下旬。 〜上と下の差に関する問題など。〜
本屋に行ったところ、映画・ドラマになった本、というようなコーナーがあった。まあ、前からこのコーナーあったのだが、一番上の段に何故か、司馬遼太郎の『義経』が。……えー、私の思い違いかもしれないが、今やってる大河ドラマの原作は司馬遼太郎じゃなくて宮尾某だったような……。いや、もしかしたら過去に司馬遼太郎のが映像化されていて、つい最近この書店の人が気づいてコーナーに置いたのかも知れぬ。でも何か釈然としないなあ。義経を題材にした小説って他にもいっぱいあるよねえ。村上元三や吉川英治もあるし、他にも先月辺りからタイムリーに文庫化されてる池宮彰一郎の『平家』とか出たばっかりの安部龍太郎『天馬、翔ける』とか。司馬の『義経』新装版帯には「2005年大河ドラマ」みたいに目立つ感じで書いてありますが、
どこにも原作なんて書いてないとこがミソで、要は便乗展開てかトラップですよ、文藝春秋
(*35)。宮尾某のはというと、まったく別コーナー、大河ドラマっぽいとこに置いてありました。何かコーナー間の分類があるんでしょうな。と思いつつも、司馬遼太郎の
『義経』と並んで大河ドラマの棚に『坂の上の雲』とか『功名が辻』とか『箱根の坂』とか『菜の花の沖』が並んでるのはやっぱり変。えー、順番に日露戦争の秋山真之や秋山好古や正岡子規、信長の部下から出世していく山内一豊、戦国初期の北条早雲にクラスチェンジして活躍する伊勢新九郎、幕末にロシアとからむ高田屋嘉兵衛をネタにした本で、源平争乱にまったく関係ありません。
もちっと考えて置けばいいのに。もっともこの本屋、どうやら担当店員が変わったようで、最近急激にサービスが悪くなっているのでそれが原因なのかも。文庫新刊の棚が昼過ぎに行ったら空いてたのです。多分新しいのをそこに置くためにスペースを取ったんでしょうが、いっかな補充なし。そのまま二日ほど放置されてました。で、その後平積み台は二ヶ月前の新刊で補充されました。いやはや。そこは結構入荷と並べるのが早いので重宝してたのですが、他の本屋に乗り換えですかね
(*36)。
乗り換えといえば、ぶろおどばんどになったのはいいが、ひとつ疑問が。えーとパンフのスペック的にはベストエフォートで上り1M、下り12Mって書いてあるんですけど、速度を測ってみると
上りが下りの3倍以上出てるってのはADSLとしてはどうなの?(*37)
こないだ近所の空き家にわりと若めな夫婦が引っ越してきた
(*38)。我が家にも挨拶にいらっしゃったのだが、この町でホントにいいのか? なんて思ったり。年末年始に救急車のサイレンが鳴り渡り、
これ打ってる今も徐々にサイレンが近付いていたり(たぁいむりぃ)、正月早々葬式があったりする町ですぞ。でも誰も何もいわないんだろうなあ、村社会。
中古屋さんでDVDなど物色していて、ゲームコーナーに行ってみた。モニターがいくつか並んでいて、ちょうどそのうちひとつのデモが終わったところだった。そのモニターは
かわいらしいポップやイラストに囲まれていて、「ヨッシーの万有引力」とある。
ヨッシーといえばニンテンドーでマリオで恐竜みたいなんである。「ヨッシーのクッキー」をデザインしたのは「ポケモン」でおなじみの田尻智氏だったか。ともかく、この手のゲームはゲームとしても面白い、はずだ。どんなものかデモを見てみることにした。やがて始まったデモは私の予想をぶっちぎるものだった。何か黒かったりでろでろしてたりするんですけど。カプコンかコナミかっちゅう感じの
リアル系グラフィック。
ナイフで戦ったり、
女性が蹴りを放ったり、男キャラが「
俺たちは一枚のコインの裏表」とかいってます。ヒゲはないがヒゲ兄弟ですか、1UPのコインですか、さっきのはキノコの国の桃姫ですか。
芸風変わりましたかニンテンドー。この流れで
どんなヨッシーが出てくるのかと期待に胸を膨らませてましたがなかなか出てきません。格闘シーンやら続いて、文字が浮かび上がり、タイトルコールです。「
ばいおぅ・はざぁど、ふぉう」いや違うゲームだし。子どもが喜びそうな飾り付けをふんだんにしたモニターでバイオ流すのはどうかと思う
