさんから「余震ではなく、本震ではないかと、テレビで」とメールが来て、何を今更!? と怒鳴りつけたくなる。いろんなものを。さらにやたらとニュースで「南阿蘇村で南阿蘇大橋が崩落した」というのが流れてまして。「南阿蘇大橋ってなに?」と首を傾げる。阿蘇大橋は分かる。奥阿蘇大橋も分かる。南阿蘇大橋? 「赤橋のことかな?」と父が首を傾げる。「いや、赤橋は阿蘇大橋だし」と突っ込む。南阿蘇大橋がどこかよく分からぬまま、他のニュースで俵山トンネルが塞がったと知る。立野が通れない、俵山が通れないとなれば南阿蘇方面へ著しく行けなくなるなあ。益城の地名も乱舞し、マミズ、ヒロサキ、ソウリョウ、すかさず脳内漢字変換、馬水、広崎、惣領、ああ、あのラインが被害にあってるのか、益城の役場もそのルートに入ってるなあ。3時過ぎまであちこちと連絡したりしてましたが、反応がさすがになくなってきました。体力蓄えるために寝る。多分、メールや電話の先にいる他のみんなも寝てる。


 同日、朝起きて、家に戻る。食堂にてガラスが散乱。食器棚のガラスが衝撃で割れたらしい。皿とかがぶつかったのかもしれません。落ちたコップなどもすべて割れてました。私の部屋では前述の通り、段ボールが飛び、本が散乱している有様。さらに、両親の部屋では大きな箪笥が飛んでいました。丈夫と下部でかみ合わせの部分があり、それで固定されてたのが、おそらく強烈な横揺れで傾いて浮いたところで飛んだ模様。接続部は無傷。んで、箪笥の下にあるスペースにテレビが倒れており、こちらも無傷。ただ、これ、脱出のタイミングが遅かったら、両親の脚を直撃していた可能性もあります。危ねえ。

   

 右の矢印のとこに見えてる黒いのがテレビ。多分、前倒しにテレビが落ちた後、箪笥が崩れてきたのだと思われ。左の写真、箪笥の下にある白いのは布団ですよ。私の部屋の惨状も写真撮ってますが、「入れないような状態」というのがどういうものか一目で分かるのですがねえ、さすがにさらせぬ。申し訳ない。ええ、元から汚いとかそういうことはないですよ、そういうことにしといてくださいな。


 テレビで映像を確認。夜中に聞いていた情報のいくつかが結びつく。立野の土砂崩れと57号線の封鎖と大橋の崩落は同じことでした。やっぱり赤橋でした。橋渡った先に東海大があり、アパートがあり、落ちかけたコンビニがあり。多分、あの土砂崩れがほんの何百メートルか上流で起こっていたなら、橋は無事で避難やら救援やらもどれだけやりやすかっただろう。部屋を片付ける気にもならず、みんなしてテレビが垂れ流す情報を見つめる。落城しかかった熊本城、つぶれた阿蘇神社を見て呆然とする。また一口城主募集とかするかね。


 この時点で発覚していたこと。我が家から出る水が濁ってます。電気は「本震」直後に少し止まった程度で、あとは問題なし。水の方は飲料水として使えないだけで、トイレなどは使える。水の蓄えはいささかあったものの、どれだけ続くのかが分からず不安


 この不安、かなり続きます。水害、台風、こうしたものは通り過ぎれば「終わった」というのが分かりますが、今回の地震、延々と余震が続き、いつ終わるのかさっぱり分かりません


 さて、この日ミッションがありました。元より6件ほどトークが入っていたのですが、朝からひとつずつ監督に確認をしていく。うち1件はある、1件は前倒しで、4件は延期が決定。しばらくしたら「ある」の1件はやっぱりキャンセルということで。前倒し、11時予定を10時からさっくりやって解散、というのをすることになる。この1件のために着替える。幸い、前夜にミッションカーを借りてきていて元々直行する予定だったので、そのまま出かける。信号機が動いてないところもあり。また俯いている信号が多く、我々の気分を表しているようでうんざりする。塀が倒れている家がある。道が隆起しているところがある。亀裂が入っているところがある。崩れている建物がある。大きな駐車場を持っているところ、ファミレス、葬儀場、スーパーなど、多数の車が停まっている。人が中で寝ている。そとで座り込んでいる人がいる。コンビニに行列ができている。ファミレスの駐車場が難民キャンプのようになっている


