2007年6月。


上旬。


 ぽてぽてと街中にほど近い橋の上を歩いておりまして、ふと下を見ると、うーん、前見たときよりもさらに水が減ってきています。そこそこの石が露出しているのはもちろん、橋の下でキャンプファイアーでもできそうな状態に。このまま雨が降らなかったら、多分近々橋の下でキャンプファイアー+結構な人数がマイムマイム踊れるくらいにはなりそうですよ。まあマイムマイムという選曲もどうかと思いますが(水を掘り当てた喜びの歌だし)。こないだニュースではどこぞのダムの水もだいぶ減ってきてて水不足の心配がどうのといってましたしねえ。その一方でネット流してたら大雨だか雷雨だかで東方は騒いでいた模様。うーん、異国な感じですねえ。大雨はいらないのでそこそこの雨が降ってほしいものです。理想としては私が外にいないときに降って、外に出るときに止むパターンですな。もう6月だというのに。梅雨入りはしたんでしょうか?


 雨が降らないわりに、最近夜外でカエルが鳴いてます。雨乞いでしょうか。子どもの頃住んでいた家の周りに結構田圃があったため、夜寝るときにカエルが無茶苦茶鳴いてるとかえって落ち着くんですよねえ。ちっともうるさいとは思わないし、子守歌みたいにして眠れるのです。しかしながら、今いるのは住宅地なんで、カエルの数も少ないっぽい。てかどこで鳴いてるんだヤツらは。ほんの数匹くらいですかねえ、しばらくすると途絶えたり。ある晩、うつらうつらしてたら、いつの間にか鳴き声が牛みたいになってまして。どっかでウシガエルが混じってる!? もちっと雨が降ったりすると盛大に鳴いてくれるんでしょうけど、いやはや。


 何かこれ書きながら、肩が重いなあと思う。うーん、平日ミッションも結構延長入れてるし、土曜日にもミッションコンプリートしてたし、その影響が……というわけじゃあ多分ないでしょうねえ。休みの日だってんで、ブックオフで「ワン・ピース」を20冊ほど、「メジャー」を20冊、「ナルト」を5冊くらい、両手にモノ持ったまま立ち読みしてたのがもしかしたらそこはかとなく効いている可能性が大。うーん、もう少しカラダ鍛えるべきか。


 いつも前を通りかかっているわりに最近話題にならない花屋さん。以前は立て看板が「苗50元」→「苗50円」と変化してって楽しませてくれたものですが、このたびまた変化がござまして。とうとう「苗50」になりました。ガムテープで「ん」が消えてて「元」に見えるとかそーゆーレベルじゃござんせん。完全に単位なし。しかもビニールでラッピングして雨の日も安心です。「苗50」って、苗50本投げ売りとかなんでしょうか、はたまた私の知らない通貨単位が潜んでいるのか。今後の経過を見ていきたいところ。


 いつもの本屋に行き、文庫を手に取る。そうそうまだもらってなかったなーと思い、レジで店員さんに「今月の新刊予定くださーい」と申し出る。って、あんたのび太やん! いや昨今見かけないものだからクビになったか飛ばされたかドラえもんに泣きついたかと思っていたが、まだ健在だった様子。「申し訳ございません。今月の新刊リストの方がまだできあがっておりませんので」とさらさらと応対する。しかも動作がてきぱき。うー、こんなののび太じゃないやい、と主言わないでもないんですが、昔の本をひっくり返したりオバカな応対しまくってた頃に比べると成長しやがったのう。


 別の本屋に行く。本をレジに差し出すと、昔から馴染みの店員さんがにっこりと笑い、「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます」と来る。買い終わると、「毎度どうもありがとうございます。またお越し下さい」と深々と礼をされる私。ううむ、高校のときから通ってたとこだから、そんなに長いわけじゃないんですがねえ。聞いていると他のお客さんだと最初の「いつもありがとうございます」がないっぽい。ううむ。利用頻度が高いせいなんざんしょか。毎回この応対受けるたびに、移動図書館で「久しぶり」的挨拶をされることを思い出したり。


 図書館に行ったら、新刊コーナーに予想してなかった本があった。私の情報網に引っかかるのは文庫とかが大半なんで、単行本では漏れがあったりするのです。市立図書館サイトの「新刊情報」に載ればチェックが入るんですが、更新されるの遅いんですよねえ。で入手した本は小路幸也『シー・ラブズ・ユー』表紙がそれっぽかったのであれっ、と思ったらやっぱり「東京バンドワゴン」と小さく書いてあります。続編だー。『東京バンドワゴン』と『キサトア』で小路幸也再発見な気分だったわけですが(→この辺)。迷わず借りる、どころか前作と『キサトア』まで付けて借りちゃったよう。感想。すんげーよかったざます。下町の古本屋を舞台にした『東京バンドワゴン』は目指しているのが昭和のホームドラマ、といった雰囲気なんですね。予想外に、といったらアレですが、私テレビドラマとかほとんど見ないんですけどねえ、面白かった。死んだばーちゃんの一人称がほんわかしてるし、幽霊なんであちこち飛び回ることで、一人称でなお場面転換もさくさく。キャラクター造形も魅力的だし、四代に渡る家族構成とか家族関係とか無茶だし(今作では曾孫が増えます)。作品のラストで引き(一段落したところで、ちょっとした騒ぎが入って終わる)が入るのもドラマっぽいなあ。書き下ろしだったんで、また一年くらいはお預けなんでしょうが、続編に期待。