(*39)。
大学のサークルボックスで食休みをしていると、後輩がやってきた。弁当を食べる後輩と話していたところ、「自分の回りにも有名RPGやってる人いるんですけど、面白いっていってますよ」という。どうやら私のペエジを読んでいるそうだが、賛同を周囲に得られなかった模様。私にそんなこといわれても。そもそもプレイしてないやつに私の意見を引用されて、なおかつ非難がましくいわれるのは納得いかない
(*40)。てか、
私有名RPG褒めてるやん。12月中旬の真ん中辺り
限定を参照。あくまで個人的な感想であって、絶対評価ではないのよ、もちろん
(*41)。私の中では、
エンディングを見るよりも7人の夏目漱石を選んだというだけのことであります。まあ、こないだも某ゲーム雑誌見てて、去年の売り上げランキング載ってたけど、
売れたからって面白いゲームとは限らないし
(*42)、後々残るゲームになるとも限らないですわな。だってあらかじめプレイしてから「おう、これは面白い。買わねば〜」って買う人間って少ないよね。高い買い物なのにね。だから売れた=面白いとは限らないし、売れなかった=つまらんゲーム、とも限らない。
買ってやってみて初めてつまらないと分かったり途中で投げ出したりしても売り上げランキングには影響しないし。ただ、例えば四年ほど前、同じ日に発売されたゲームを今回いくつか中古ショップで見てみたのだが、
有名RPG7がおおよそ2000円くらいだったのに対して、GPMは4000円から高いとこで5000円前後だったりするわけで。去年出たばっかりのプレステ2のゲームかっちゅう値段ですな。で当時売れた本数と開発費用はは多分ケタ違いに有名RPGの方が多かったはずなんですけどね。まあ、販売本数に違いがあるから出回ってる数が違うんだろうという考えもありますが、本数出回っていても面白ければ売らないと思うし、本数出てないのに捨て値で売られてるゲームだってあるんですよね。ちなみにあくまで個人的な感想なんですが、今有名RPG8の半額売りと、GPM定価売りがあって、どっちか買えっていわれたら迷わず後者買いますよ。ええ、
あくまで絶対評価じゃなくて相対評価ですよ、もちろん。……てなことを書いてたら、2月の頭にベスト版が出るですよ、有名RPG7。「ヴァルキリーなんちゃら」と同時発売で、有名RPG7の方が4000円くらい。ええ、
新品で四年前に出たもののと内容一緒で4000円くらいですよ。中古でダブついてて2000円でどこでも売ってるのに。まあ、私だったら新品ベスト版3000円くらいの「ヴァルキリーなんちゃら」の方がいいなあ
(*43)。持ってるから買わないけど。
んで、その後輩といくつか創作の話をしていたのです。「キャラクターに一貫性がないといわれる」という話になったのですが、「
き・さ・まが下手くそなんじゃあ」なんてことは思ってなくても思っててもいってしまう私
(*44)。多少ソフトに「
貴様の作品に出てくるキャラは、行動がちぐはぐで内的行動論理が同じに思われず、おかげで同一人物に見えず、そのため作者の操り人形というかご都合主義で動いておるように見えるのである」ということ。この話から「人が変わるのにきっかけが必要なのか。否、徐々に変わっていくということもあると思う」と後輩。「だからキャラクターの行動が首尾一貫していないように見えることもあるんじゃないか」などとほざくわけで。例として「成長して大人になる」というのを挙げてきた。それに対して例によって例のごとく
脊髄のサブ脳で返答をしていた(*45)が、つらつら後に考えてみたことを記す。私の結論をいえば、
現実にそういうこともあるのかもしれんが、その変化の過程が読み手に伝わらなければ読み手はその成長に納得しないし、結局同一人物だとは認めないし、ちぐはぐな印象になる。