 トークミッションを行っている間、何度か余震があり、ケータイが鳴りました。


 帰る途中、閉店しているコンビニ。シャッターが半分閉まった店で口論している客と店主。「ここは避難所ではありません」と書いた段ボールを持った大学生が大学前に立ちはだかり、避難所の小学校へ車を誘導している。車屋さんなど大きなガラスを使った店はのきなみ割れている。できうれば飲料水などどっかで購入したいところでしたが、閉まっている店も多く、開いている店も行列。その駐車場に入る車も渋滞中。諦めて帰宅する。


 両親の知り合いで、そんなに離れてない場所に住んでいる人が、水道水を大量に差し入れしてくれる。そちらはフツーに水が出るらしい。さらに県外へ避難するそうで、食料などももらう。ありがたい。これでペットボトルの水は後回しにして、もらった水道水を中心に使って行く。


 母の実家では、家の裏に給湯器のタンクがあるのですが、それが裏の畑(かなり高低差あり)に落ちたそうです。全損。叔父の家では、叔母が広島の娘(私の従妹)のとこに避難。叔父は家に残る、というか、山に避難してそのままだという。何だそりゃ。あー、私の家でも給湯器タンクの足下に敷いてあるコンクリブロックが粉砕。やや傾いています。


 今週末、祖父の13回忌の法事が予定されてましたが、延期となる。それにともない、来るはずだった弟一家の挙動が問題になる。甥っ子姪っ子どもは全員一致で「こっち来るな」である。来られても何もできないし、かえって手がかかりかねない。料理などもキャンセルする。


 長い一日が終わりに近づき、早めに晩御飯を食べる。家は無事である。余震もむちゃくちゃでかいのは来てない。電気は大丈夫。飲料水も確保できてる。食料もある。にもかかわらず、車内泊。父母と祖母は父の車で、私はミッションカーにて寝る。うん、テレビで報道されてましたよねえ車内泊。今回の特徴っていってましたが。これ、よく分かる。どっかの大臣が避難所の「青空避難を解消するように」みたいなこといって、県知事が不快感を示したというのはよく分かる。テレビでやってた、マンションの住民が自分の部屋ではなく、ロビーで寝てるみたいなのもよく分かる。今回の地震、緊急地震速報なんて間に合いません。たいてい、揺れがおさまってからケータイが鳴りやがります。しかも2発目は油断してる真っ最中に来てるわけですよ。家が崩れるとこがあるわけですよ。避難所で天井崩れたとこもあったわけですよ。何故危ないとこにいなくちゃいかんのだ。すぐに逃げれるとこにいるのは当然の判断でしょう。暗くなるとすぐ車の中でぐっすり寝る。久しぶりに寝る。まともな状態じゃないけれど。揺れは続いているけれど。


 17日。この日はミッションは休みでいいといわれていたので、家にいる。車もそのまま使っている。ただガソリンがどうなるか分からないので、前日のトーク以来移動はしてない。人間、慣れるナマモノである。ぶっちゃけた話、震度4強くらいまでなら平然としているようになってくる。5を越えると、お、今のはだいぶ揺れたねえ、という感じ。感覚がおかしい。あまりにも地震が頻発したせいか。テレビ見てると地震速報。今度はどこかと見てたら南米。ん、どこの地名か、と一瞬考える。南米? 南、アメリカ? 紛らわしい。後で映像とか見たらあっちの方がひどいんじゃないか。


 昼には県外在住の昔の友人からメールが届いて安否確認。おお、そうだ。旧支配者様とかどうしてらっしゃるのかと思い立ってメール。こちらも無事との確認ができる。夜になって、先輩から電話着信。例の放送がらみの人です。話してみますと、やはり予想通り中継などの仕事がずっとあってたそうです。益城町にいたとか。熊本城が見えるとこに住んでいるのですが、帰ったとき家の中にモノが散乱していた中に入るのが困難だったとか。試験的に水が出るようになったとおっしゃってました。米はあるとのことですが、やはり食生活に問題がありますかねえ。お互い頑張りましょうという。