 新刊が出るというので、ようやく前作を読んだ高橋和也。『世界平和は一家団欒のあとに』です。評価は、「そこそこよい」でした。続編買ってすぐ読む程度には。「正義の味方」をすることを運命づけられた一家の話。お父さんは高校生の頃異世界召喚されてドラゴン倒したりお姫さまと結婚したりしてるし、お母さんはその御姫さまで魔法使い。その血を引いた長女は魔法使い(酔っぱらいの運び屋)、次女は宇宙にちょくちょく出ていっては地球のピンチを救うヒーロー(暴れ者)、主人公の長男は目つきの悪い高校生で高速移動と相手に付けた傷から生命力を奪う能力者。四女は癒し手で、次男はメガネ中学生で怪力。ヒーローのお約束に縛られた話が展開していくんですが、2巻目になると、「ヒーローが以前滅ぼした悪の組織の家族」が出てきます。かつての首領はリストラされたサラリーマンみたいになってたりするんですが、この一家が遺伝的に「悪の一家」で、必ず世界征服とか悪いことを企んでは無惨な最期を遂げているという宿命に悩んでいたり。さくさく読めてわりに面白かった。


 ライトノベルでは、こうした「お約束」は結構一般的に利用されていて、珍しさといっった点からは大したことはありません。例えば、ぱっと思いつくものを挙げていくなら。新井輝の「あるある夢境学園」シリーズは、変身体質の主人公が転校してきたところ、道端でヒロインの超能力少女にぶつかる場面から始まったり、番長一族がいたり、担任の先生は裏で凄腕のスナイパーだったり、裏で生徒会に協力しているマッドサイエンティスト女子校生はビン底メガネ取ったら美少女だったり。あるいは東亮太「マキゾエホリック」では、巻き込まれ体質の主人公や魔法使い、霊能力者などのクラスメートがそれぞれ一言(「勇者」とか「電波」とか)で表される特性を持っていたりクラスの話。それぞれ敵の組織がいて、学校に攻めてきたりするといろんなヒーローたちが撃退に出てきたりする。名簿がついているところなんかは、某コミックの影響かといったところ。高畑京一郎の「Hyper Hybrid Organization」では、変身ヒーロー(必殺技はキック)と悪の組織の戦闘に巻き込まれた挙げ句ヒーローのせいで恋人を殺された主人公が、悪の組織に入る話。怪人になるのではなく、下っ端の戦闘員の入会試験から始まり、訓練や実戦などが展開していく。となれば次は田口仙年堂の「コッペとBB団」シリーズなども似たようなものか。この世界では「ヒーロー協定」があってヒーローたちは自分たちのテリトリーを越えての活動はできないことになっていたりする。んで主人公のコッペ(謎の少女)が悪の組織BB団を引っ掻きまわして次第にアイドルのようになっていく。ちなみにコッペという名前は腕についてた謎のバーコードを読んでみたら「コッペパン ○○円」が表示されたため。


 ヒーロー系の話に限らず、ライトノベル全般は、かなりの「お約束」で構成されている。始まりは多分神坂一の『スレイヤーズ!』あたりからだろうか。つまり、「トロール」とか「ゴブリン」とかそうしたモンスターやらアイテムやらの詳しい説明抜きに使ってしまうパターンである。同じ頃深沢美潮の「フォーチュン・クエスト」がRPGのパロディとして展開していたりしたわけで。「フォーチュン」ではモンスターを倒したりすると経験値が溜まり、レベルアップしたりといった「コンピューターRPGで起こる現象を小説化したもの」といった側面がある一方で、ダンジョンの奥でブラックドラゴンがテーブルトークRPGにはまっていたりする。もちろん、神坂にしろ深沢にしろ、元ネタを分かった上で、省略したり、詳しくやらなかったり、パロったりしているわけだが、これらの作品に影響を受け、なおかつその元ネタを知らないメンツの作品が出てきているわけですわいな。


 一例を挙げれば、ファンタジー世界において「エルフ」と「ドワーフ」という種族がいると、たいていこの二種族、仲が悪い。何故仲が悪いのか、を設定してある小説は少ない。流れからいうと、こんな形である。