作者がいくら同一人物なんですと主張しても読み手がそう感じなければ終わり(*46)である。子ども時代を描いて、大人になってからをいきなり描いて、この間徐々に成長しました、といって、それがまったく別人に見えるような変化ということもあるが、こんなんなんぼでも描き方でフォローできよう。大きなこれといったきっかけがないと主張するのならば、途中経過を描いてやればいい。最初と最後だけ書いて途中に何かありました、でもその部分は書いてありません、てのは読者としてはついていけないと思う。というか、その後輩の作品を大して読んでないのだが、徐々に変化が起こるというのは相当に長いスパンがあってできることであって、数日とかの
短期間でちぐはぐな行動になってるのが問題じゃあるまいか。
調子に乗ってきたので、例を挙げてみよう
(*47)。
基本路線)らぶこめ
主人公)高校一年生の少年A
脇役)少年Aと同じクラスの少女B
時期)高校一年の一学期
状況)いつの間にやら少女Bを好きになる少年A。それを自覚するのが六月。
まあよくある話で恐縮である。「いつの間にやら好きになってる」というのが今回の問題なわけです。つまり初期状況では「好きではない」あるいは「無関心」あるいは「中立」とかそんな感じ。でやっちゃいかんのが、六月になりました、好きになってました。というパターン。特にこれといったきっかけがあろうがなかろうが、これじゃ
読み手にはさっぱり分からん。あるいは六月のある日の朝何でもなかった→夕方、好きになってた、たいしたきっかけはない、なんてパターン。これも分からんというかついていけない。描き方の問題というのはここのところである。おそらく後輩は、「少年Aには特にこれといって少女Bを好きになるようなイベントなりきっかけなりがなかった。気がついたら好きになってた」という考えで、そのまんまの情報を書きそうな気がする。
これは描写ではなくて、説明なわけ(*48)。読者に情報を押しつけているだけ。「おらー呑め呑め呑み込めー」と強制されておるのであって、読み手は教科書を眺めているようなもんだわな。私が時系列に沿って描くとすれば、四月に初めて見たときの様子をまず描く。この時点では無関心だったりするわけです。特に彼女を好きになるというイベントがないのならば、普段の風景を描くことによって、徐々に彼女のことが気になっていくという展開にする。つまり、彼女が授業中に発表する姿をちらりと見たり、とか、そんな具合に持っていって、少年Aが自覚してようがしてなかろうが、外から見た様子を描いて、徐々に好きになっていく流れに持っていく。で、六月に「自分は少女Bが好きなのである」とはたと気づく、って感じですか。まあらぶこめとしては途中で衝突したり、ソリが合わなかったりとかいうのを入れてもよい。本人が何となくそうなったと思っていても、周囲から見ればそのありようは分かりやすいし、分かりやすいポイントを選んで描いてやればよいのである。
読み手の側からキャラクターの変化が理解なり納得なりできればいいのだ。ちなみに少年Aの話をもっと続ける、例えば夏休みの話をメインにするなら、この「徐々に好きになる」というのをばっさりカットして、「すでに好きになっている」という状態から始める手だってある。「徐々に」が必要ない情報だったら書かなくてもよいわけで。
書くべきことと書かなくていいことの取捨選択をすべきでしょう。それができてないと、だらだらとどーでもいいことを書いてあるか、作者には分かっていても読み手にはさっぱり分からない展開になるかである。大切なのは作者が何を考えてるかじゃなくて、お客さんにどこまで伝えることができるかという方じゃろう。書き手が何を企んでいても、それを読み手に提供した途端、
読み手はそれをどう読もうと勝手なんであり、基本的には書き手がそこで言い訳してはならんのだ。
読み手が読みとれなかったというのならば、作者は読みとれるように書くべきであり、読み手に伝わらなかったのなら、作者は伝わるように書くべきであろう。あくまで中心は作者であり、自己満足で十分、読みとれない読者が悪いのだ、という立場を貫くのならば、
そういうのは他人に見せなければよい(*49)のである。アマチュアが作品を読んでもらう場合、通常GNP(専門用語?)が作用する。すなわち、「
義理・人情・プレゼント」である。要はその人との個人的な関係から読み手は作品を読まなければならなくなることが多いってこと