 18日。久々にミッションの事務所に行く。朝から片付けなどをする。というかですね。駐車場にでかい亀裂が入っていますよ? 事務所が物理的に傾いていますよ? 事務所の敷地内にボスの自宅があるんですが、瓦が散乱してますし、ぶっとい木の柱の下がずれてますよ? みんなしてひとつずつ片付けていく。同僚のみんなと話をしてまして、状況の差がかなりあることに改めて驚く。私のとこでは電気+水(非飲料水)+食料てなとこでかなり恵まれてるわけです。一方で水を得るために何時間も並んだか入手できなかったという人もいます。避難所生活の人も当然います。同じ熊本市内でも水が出るとこもあればそうじゃないとこもあります。取引先から救援物資が事務所に届いたのですが、普段はそういうののお裾分けを遠慮する同僚が涙を流さんばかりにもらっていました。県外に出ていた同僚がミッションから戻ってきて、途中で買ってきた水を配っていました。私も段ボール一箱(12リットル)のペットボトル水と段ボール一箱のカップ麺の支給を受ける。夕方まで作業を続け、帰るときに前日電話があった先輩に電話する。「水とかカップ麺とかお裾分けいりますか?」と問うたのですが、どうやら水はシャワーが浴びれるほど復活したらしく食料も調達したそうで、大丈夫とのこと。


 19日。この日もお休みだったので、家の片付けなどをしょぼしょぼとする。まだ水は濁っている。が、くだんの公園でペットボトル水の配給がある。何、一世帯2リットル? おそらく役所とかに救援物資で届いたものが分配されているのだろう。とりあえずもらいに行く。もらいに行って帰りついたら、余震のやや大きいのが来る。ケータイが鳴る。震度5。外を見る。みんな平然と水をもらいに行ったりもらってきたりしている。人間、慣れです。


 うん。おそらくネットやテレビで見ているだけでは、前に書いているこの状況の差、刻一刻と変わっていくのが見えにくいのだろうと思う。翌19日の夜、南の島にいる弟からまさにその件で電話がかかってくる。「結局、どんな状況なわけ? オヤジに聞いても大丈夫だから来なくていい、としかいわんしさ」要は自分だけでも熊本に戻ってきて手伝いとかするつもりでいるらしい。一方で、大丈夫だからといった父の言葉もよく分かります。ホントに大丈夫なんだよ、うちは。飲料水が出ない、隣近所で塀が崩れたり、瓦が落ちたりしている、などとひとつひとつとればあれですが、テレビで見る被災地のようでもない。つーか、被災地は被災地なんですけどね、うちも。分類的には被災者だし。けれども、正直、益城とかに救援物資抱えて行きたくなるような状態ですよ。被災者ですが。被災者というより被災者(軽度)? ただ道は寸断され、大混乱になるので自重しているだけで。ともかく、テレビなどの情報で一緒くたに被災者にされるのはなんか違う気がします。というのは、おそらくなかなか理解されないとこかと思いますし、弟は納得しないでしょう。自分で見てないわけだしねえ。今日はみんなで墓参りに行きました、祖父の命日だったので。前震の後、父が様子を見に行ってたんですが、墓の中で焼酎の瓶が割れてすごい臭いだったそうです。「んー、浴びるほど焼酎飲めて喜んでるんじゃね?」と私がいった、とか、改めて墓参りして掃除もしてきたとか、そんなんいってもなかなか納得してくれぬ。ということで、「あー、じゃあ、今からオレサマが魔法の言葉をいう。それ聞いて考えてみよ」「はあ?」「いいか、行くぞ。まほーの、ことばー」その後私のいった言葉に弟が固まり、しばらくしてようやく「……分かった。ちょっと嫁と相談して考える」との返事を引き出す。何をいったかについては、んー、最後に書きますか。