 1)トールキンの創作神話でエルフを創った神とドワーフを創った神の確執があったため、この二種族は仲が悪い。
 2)初のRPGである「ダンジョンズ&ドラゴンズ」がその元ネタのひとつとしてトールキンのイメージを使った。ルールブックには、たしかエルフとドワーフは仲が悪いといった記載があったような。
 3)「D&D」を日本に紹介普及すべくグループSNEが「コンプティーク」誌で展開した「ロードス島戦記」では、当然のことながら「D&D」のイメージ上かつプレイヤーたちがトールキンの『指輪物語』のイメージを用いている(ドワーフのギムの名は『指輪』のギムリから採られている)。
 4)「D&D」から離れて小説等やオリジナルルールで展開しだした「ロードス」では背景世界の紹介でオリジナルの「仲が悪い理由」を設定していたものの、この影響を受けて雨後の筍のように発生していたRPG小説では深い設定はされることもなく。

 といったところであろうか。ちなみに、兎みたいな長い耳のエルフ、は「ロードス島戦記」のリプレイで出渕裕の描いたディードリットが最初である。それまでの、あるいはそれ以降の洋モノのエルフといったら人間のような耳で、上端がとがっているタイプが主なんですな。

 まあ例えで出しましたが、こうしたことをまったく知らない人たちがゲームや小説のイメージから本来トールキンの創作した世界に適用されていたルール「エルフとドワーフは仲が悪い」を「一般常識」として使ったりすると「お約束」が生じることになります。もっと上の世代であれば「お約束」が「お約束」であることが分かっていますから、それなりの対処ができますが(「分かっててそのまま使う」「説明する」「オリジナルの設定を加える」とか)、分からない世代になると疑いもしないわけですね。んで、昨今の若い衆は遡ったりテリトリーの違うところへ踏み込まないことが多いらしいので、一層こうした傾向が強まるかなあというところです。

 省略とか「お約束」自体は悪いことだとは思いません。だってどんな小説だって一定レベルで省略やお約束を使っているわけですよ。現代小説だって、「今読者が見ているような日本」という設定の下、書かれたり読まれたりするわけです。「銃」といったらああいうもので、「東京」とはこういうところで、といった作者−読者が共通に持っているであろうイメージは詳しく説明されることもあまりなく使用されますわな。ライトノベルにおいての「お約束」もそうした面を持っているのかなあと思ったり。実際、深くセッティングしていくなら、トールキンがかつていったように緑の太陽が存在することを読者に信じさせるのは難しいのですから。だから太陽といったら私たちが見る太陽のようなものにしておいて、あまり触れない方が楽なわけです。例えばコンピュータRPGのように「生き返りの魔法」が存在する世界では、死生観はどうなるでしょうか。無謀なことをする人が増えるでしょうか。魔法を使える人が利権を手にするでしょうか。宗教はどうなるのでしょう。寿命で死んだ人は生き返るんでしょうか? また、瞬間移動が可能な世界はどうでしょう。道路など存在しないのでは? とすれば都市の状態は? 人はどこからどこまで瞬間移動できるのでしょう。人が空を飛べる世界では車輪の発明は遅くなったでしょうし、建物の入り口を地面にくっつける必要もありませんし、階段もいりませんな。ひとつひとつの理屈をつけて世界設定に広げていくことで魅力的な世界を創ることも可能です。瞬間移動を技術で可能にした(「どこでもドア」)上、ものすごく気軽に使えるため、ダン・シモンズの「ハイペリオン」ではひとつの家が複数の惑星上にあるなんてことが語られます。ある部屋のドアを開けると別の惑星にある廊下に出たりするのです。人に羽があって飛べる世界において、もし飛べない人間がいたら? という小説だっていくつかあります。お約束をお約束としているだけなら、発想の面では柔軟にはならないだろうなあと思うわけで。もったいないなー。


 などととりとめなく書いてたら、そろそろ眠くなってきました。上みたいなことはしょっちゅう考えていることなんで、また機会があったら書くことにしましょうかね。今回はこのくらいで。








 購入した本:
  六塚光『レンズと悪魔V』、岬兄悟・大原まり子編『笑止』、栗本薫『紅鶴城の幽霊』、高橋和也『世界平和は一家団欒のあとに2』

 読了した本:
  菊池たけし/F.E.A.R.『ラ・アルメイアの幻砦V3(上・下)』、恩田陸『まひるの月を追いかけて』、小路幸也『東京バンドワゴン』『シー・ラブズ・ユー』『キサトア』、大森望・豊ア由美『文学賞メッタ斬り! 2007年度版 受賞作はありません編』、西尾維新『新本格魔法少女りすか1〜3』、三木遊泳『カレイドスコープのむこうがわ』、高橋和也『世界平和は一家団欒のあとに1〜2』、後藤勝『カプコン電子の猛者たち』、藤澤さなえ『ぺらぺらーず漫遊記 乙女の巻』



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