(*50)。読書感想文の宿題みたいなもんだ。それを越えて読者の方から「読ませて読ませて」と純粋に求めてくれる状態まで行くのが理想なんじゃないかな。そのためには読み手を意識して書かねばなるまい。
読者に媚びるとか妥協するとかじゃなくて、読者へのサービスと作者の満足を両立させるのが大事な気がする。
話を情報の方へ戻すと、
キャラクターがどの時点でどういう状態・状況にあって、どこまでの情報を持っているのかというのはきちんと管理・把握しておかなければならない。これが分かっていないと、時間が前後したりして、キャラクターがどういう動きをするのかが分からなくなり、つい作者がおのれの求めるままに動かしたりする。そうなると、読み手からは
「こいつはこんな行動をするキャラクターではない」→「作者が都合よく動かしているのだな」→「所詮作り物の世界である」→「没頭できるか」という流れになる。感情移入したり没入してたりするほど、ちょっとした違和感があれば一発でそれが解除されてしまう。一度気づいてしまったら、なかなか元に戻るもんじゃないのよ。作り物を作り物として楽しむ「と学会」みたいな手もあるけれど、フツーの読み手がそんな読み方はしないと思うし。
例えば一人称で作品をものする場合の情報管理は、「一人称人物が知り得ない情報は知らないのである」ってことがポイントになってくる。その人物が見てないシーンを書くには「伝聞」その他の手段を用いるしかない。つまり「その情報を知り得る誰か、あるいは何かから伝わってきた」というパターンになる。
作者は自分が知ってるからって調子に乗って主人公が知らないはずのことを知ってるように書いたり、行動させたりしてはならないのである(*51)。一人称人物をシーンごとに交代させるという手法もあるが、これは管理がややこしくなる。ひとりひとりの人物が知ってる情報を読み手のところで統合させて全体を構築できるのだけれど、誰がどの情報をどこまで知っているのかを管理しなくてはならない。その上、短いスパンで人物交代を続ければ読み手が把握しにくくなるし、ますますややこしくなる。外国の小説なんかでこういうのが増えているわけだが、そのためにはある程度の長さが必要になってくるのであって、たかだか30枚とかの短編でやるのは難しいと思う。三人称の場合は情報はかなりオープンになりえるが、やっぱりキャラクターがどこまで情報を持っているのかはきちんと把握してなければいけないのはいうまでもない。あるいは「語り手」がいる場合などもややこしくなる。「語り手=作者」の場合はそうでもないのだが、「語り手=キャラクター」だったりすると、この語り手が持っている情報の管理もしなくてはならないのだ。分かりやすく例えるならば、あるお母さんが子どもに浦島太郎の話をしている、としよう。全体を書いている作者→浦島太郎の話をしているお母さん→それを聞いている子どもという形になる。もちろん間に浦島主体のシーンを入れるならその辺りもからんでくる。語り手=お母さんの持つ情報というのは、「お母さんが知っているところの、あるいはお母さんの手にある本の中の浦島太郎」である。つまり、お母さんはよほどのことがなければ、浦島太郎が玉手箱の煙を浴びて老人になり、さらに鶴になって飛び立って、浦島神社ができたとか、鶴と亀でめでたしめでたし、なんて結末知らないだろう。それを知らないのにお母さんが知ってるように書いてはならないわけ。あくまでお母さんは自分の知ってる浦島を語るのみで、それはおそらく玉手箱の煙を浴びておじーさんになっちゃいました、辺りで終わるのだ。仮にお母さんが日本文学の御伽草紙とかに詳しかったりすると、自分の知ってるバージョンで行くかもしれないし、お母さんの性格次第では絵本そのままで語っちゃうかもしれない。相手が子どもじゃなくて大人であれば別バージョンを語るだろうし、さらに相手が日本文学研究者だったりすると、「相手が知っていて当然のこと」は説明台詞みたいにくどくどとは書かれない。でも語り手が知ってても、読み手は知らないんじゃないかという情報の場合には不自然にならないよううまく書き方を工夫して、自然に解決しなくてはならなくなるので多少難しい。そういうので一番ややこしいのは、登場人物がすべて知っている、つまりキャラクターたちにしてみれば常識なのに、読み手だけが知らない情報の処理になりますわな。まあそういうややこしい処理がどうのという段階でもなさげな後輩なので(おい)、それは置くとして。