 20日。弟が熊本に帰るのを延期する、との連絡がある。魔法は効きました。この日も休みだったのですが、肉体労働系ミッションに出るはずだった同僚が肩を痛めたとかで、交代することに。朝からその旨ボスより電話を受ける。うわー。と慌てて着替えて出かける。何しろ、渋滞がひどいのです。辿り着くまでにどれだけ時間がかかることか。途中立ち寄った西区のコンビニでは食料がまだほとんどなく、トイレは断水のため使用禁止だったり。差があるなあ。八代在住の看護系人妻さんからメールが来る。「大丈夫?」から始まるメール。えーと、たしか本震が来て、安否確認の連絡を一通りした後、ほとんど私何の連絡もしてなかった気がします。連絡業務終わった気になってましたが。連絡がないのが不安になったんでしょうか。とりあえず直電。話してみますと、八代も変な状況でして。まず、フツーに仕事行ったりしてる。でも避難所。人妻さんは小さい子ども連れ。避難所はその日その日で開くかどうかなどが決められるので、チェックアウトが必要になる。つまり、荷物持ったまま追い出される。で仕事に行くと場所取りが困難になる、というループ。娘さんもストレスになってるらしいしねえ。体調も崩しかけてるよう。とか電話しながら向こうは娘の下の世話をしていたようで、「うんちでたー」という元気な声がしてましたが。話している最中にも余震。


 今回八代方面にでかいのがあまり来てないのですよねえ。北西の方に震源が一時期動いていってましたが、南の方にいくつか来だしている状態。人妻さんの話によれば、震度3くらいからならテレビとかにも出るけど、それ以下のがずっと続いているような感じだそうで。落ち着かない。特にこの日、ダンナさんは仕事に行き、自分だけが娘抱えて休み。不安で仕方ないようで。話を聞き、話をする。とりあえず少しでも元気になってくれればいいんですが、私だけじゃ足りんよなあ。と電話終了後に、他の人妻さんたちを巻き込む、というかけしかけて電話させる。専業主婦やってる人はすぐに電話かけてくれたようですが、玉名市の女教師系人妻さんは夜になってからかけてくれたもののつながらず。避難所に無事入っていたらしい。翌日にはちゃんと話ができたようで、お礼のメールがこっちにも回ってきました。あー、専業主婦さんからの返信で気づいたのですが、どうもこっちからの連絡を待っていたようで。県外にいる人なんですけど、直接の連絡とか気兼ねしてるっぽいですねえ。もう少し早くけしかければよかったよ。


 なお、西区での肉体労働系作業は遅くまであり。飲み物やおにぎりの支給がある。ありがたくちょうだいする。だいぶへばる。ただ、翌日また県外へトークに朝から行かねばならないので体力の調整をしつつ頑張る。ふひー。


 そんな感じで、よく分からぬまま4月20日まで経過してしまいました。日常と非日常が道路一本隔てて、あるいは隔てもせずに混在している感じです。亀裂の入った道路をトラックが通ってますし、三角コーンで危険を表示してる部分を避けて人が歩いています。崩れたもの。崩れかけているもの。大渋滞。そんな中、今後どうなるのか分かりませんが。頑張って生きていこうという感じです。被災地の方々におかれましては一刻も早い復興をお祈りします。いやマジでそんな心境。私も被災地(軽度)にいるけど。他人事じゃないけど。身近な同僚の人助けたりとか、がれき片付けるの手伝ったりとか、そんなこともしてます。思うままにだらだら書きましたけれど、漏れとか補足とかありましたら、また次回書こうかと。なお、最初に書いた通り、あくまでわりと恵まれた位置にいる私の個人的な感想ですよ今回の記事は。その辺は重々承知しておいていただきたい。あ、忘れるとこだった。弟を退かせたあまりにあんまりな魔法の言葉。「今日のうちの晩御飯は熱々のすき焼きでござった」でした。そんな状況。




 購入した本:
  藤浪智之『魔王の就職斡旋所に勇者がやってきました。』、愛川晶『神楽坂謎ばなし』、R・A・ラファティ『地球礁』、川上稔『境界線上のホライゾン\(上)』、川原礫『ソードアート・オンライン17』、真島文吉『棺の魔王1』、宵野ゆめ『ケイロンの絆』、羽根川牧人『ネクラ勇者は仲間がほしい』、有川浩『空飛ぶ広報室』、加納朋子『はるひのの、はる』、長尾姿子/冒険企画局『うたものがたり』

 読了した本:
  藤浪智之『ここは、冒険者の酒場』、悠戯『迷宮レストラン1〜2』、長尾姿子/冒険企画局『うたものがたり』、丹羽春信『魔王サスペンス劇場 土けむりダンジョン、美人勇者殺し』、柳野かなた『最果てのパラディンT』、宵野ゆめ『サイロンの挽歌』、五代ゆう『魔聖の迷宮』



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