一番上で情報を知っている作者と、それよりも下で情報の断片を持つことになるキャラクターの違いを認識し、きっちり管理することが肝要である。
えー、念のため、読み手が知らない場合というのをちょっぴり具体的に掘り下げてみますか。
基本路線)リアル
登場人物)大学一年生A(薬学部)および大学一年生B(同)
時期)試験シーズン
状況)薬学部の建物でBがAを見かけて「どこ行くんだ」と尋ねる。Aがそれに対して返事をする。
こんな感じで。
例1)B「どこ行くんだ」
A「ああ、次、コアの試験なんだよ」
B「じゃあ今からか。大変だな」
A「まあ、急げばチャリですぐだし」
さて、ここでAとBの間で当然のこととしてカットされている情報は何でしょうか。
1)コアの授業が何なのかということ。
2)コアの授業がどこであるのかということ。
3)2の場所と薬学部が離れたところにあるということ。
4)Aがコアを受けてることをBは知っているということ。
5)チャリは自転車の略である。
ぱっと出てくるのがこのくらいでしょうか。順番に見ていきますと、コアというのは何年か前までは教養と呼ばれていた授業のことで、大教センター(大学教育機能開発総合研究センター)すなわちかつての教養部で行われます。大教センターがあるのは黒髪で、薬学部があるのは白山(正式には大江地区と呼称)です。この辺が、熊本大学の現役学生ならばまああっさり理解できよう。しかし、卒業して何年か経つ人には「コア」が意味不明だろうし、よって「コア−大教センター−黒髪」というつながりなんか出てくるはずがない。んじゃ、学園大学や県立大学の学生がこれを見たらどうか。やっぱりコアの辺りから分からないと思うし、そもそも薬学部と大教センターの位置が離れてることも知らないだろう。さらにこれが熊本市の人じゃない、県外だったりするとますます不明になる。んで年上の方だと「チャリ」が何を指すのか分からない人もいるかもしれん。もしこのシーンの読者を熊大現役生・あるいは熊大現役関係者に限定しているならば、ほぼ問題なかろう。しかし読者をもっと広く求めるならば、当然のようにどこまでの情報をフォローするか考えなければならない。かといって、「
ああ、今からこの大江にある薬学部から少し離れた黒髪にある普通大教センターって呼ばれてる正式名称大学教育機能開発総合研究センター講義棟、昔の教養部まで行って、コア、昔の教養の授業だね、これの○○教授の××って講義があるんだよ、君も僕がそれを受けてることは知ってるだろうけど、その試験がもうちょっとしたら始まるから自転車を漕いで行かなければならないんだ」なんて同級生にいうだろうか。こんなトンマな説明台詞は書いたらいかんわな。取捨選択をして必要なものを折り込み、あるいは地の文に散らしたり、状況の描写に組み込んだりするが吉。決して普通ならいわないような台詞を連発させてリアリティを破壊するようなマネはしちゃいかん。
また、キャラクターを把握するためにも、それぞれのキャラクターに差異を持たせておくことも大切でしょう。いつもどっかで見たようなキャラクター、あるいは同じ行動パターンを持って名前だけすり替えたようなキャラ。でもリアリティを持たせるためには、「
いつもの人が違う役で出てるだけ」ってのはダメダメでしょう。キャラクターストックが少ないとか描き分けができないとこういうのに陥りがち。だからどうするかといえば、シンプルに、
キャラクターのストックを増やす、あるいは自分の
描き分けできるキャラクター数をきっちり把握し、カブってるのを避けるためにそれ以上のキャラを出さない。んでキャラクターのストックを増やすためには、現実に人物観察をする、小説や映画やコミックやその他のもので観察をするとかが有効ですかね。地道に続けていかないといかんわいな。
と、
たまには文芸部っぽいことをいいたくなるお年頃なんである。また、その後輩にはこれをもって有効期限切れチケット分(?)のアドバイスとさせてもらう。あと追加で「大森望・豊崎由美の『文学賞メッタ斬り!』など参考になろう」というのも書いておく。また世の中には芥川賞、直木賞、星雲賞、日本SF大賞など、投稿するわけじゃない文学賞も多々あるので誤解なきよう。これらは発表されたもののうちから選ばれる形になる。例えば実質芥川賞なんていくつかの雑誌に載った短編の中から候補を担当者が選出するという形じゃなかったですか。やるんだったらきっちり事前に下調べをしてからの方がいいと思う
(*52)。
先日、朝っぱらからガンガンガンガン何やら音がしていた。窓から外を眺めると、そこにあるのは我が家の車庫。車庫の屋根は、何つうの、波形の薄いボードを釘で止め、さらに台風なんかで飛ばないようにロープや針金で巻いているというもの。その屋根に小鳥の姿があった。クチバシにオレンジ色の実をくわえている。それを勢いよく屋根にぶつけているのだ。しばらくやるとクチバシを空に向け、実を振り回すようにして中身を食べている。んでまたガンガンガンガン。観察を続けていると、どうもこの小鳥、金属部分を選んで叩きつけている。釘の頭や太い針金の部分にしかぶつけておらず、ボードの部分はまったく無視ですよ。頭ええなあ
(*53)。やがて中身を食べ尽くした小鳥はどっかに飛んでいきましたとさ。何か春も近い感じだねえ。なんて思ったら大間違いで、明日から寒波ですよ。明日、熊本市近郊の
某町なんて、最低気温−3度、最高気温−3度っていってましたよ。朝から晩まで変化なしってことですか。こないだまでそこそこの寒さだったんですが。明日は市内でも道路凍結かも、とか大雪とかいってましたし。うぎゃー。
連載「細川戦記」は主人公多忙につき休載させていただきます。(*54)
(*35)まあどこの会社でも多かれ少なかれやってそうな気はするが。
(*36)その後も中途半端なまま。結局いくつかの本屋とセットで回るサブ本屋として扱われている。
(*37)そもそもスペック的にも上りの方が遅いはずなんだが。
(*38)その後かの夫婦がどうなったかは知らない。
(*39)売り場の店員さんはもちっと気をつかうべきであろう。
(*40)だいたい勝手に人の意見を他にぶつけて、こちらを非難するというのは納得いかんわけで。
(*41)当然である。だからこそ、やってもいない人間に引用とかされても困る。
(*42)いまだにこの意見は変わっていない。
(*43)今はリメイク版とか続編とかの話が出ている。うむ、たいむりー。
(*44)根が正直者なんである。
(*45)面倒なときは深く考えずにここで反射している。てことは正直なのは私の脊髄かもしれん。
(*46)この辺が分かってない人が多い。
(*47)調子に乗っているというより、例を挙げないと分かりにくくなってきたと思ったので。
(*48)この区別とバランスが分かってないと難しいのである。
(*49)人に見せるからには見せるに足るものを出すのが当然である。
(*50)最初の一歩はこういうところから始まるのだろうが、そっからいかに惹き付けるかが作者の問題だと思う。
(*51)これをやってると非常にキャラクターが不自然、ストーリーがご都合になってくる。
(*52)応募するという話じゃなくて、応募する話を書くということだったので、取材のことをいっている。だいたいそのつもりなら何十とその手の本が出ているので、それらを読み漁ってから書くべきであろう。結局読んでもいないんだろうけど。
(*53)こーゆーのを見ると楽しい。ひょっとしたら一部の人間より賢いかもしれん。
(*54)結局この後、藤孝君の話が書かれることはなかった。
購入した本:
竹内真『カレーライフ』、橘柑子『カエルと殿下と森の魔女』、桜坂洋『ALL YOU NEED IS KILL』、六塚光『タマラセ 探偵はドリルで突つかれる』
読了した本:
谷川流『電撃!! イージス5』、戸部新十郎『服部半蔵(一)(二)(三)(四)(五)(六)(七)(八)(九)(十)』、竹内真『粗忽拳銃』『風に桜の舞う道で』『自転車少年記』、大蔵崇裕『やさしい死神』